2016年12月30日金曜日

神前有能[第2日]祈る人に

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい

第2日
祈る人に

『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』マタイ6:6

聖書の中の祈りはそう明なもので、愚かではありません。主イエス様が祈り方を教えるときに、初めに言われることばはこれです、『天にいます私たちの父よ。』主は、天におられる父に祈るよう教えていますが、私たちキリスト者は自分の部屋の中にいる神に向かって、祈っていることがよくあります。私たちの祈りは、天におられる父に聞いてもらうために捧げるものです。神は、信仰によって、祈りを天国まで送って欲しいと願っています。それは、私たちの思いが良い時も悪い時も、また、何の思いもないときでも同じです。部屋の中にいる神に向かって祈り、それを聞いてもらえると思っているなら、残念ながら、あなたは部屋の中にいながら、たくさんの奇妙な感覚、魔術的な体験、神の幻影を見るでしょう。これはすべてサタンが見せているものであり、サタンから来るものは、はっきり意識できることもあれば、気付かずに受け取ってしまうこともあります。

自分の部屋にいる神に祈らない人もいるでしょう。その人は、代わりに、祈っている相手に、その祈りを向けることがあります。これも、極めて危険なことです。2000マイル以上離れているところに住む友人がいるとしましょう。あなたは、その人のために祈り、例えばの話、その友人を御言葉で奮い立たせて欲しい、あるいは、救ってほしいと神に頼みます。あなたは祈りを神に向けているのではなく、自分の考え、自分の望み、そして、自分の願いだけに気持ちを向け、想念(魂のちから)としてその友人に送っているのです。その祈りは、あなたの考え、願望や望みを、友人に向けた矢として射る弓のようなものです。その思いの力は、友人への重圧となって、あなたが望んだ通りのことをするでしょう。あなたは、自分の祈りが聞き届けられたと思うかもしれない。しかし、言っておきますが、あなたの祈りに答えているのは神ではありません。神に祈っていないからです。それは、友人に向けた祈りへの答えに過ぎません。

ある者は、『私は友人のために祈りを積み重ねた、』こう言って、祈りが答えられるのは、そのおかげだと言い張っています。つまり、神に向かってではなく、相手の人に向かって祈ったからだと言うのです。あなたの祈りは答えられますが、答えるのは神ではありません。自分では催眠術を知らなくても、あなたが隠れてやったことは、催眠術の方法にのっとっていました。あなたは、これを行うために、まやかしの霊能力を解放していたのです。

なぜ、こうなのでしょう?あなたが、天におられる神に祈ったことがなく、あなたの祈りは、祈っている相手に向かって放たれ、積み上げられ、そして、取り囲んでいるからです。あなたは祈っているように見えますが、現実には、相手に、まやかしの力で重圧を与えているのです。あなたがもし、誰かのために祈る中で、魂の力を使えば、例えば、その相手が罰せられるように、とは言わないまでも、少なくとも鍛錬されるように祈ったとすれば、あなたの魂の力の祈りは相手に突き刺さり、その結果、相手は患ってしまいます。これは、はっきりした魂の法則です。火の中に指を突っ込めば、火傷してしまうのと同じくらい当然のことです。

ですから、相手が期待通りのことをしなかったら、罰してくださいと、求めるような祈りをするべきではありません。そのような祈りは相手に苦しみをもたらし、祈ったものは、苦悩の源ということになります。祈るなら、神に向かって祈るべきであって、人に向かってではありません。私自身もこのような祈りの悪影響を経験したことがあります。数年前のこと、私は一年以上、病いに臥せっていました。それは、5~6人の祈りが、私の上に積み重なっていたためでした。彼らが祈れば祈るほど、私は弱くなってゆきました。ついに、私はその原因をつきとめました。私はこの祈りに抗い始め、彼らが祈ってきたことから解放してくださいと、神に願いました。こうして、私は快復したのでした。

2016年12月29日木曜日

聖書からの約束:慰め

慰め Comfort

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 ■ 詩篇46:1-3


私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。 ■ 詩篇138:7

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。 ■ 詩篇18:2

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。 ■ 詩篇22:24

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。 ■ 詩篇37:24

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。 ■ ナホム1:7

正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。 ■ 詩篇37:39

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 ■ 詩篇55:22

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 ■ ヨハネ16:33

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 ■ マタイ11:28

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。 ■ 2コリ1:5

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。 ■ 詩篇9:9

主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。 ■ 哀歌3:31-33

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。 ■ 詩篇27:14

2016年12月25日日曜日

聖書からの約束:子どもの義務

子どもの義務 Children's Duties

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。 ■ エペソ6:1-3

子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 ■ コロ3:20

父と母を敬え。 ■ ルカ18:20

自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。 ■ 申命27:16

おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。 ■ レビ19:3

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。 ■ 申命5:16

わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。 ■ 箴言6:20

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。 ■ 箴言13:1

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。 ■ 箴言1:10

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。 ■ 箴言15:5

幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。 ■ 箴言20:11

知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。 ■ 箴言10:1

おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。 ■ 箴言28:7

子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 ■ 箴言8:32-33

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、私の心はおどる。 ■ 箴言23:15-16

あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。 ■ 箴言23:22

正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。
あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。 ■ 箴言23:24-26

2016年12月24日土曜日

『トウザーの朝の祈り』12月24日

12月24日
喜びとおどろき

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
ルカ2:10

世界中の人々が、この知らせに感嘆する気持ちを失いつつあるのは悲しいことです。今や現実的な価値のあるものにしか、興味がないと、はっきりことばで表しています!クリスマスの日さえ、堕落してしまいました。

私たちはこの美しくも荘重なこの知らせに関心を失い、こんなことばかりを訊いています、『それが何の役に立つ?どれだけの利益になると言うんだ?』

かつて、神を信じる子供たちが、全ての中に神を見た時代があったのです。彼らは目の前のすべてに心を奪われました。どうでもよい山などなく、すべての山が、神の山でした!雲はどれも同じではなく、神のいくさ車でした!彼らは、すべての中に神を見たのです。私たちの生きるこの時代には、うれしい驚きをもって何かを見上げることもありません!

しかし、ひとつ言いたいのですが、これまでの人生でいつも、クリスマスの朝に小さな子供たちを見ることは、尽きることのない喜びでした。つつましい贈り物であっても、子供が思わずあげる喜びと驚きの声は、偽りがなく、価値あるものでした。びっくりした顔の子供たち、すべてが驚きと美しさにあふれていました!

大人たちが礼拝の中から、感嘆の気持ちを失ってしまうのは、本当に悲しいことです。礼拝とは感嘆に値するものであり、感嘆すべきは礼拝だからです!

主よ、『この民全体のためのすばらしい喜び』の知らせは、2000年前にもたらされた時と、まったく同じくらい、今日も大切なものです。人は堕落したままで、飼い葉おけの中の赤子は今も世界の救い主だからです。神を讃えます!

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月22日木曜日

『トウザーの朝の祈り』12月22日

12月22日
ことばは人となった

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
マタイ3:17

神が人間に示された多くの不思議な御業の中で、もっとも甘美で、やさしさに満ちたもの、すなわち、イエス様の受肉のことを、私はいつも思い、いろいろと考え続けてきました!キリストであるイエス様は永遠なるお方です。時が満ち満ちた時、へりくだられるからです。ヨハネが、分かりやすく語っています。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

正直に言うと、私は赤子だったイエス様を見てみたかったと思っています。しかし、今やすぐれて高い所の大能者の右の座で栄光を受けたイエス様が、かつては、飼い葉おけのわらの中に寝かされていた赤子のイエス様です。卑しいからだを取りながらも、創造主であられ、その飼い葉おけの木を造り、そのわらを造られた方であり、その場にいたあらゆる動物たちの創造者でもあられました。

主はまことに、ベツレヘムの小さな町とその中の全てを造られたのです。主はまた、その夜、その場面でいつまでも輝いていた星も作られました。主は、ご自身の世界、主の御父のものである世界に入られました。私たちがふれ、手に取るものは全てが主のものです。こうして、私たちは主を愛し、主を讃え、主をほめるものとなりました!

主よ、あなたは私たちのために、弱々しくも頼りない赤子となられました。自分から進んで、ここまでへりくだられたことに感謝いたします。生まれた時から、あなたは、人を助けるために自分の持つものを犠牲とするとはどういうことかを示されました。この教えを人生の中で生かし、今よりもあなたに似たものとなれますように助けてください。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月21日水曜日

神前有能[第1日]なぜ祈るのか?この不可思議

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第1日
なぜ祈るのか?この不可思議

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7

祈りとは霊的な世界において、最もすばらしい行動であり、もっとも不可思議な行いでもあります。祈りとは謎です。そして、祈りについて、いくつかの質問を投げかけて、その答えをじっくり考えてみれば、今よりなお、祈りを取り巻く不思議な性質を理解できるはずです。それは、簡単に答えが見つかる質問ではないからです。しかし、ここで言いたいのは、祈りの不思議さは人にはとうてい理解できないとか、祈りに関わる様々な問題は説明できるものではないといったことではありません。ただ、祈りについて本当によく分かっている人は一握りしかいないことを示しているだけです。こう考えてみると、祈りの中で、神のために多くを為すことができるのは限られた人たちだけです。祈りの力は、どれだけ多く祈るかではなく、私たちの祈りがどれだけ、祈りの原理に沿っているかというところにあります。このような祈りだけに、本当の価値があります。

初めに答えていただきたい質問は、なぜ祈るのでしょう?祈りの効能とは何でしょう?神は全能なうえに、全知なるお方ではなかったでしょうか?ではなぜ、人が祈るのを待ってから、働きを始められるのでしょう?すべてご存知のはずなのに、願っていることを話さなければならないのは何故でしょう(ピリピ4.6)?全能の神はどうして、直接、働かれないのでしょう?なぜ、私たちの祈りを必要とされるのでしょうか?求めた者だけが与えられ、捜した人だけが見つけ、叩いたものだけが中に入れる(マタイ7:7)のは、何故なのでしょう?なぜ神は、『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです』(ヤコブ4:2)などと言われるのでしょう?

この質問と同時に、私たちはこう問いかけなくてはいけません。祈りは神の御心と相反するものだろうか?祈りと義の関係はどのようなものだろう?

神が決して、ご自身の御心に反することをしないと、私たちは知っています。扉を開けることが神の御心なら、なぜ御自身で開けずに、私たちが叩くまで待たれるのでしょう?主は、人に戸を叩くよう求めたりせずに、御心のままに、自分から、扉を開けたらよいのではないでしょうか?全知なる神は、扉を開けなければ、私たちが中に入れないことはご存知です。ではなぜ、私たちが叩くまで待ってから、開かなければならないのでしょう?扉が開けるためにあり、扉を開けることが神の御心にかなうなら、また、それだけでなく、開けてもらわなければ人は中に入れないことをご存知だったら、なぜ神は私たちが叩くのを待つのでしょう?私たちが扉を叩くことで、神は何か得るところでもあるのでしょうか?

まだ続けて、尋ねるべき質問があります。神の御心は扉を開けることにあり、また、扉を開けることが義にかなっているとしたら、神は私たちが叩かなくても、扉を開けるでしょうか?それとも、神は、御心と義をあえて行わないまま、私たちの祈りを待つでしょうか。神は本当に、扉を開けたいという御心を、私たちが叩かないために、抑えこんだままにしておくでしょうか。

そうなると、神の御心を、私たちが制限することになるのでしょうか?そんな神が本当に全能なのでしょうか?神が全能なら、なぜご自身から扉を開けず、私たちが叩くまで待たなければならないのでしょうか?神は本当に、ご自身の御心を達成することができるのでしょうか?もし、本当にできるなら、なぜ扉を開けること(神の御心)は、私たちが叩くこと(人の祈り)に、支配されるのでしょう?

この全ての質問を通して、祈りが大きな神秘であることが分かってきます。ここに神の働きの原理を見るからです。それは、神の人々が先に祈らなければ、神が立ち上がって働くことはできない、神の御心は、ご自身に属する人々の祈りを通してのみ実現される、そして、信者の祈りが御心を達成するものである、という原理です。神は、一人だけで御心を満たすことはしません。神の人たちが、共に働きたいという思いを祈りの中で示して、はじめて働かれます。

このように考えてみると、祈りとは信者たちが神とともに働くという作業に他ならない、と言うことができます。祈りとは信者たちの思いが、神の御心とひとつになることです。信者が地上で口に出す祈りは、天の主の御心を言葉にしているに過ぎません。祈りとは、神に願いを伝えて、自分の要求を聞き入れ、個人的な願いを満たしてもらうよう求めることではありません。祈りとは、御心を変えて、主が望んでいないことをしてくださいと迫るものでもないのです。そうではなく、祈りとはただ、神の御心を信者の口を通して語ることです。神の前で信者は、主の御心がなりますようにと、祈りの中で願うのです。

祈りによって、神が決めたことが覆ったりはしません。祈りは何も変えません。主が既に定めたことを成し遂げるだけです。しかし、祈りをしないことは、ある変化をきたします。なぜなら、人が祈りをとおして神と共に働かないと、そのために多くの問題の解決が宙に浮いてしまうからです。

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(マタイ18:18)。』私たちがよく知っている主の御言葉ですが、これが祈りについて語っていることに気を付けてください。そして、後にすぐ、キリストの次の言葉が続きます、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(19節)。』

2016年12月20日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月20日

12月20日
美しいものを愛していますか?

すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
黙示録21:27

この世界のあり方や社会をつぶさに見れば、罪の無残で醜い傷跡が目に留まります。罪は、この世界をみだらに傷つけ、汚し、そこから、一致、調和、美しさを取り去ってしまいました。

とても暗い世界に見えます。神に感謝しましょう。天国はあらゆる魅力、あらゆる調和と美しさにあふれた場所だと言う、明るい約束と展望が示されています。

これはうわべだけの言葉ではあありません。美しいものを愛するなら、地獄は避けた方がいいでしょう。地獄とは、道徳的に醜く、みだらなあらゆるものを具現化した場所だからです。地獄は造られたすべての物の中で最も醜悪なところです。

事実、この世界は、醜いものであふれた地獄と、美しいもので満ちている天国の間に置かれています。ここに住んでいる限り、この両極端な場所のどちらに行くかを考えなければいけない日が来ます。すべてがよい場所か、すべてが悪い場所のどちらかです。

信者である私たちは、永遠なる御子が私たちを救い、美しい天国と、神との永遠の交わりの中に送り出してくれるために来たという、その思いにしっかりと抱かれています。

愛する主よ、あなたの創造されたもの、七色の虹、美しい落日、花が咲き乱れる野原の中に、あなたの恵みと美しさを見せていただけることに感謝します。私たちはそこに、永遠の命を受けた者のために蓄えられている美を見出します。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

聖書からの約束:子供

子供 Children

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 ■ 使徒16:31

なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。 ■ 使徒2:39

あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。 ■ イザヤ54:13

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。 ■ イザヤ44:3

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。 ■ マルコ10:14-16


あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。 ■ 詩篇128:3

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ■ 詩篇127:3-5


しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。 ■ 詩篇107:41


孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。 ■ 箴言17:6

彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。 ■ ヨブ21:11

2016年12月18日日曜日

『トウザーの朝の祈り』12月18日

12月18日
神に支配権をゆだねなさい

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
詩篇119:35

自分でもしつこいとは思いますが、これは何度でも繰り返して語る必要があります。私たちの主は、御自分がで命令できない相手を救うことはありません!

神が、私たちに与えてくれた地上の人生は、決断するための期間です。個々の人間は、いずれ住まうことになる永遠の世界に対する決断を、自分で下します。私たちはイエス様、油注がれた救い主、王の王であり、すべての主の主を、そのままのお方として受け取るという決断しなくてはなりません!自分が主に導かれ、自分の人生を主が支配できることを理解しないままで、その人を救い、召すというのは、主のなさることではありません。

罪の根となるものは、神に対する反逆です。そして、地獄は、御心に従うことを拒否する反逆者が、一人ずつ送られるアルカトラズ刑務所です。

地獄がどのようなところか、たくさんの議論があります。そこで人は、炎、燃えたぎる硫黄や蛆虫に耐えなければならないのかもしれません。しかし、地獄と道徳的存在である人への裁きの本質とは、自分は反逆を犯したゆえにそこにいると気づき、それを意識し続けることです!

地獄は、『私は神に何の借りもない』と述べた、すべての不従順な反逆者が永遠に住まう場所となるでしょう。

愛する主よ、恐ろしい地獄の現実が、私たちの教会で語られることは、もうほとんどなくなっています。罪の行く末を誰も恐れないことも、不思議ではないのかもしれません。教会が尻込みせずに、聖書のすべての真実を世界に伝えることができるように私は祈ります。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月16日金曜日

『トウザーの朝の祈り』12月16日

12月16日
神の隠れた働き

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
テトス3:7

人の胸の内で行われる神の隠れた不思議な働きを、私は信じています。救い主、イエス・キリストの中に、寛容で人を変える力を持った神の恵みを見出した後、私もその働きを信じずにいられなくなりました。

私の父と母は、人間性という面では高い水準にありましたが、神を思う気持ちはまったく持っていませんでした。二人とも、神を求める心が現れることはなく、その態度は冷たく、世俗的で、現実しか見ていないようでした。

こんな100パーセント、不信仰に取り巻かれた環境にいながら、なぜ、私は17歳で、母の屋根裏部屋に続く道を見出し、ひざまずいて、心と人生の全てをイエス・キリストに捧げることができたのでしょう?

理由はとても説明できません。私にただ言えるのは、神の呼びかけを聞く鋭敏さを持った人間の中には、神の秘めた働きとも呼ぶべきものがあるということです。私自身、自分のイエス・キリストへの回心は、はっきり起こった事実であり、他のどんな人の回心と変わるところがなかったと、証しできます!

愛する仲間たちよ、神の霊が今も、あなたの心を揺り動かしているなら、神に感謝してください。そして、光を追いかけて行きなさい!

主よ、ほとんどの信者は、あなたが人の心の中で成す『隠された働き』を、個人的な経験から知っています。私は今日、世界中の犯罪者やテロリストたちの、今はかたくなな心にあなたが働いてくださるよう祈ります。そして、天の御使いたちにも、その働きの成果を喜んでいただけますように!

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月15日木曜日

『トウザーの朝の祈り』12月15日

12月15日
賛美で手いっぱい

彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主。」 
黙示録4:8

死が私たちの態度や性質を変えると願い、また、信じることは、人間にとって、明らかに誤った考え方です。

私が言いたいのはこういうことです。もしこの人生で、天国とその喜びについて語り、歌うことに、本当に心からの幸せを感じていなければ、死が私たちを熱心な信者に変えるはずなどありません!今、神を礼拝し、敬慕する気持ちがないのなら、死ぬ時が来ても、それは重苦しいものでしかないでしょう。

神が、無理やり人を天国に送ろうとされるでしょうか。私には分かりません。神が、誰かに向かって、『あなたは、地上にいる間、私を拝むことに興味がなかったけど、天国に来たら、それがあなたの最大の関心ごとになって、絶え間なく拝み続けるようにしてあげよう』など言うとは、とても思えません。

問題ある発言ですか?

そうかもしれませんが、ヨハネは天国の場面で、生き物たちが昼も夜も絶え間なく、こう叫んでいるところを描いています、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!』私が恐れるのは、この世で、神への信仰をうたっている人の多くが、生ける神を褒めたたえ、賛美しようと努めながらも、合間に手を止めている時間が長すぎることです!

主よ、私の人生の全てが、今日のこの日も含めて、あなたへの礼拝の捧げものとなりますように。そして、私が天国に着く時には、あなたを拝む準備が整っていますように。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

聖書からの約束:ほどこし

ほどこし Charity

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。 ■ 詩篇41:1-2

寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。 ■ 箴言19:17

祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。 ■ ルカ14:13-14

 
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 ■ ルカ12:33

自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 ■ 箴言14:21

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。 ■ ルカ6:38

彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。 ■ 詩篇112:9

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 ■ 1コリ13:13

貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。 ■ 箴言28:27

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 ■ 2コリ9:7

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 ■ 箴言11:24-25

私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。 ■ 詩篇37:25

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 ■ 1テモ6:17-18

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 ■ 伝道者11:1

飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。 ■ イザヤ58:10

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。 ■ イザヤ58:7-8

あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 ■ 申命14:29

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 ■ マルコ10:21

その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。 ■ 詩篇37:26

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 ■ マタイ6:1-4


そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 ■ マタイ25:34-40

2016年12月14日水曜日

『トウザーの朝の祈り』12月14日

12月14日
前へと進んでいきなさい

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。
ルカ24:45

経験を伴わない真実は、誤った考えと変わらないもので、同じくらい危険となることもあります。

思い出してください。モーセの座を占めた律法学者たちは、間違った考えを持っていたのではなく、自分で教えた真実を経験できなかったと言う意味での被害者でした。

キリスト者にとって最大の敵のひとつは、宗教的な自己満足であると、気づいてください。もう『たどり着いた』と信じ込んでいる人は、それより先に進めません。そして、自分が、『到達した』ことを示すために、御言葉を巧みに引用して人に聞かせながら、その御言葉を心のうちで現実に経験したことがなければ、そんなやり方は危険なものとなりかねません。

過去の偉大な聖徒たちはみな、熱心に求める心を持っていました。神への強いあこがれで、彼らは燃え尽きてしまいました。彼らは一心に前に進み、上に登ろうと努めました。しかし、熱意のないキリスト者たちは、その高みをけだるい目で見るばかりで、自分もそこに到達したいなどと考えもしていなかったのです。

こんな激励の言葉を、私たちは人に投げかけたいと思います、『祈り続け、戦い続け、歌い続けなさい!』と。神の深みへと進んでゆきなさい。足はしっかり地に着けたまま、心はどこまでも高く上らせなさい!

主よ、私たちの教会とあらゆるキリスト教団体で働く人たちのために祈ります。彼らがぬくぬくした現状の中に浸って、満足しないように勧めてください。魂を獲得する戦場に進んで出て行くよう、彼らの心をかきたてください。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月13日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月13日

12月13日
神に栄光を

栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださる。
第1ペテロ4:14


御霊が中に入って油を注ぐとき、私たちは礼拝する者となります!

だからと言って、世界中の全てのキリスト者が、同じように礼拝しなくてはいけないと言うことではありません。御霊の導きの下では、信者たちはどこにいようとも、心を揃えて神を讃えています。

イエス様がエルサレムに入って、ご自身を救世主として現された時、そこには大勢の群衆がいて、大きな声で騒いでいました。礼拝は声に出して行われることが多いとはいえ、大声で叫んでいるときこそ、人は神を礼拝しているなどと、私は考えていません。しかし、私が思うのは、教養があり、静かで、冷静で、落ち着きがあり、洗練された人たちを現す言葉があります。教会でキリスト者仲間が明るく、『アーメン!』と言うのを聞いて、当惑してしまうようなら、彼らには何らかの霊的な啓蒙が必要かも知れません。

信者の誰かの、『神に栄光を!』という言葉にうんざりするのは、神を崇める聖徒たちに御霊が与えようと待っている霊的な祝福と喜びを、あなたが知らないためかもしれません。自分の立場からしかお話できませんが、私は礼拝する人たちの中にありたいと思っています!

愛する主よ、私はあなたへの礼拝がいつも、心からのものであり、そこに、この世的なごまかしも心の乱れも、入らないよう祈ります。いつの日か、あらゆる聖徒たちと天国でともに立ち、心とまことにおいて、あなたを王として崇めることができたら、なんと言う喜びでしょう。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月12日月曜日

『トウザーの朝の祈り』12月12日

12月12日
ただの名前ではなく

主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。
第2テモテ2:19

いつの世も、キリスト者と自称する人たちがいて、こう言い張ってきました、『私は正しい、私はイエスの名によって祈っている。』彼らは、神への礼拝は何か決まった形式に基づいて行われると信じ込んでいるようです。イエスの名を唱えることを、何かの魔法の呪文とでも考えているのでしょう。

御霊の助けを借りて、注意深く、聖書を調べるなら、イエスの名前と性質は、ひとつであることに気づくでしょう。イエスの名前のつづり方を知っているだけでは十分ではありません!

私たちが主と同じ性質を持つようになり、御心に従って求めることができるところまで来たら、主は私たちが欲し、必要としている良いものをくださいます。

私たちが神を崇めるのは、新しく生まれ変わった結果です。その時、神は喜んで、私たちに名前以上のものを与えてくださったのです。

主が、私たちにくださったのは新しくなった性質です。ペテロはこの真実をこのように表現しました、『その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。』(第2ペテロ1:4)

主よ、私は祈ります。使徒パウロが信者たちを『神のご性質にあずかる者』と書き記した言葉のように、キリストの御体(なる教会)も自分をみなすようになって欲しいと。この思いを込めて自分を見れば、イエス様が弟子としての私たちに期待しているものに、変わっていくことができるでしょう。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月10日土曜日

聖書からの約束:信じること

信じること Belief

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ■ ヨハネ3:16

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。 ■ 使徒10:43

それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 ■ ローマ9:33

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 ■ ヨハネ1:12

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 ■ ヨハネ3:18

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 ■ ヨハネ3:36

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 ■ 1ペテ2:6

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 ■ 使徒16:31

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 ■ ヨハネ12:46

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 ■ ヨハネ6:35

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 ■ マルコ9:23

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 ■ ヨハネ20:29

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。 ■ ヨハネ6:47

2016年12月6日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月6日

12月6日
誰でも来なさい

いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
黙示録22:17

神の人への接し方には、不思議な美しさがあります。主は、世の救いをひとりの人間の中に込め、そして、その人を地上に送って、こう言いながら目立たない道を歩くようにされました、『願うなら誰でもわたしについて来なさい!』派手な鳴り物もなく、足を踏み鳴らして従う軍勢もいません。

やさしい『旅人』がこの地上を歩いています。その声はあまりに静かで、この世の喧騒の中に消えてしまうこともあります。しかし、それは神の最後の声であり、そして、私たちは静まって耳を傾けるまで、真実のメッセージを受けることはありません。

『だれでも』というこの言葉で、主の招きがすべての者に向けられていること、そして、人間にはそれに応じる自由な意思があることを、主は教えてくれます。誰でも来てよい。来なくてはいけないのではない。そして、来るものは、自分でそれを選んだのです。

この意味で、誰にとっても、未来は自分の手の中にあります。世界の権力者たちだけでなく、多くを語ることのない無名の人も、『運命の人』となります!人は、魂の進む道を自分で決めます。人は自分で選び、運命の待つ方向に足を踏み出します。自分の決断によって、地獄に飲み込まれるか、天国に新しい家が用意されます!

ご自身の中の実に大きなものを、神は人間にくださいました!

愛する主よ、私は今日も家族と近しい友人のために祈ります。その中に、まだ賢い選択をしていない者がおり、まだ、家の外からこちらを見ています。主よ、私は、あなたの霊が彼らの心を溶かし、いつの日かあなたの元に来るように祈ります。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月5日月曜日

『トウザーの朝の祈り』12月5日

12月5日、新しい日を始めよう

義人の道は、いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4:18

人がキリスト者となるときは、太陽が昇って、新しい一日が始まった時間のようだ、と聖書は言っています。それから、その道に沿って生きてゆくに連れ、輝く光のように、いよいよ輝きを増して真昼となります。

ここでひとつの疑問が浮かんできます。もし、キリスト者はみな、同じような立場、状況にあるとしたら、なぜイエス様はここで、キリスト者の生活が3つに分かれているような指摘をされたのでしょう?『あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍。』(マタイ13:23)

もし、私がみな、同じようなものであり、同じ場所、同じ状態に『至った』のなら、なぜ使徒パウロはピリピのキリスト者たちに、こう語ったのでしょう、『私はすべてのものを捨ててでも、キリストを知り、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。』(3:7~11を参照)

人は、自分が信じたことのないものを経験することはできない、と私は考えています。それでも私は人々を教え、在り来たりでごく普通のキリスト者としての道を進みながらも、前に進んで、まだ知らない霊的な勝利を宣言するように、励ましていかなくてはいけないと思います。

主よ、日々、キリスト者として生きながら、あなたのように成長したいと試みている私を、あなたの御霊が、いつも、ともにあって励まし、教え、導いてくれることに感謝します。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月4日日曜日

聖書からの約束:怒り

怒り Anger

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 ■ 詩篇145:8

あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる。 ■ ネヘ9:17
 

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 ■ 詩篇30:5

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。 ■ ヤコブ1:19-20
 

軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。 ■ 伝道者7:9

短気な者は愚かなことをする。 ■ 箴言14:17

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。 ■ 箴言16:32

激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。 ■ 箴言15:18

怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。 ■ 箴言29:22

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。 ■ 詩篇37:8

おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。

あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。 ■ 箴言22:24-25

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。 ■ 箴言15:1

父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 ■ コロ3:21

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。 ■ エペソ4:26

人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。 ■ 箴言19:11

争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。 ■ 箴言21:19

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 ■ マタイ5:22

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 ■ エペソ4:31-32

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 ■ ローマ12:19-21

もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。 ■ 箴言25:21-22

憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。 ■ 箴言27:4

しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 ■ コロ3:8

2016年10月22日土曜日

心から心への言葉[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること

[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

自分の体を痛めつけるとは、肉体の自然な欲求を否定することを言います。これを行う人は、霊的であるとはみなされません。冬になっても温かいお湯を使わず、冷たい水で顔を洗う兄弟がいました。彼はまた、体を痛めつけるために、冬の間も薄着で通しました。ある姉妹が、私を食事に招いてくれました。彼女が作ってくれた料理は奇妙な味がしました。理由を訊いてみると、その答えはこうでした、『霊的になるためには、自分の体を痛めつける必要があります。よい食事をすれば、肉に楽しみを与えることになります。そんな人は霊的にはなれません。だから、肉が喜びを得ないように、私はおいしい料理を作らないことにしているのです。』確かに、キリスト者は、この世の楽しみや、贅沢な食事を求めるべきではありません。しかし、だからと言って、わざと不味い料理を作ることも間違っています。

では、『自分のからだを打ちたたく』(第1コリント9:27前半)とはどういうことでしょう?これは、肉体から来る欲求が、霊的な生活の妨げとなることを許さないという意味です。この生き方を貫くキリスト者こそ、真に霊的と言えます。『からだを打ちたたく』は、肉体からの自然な欲求はあっても、主とその働きのために必要とあらば、その欲求を投げ出すことをもいとわないということです。自然な欲求をすべて満たすことに執着し続けるなら、そのキリスト者は、体を打ちたたくという霊的な教えを学んでこなかったことになります。

以前、私は一人の兄弟と旅をし、ある家に滞在しました。食卓についている間、彼は箸を休めることなく、皿に盛られた好物を口に運び続けていました。はじめの旅の後、10年以上経って、再び彼と旅することになりました。その時も、この兄弟は同じことをしていました。この人は、自分の体を打ちたたいて従わせるとはどういうことか、明らかに学んでこなかったのです。自分の体を痛めつけるというのは、体からの自然な欲求をも拒絶すること、肉体のあり方をねじ曲げることを言います。このような行動は誤りです。一方で、からだを打ちたたくことを学ばなかった人は、主の御手の内であまり役に立ちません。

あるとき、私は二人の兄弟と主の奉仕のために出かけました。彼らは、とても活発に福音を述べ伝え、また、熱心に人を助けていましたが、一日のある時間が来ると決まって、働くことをやめて、休み始めるのです。昼食の後は、午睡の時間と決めていたからです。その合間も、多くの人が交わりを持ち、助けを求めるために来たのですが、彼らは誰にも会おうとしませんでした。その時間、私も彼らに手助けを求め、無理に頼みさえしたのですが、無駄でした。これでは、自分の肉に合わせ、自己憐憫や自己愛にふけっているだけです。彼らは自分の体を打ちたたくことを学んでいなかったのです。

中国の道教、仏教は体を痛めつけると言う概念を採り入れていますが、この考え方は聖書的ではありません。『からだを打ちたたく』と言ったとき、パウロは体を自分に仕えさせることについて語っていたのです。彼は、体を自分に仕えさせることができ、自分の肉体に支配されることはありません。これは、人の霊的ないのちが、体の欲求の前に決して、くじけないことを意味します。冬に顔を洗うときは、必ず温かいお湯を使うと決めている人は、体を打ちたたいて従わせることを、身をもって学んでいません。私たちは、体の働きを壊さないように、肉体的な必要には注意を払うべきです。しかし、同時に、この体は霊に支配されていなければなりません。

悲しいことに、兄弟たちの中にも、満腹するまで食べずにいられない人がいます。空腹に耐えられないのです。眠りが足りないと生きていけないからと言って、好きなだけ寝ている人もいます。また、清潔さにこだわるあまり、部屋にホコリがあったり、散らかっていることに耐えられない兄弟がいます。そして、また、堅い木の上では眠れないと言って、やわらかい寝台しか使わない人もあります。これらはみな、その兄弟たちが体を打ちたたくことを学んでいないことを示すものです。キリスト者も、心は燃えていても、肉体が弱いうちは、体を打ちたたくことを学んでいません。このような『自分を愛する』人たちは、神の手の中で、ほとんど役に立ちません。体を打ちたたいて従わせるにはどうすればよいのか、神の深いあわれみを受けて、学ぶことができますように。

2016年10月18日火曜日

心から心への言葉[51]キリストの体の部分となるために

[51]キリストの体の部分となるために
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちは十字架がすべての中心であると信じています。しかし、十字架そのものが目標ではありません。十字架は神のきよい目的を理解するための道であり、その目的とはキリストの体です。十字架が生活の中で働くことができれば、自分がキリストの体の一部となったことが分かるでしょう。

多くの信者は、聖さこそが自分の勝利であるかのように追い求めますし、確かにそれは価値あるものです。しかし、神が霊的な経験を与えるのは、私たちがキリストの体の部分となるためであり、霊的な巨人として世界に出てゆくためではないことを心にとめましょう。

私をキリストの体の部分としてくれるものは何でしょう?神が私にキリストの体を見させてくれたら、その啓示は私の生活をどのように変えるでしょう?新しいところに光を当てて、何かを説明してくれるだけでしょうか?いや、この啓示は人生を根底から覆すものでなくてはなりません。それはまさに、私がいかにしてキリストの体の部分とされたかという啓示です!これまでに経験したことや、これから行うことではなく、内なるキリストこそが私を御体の一部としてくださるのです。

私をキリストの体の部分としてくれるものは、自分が持つ能力や行いから出るのではなく、私の中の主のいのちを通して現れます。キリストの体とはキリストだからです。

使徒パウロは、コリント人への第1の手紙の中で説明しました、『ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です(12:12)。』この一続きの言葉の中で、パウロは文法的にも、霊的にも、何ひとつ間違いをおかしていません。文法に関しては、パウロは最後の一文をこう書くべきだったと言う人もいるかもしれません、『キリストと教会もそれと同様です。』しかし、この使徒が言おうとしたことは、かしらはキリストであり、体もまた、キリストであることです。キリストから来るものはすべてが御体を形作るのに対して、キリストから来ていない物は何ひとつこの体に加わることはできず、切り捨てるしかないからです。

従って、これは何を加えるかでなく、何を差し引くかという問題です。すなわち、キリストの信者が、キリストの体に入り、その一部となるために、何を得たり、何かをする必要はありません。信者に必要なのはただ、自分の持てるものをすべて取り除くことです。そして、まさにこの時点で十字架が目の前に現れます。私から、キリストの体の部分となり得ないものを全て取り除くために、神が用いるのはただひとつ、十字架だからです。私自身の中から生まれる性質や気性といったものは、切り捨てる必要があります。中には、とても利口な信者もおり、自分の明晰さを通して、神の言葉を理解し、人に伝えることさえできると信じています。しかし、このような考えは捨て去らなければなりません。何としても、自分の心から抜け出すことが必要です。頭には救いの兜をかぶらなくてはなりません(エペソ6:17前半)。

キリストの体を知り、体験するためには、大きな犠牲が伴うことを理解しなくてはなりません。これはいのちの根源に関わるものです。なぜなら、キリストの体の中では、一部分だけの独立した行動は一切、行うことができないからです。この体の中では、気ままな行動は許されません。人間の体の中も、キリストの霊的な体でも同じことです。手が動けば、腕の筋肉も動かないわけにはいきません。腕が動くとき、指も必ず従います。これが意味するのは、キリストの体においては個人的な言動は全て、消し去るしかないということです。私たちは誰もが、キリストの御体の部分として、協調して動き、お互いに支えあわなければなりません。誰一人、自分だけで存在することはできず、ひとりひとりが兄弟たちと手を取り合って、前に進まなければいけません。

さて、本当にキリストの体を見たなら、他のかしらを持つことはきっぱりと拒絶しなくてはなりません。かしらであるキリストと共にあることはできないからです。ダビデには二人の敵がいました。ゴリアテとサウルです。一人は外にいる敵であり、もう一人は内側にいました。そのどちらも、かしらとしての性格を持っていたことに注意してください(第1サムエル17章4節、10~23節を参照)。頭から生まれる思いや考えと言ったものは、油注がれた者(この場合はダビデ)がイスラエルのかしら、王となって、玉座につく妨げとなります。ある日、ダビデの放った石が額に一撃を与え、ゴリアテを倒しました。まったく同じ日に、(油は注がれても神に拒絶されることになった)サウルの命運も定まりました。私たちは、この世界のあり方を撃ち破る必要はありません。私たちの格闘は、『血肉に対するものではないからです(エペソ6:12前半)。』ゴリアテが倒された時、かしらであったサウルの問題も解決したのです。

本当に十字架を知っていれば、それはあなたをキリストの体の経験へと導くはずです。多くのキリスト者が、主と、十字架の深い意味を分かっているつもりでいます。また、彼らは自分がキリストの体の真実を理解しており、すべてのキリストを信じる兄弟たちと、キリストにおいて一つになっていると主張します。誰もが、古い人を捨て去らなければならないと断言します。それなのに、古い人の性質から実際に離れることができないでいるとは悲劇的なことです。心にとめておいてください。過去も、現在においても、神があなたの人生で起こされたことはみな、キリストの体を経験するための用意だったのです。主が私たちの内になされることはその全てが、道を整えて、キリストの体の部分として役に立つものとするための備えです。

2016年9月30日金曜日

心から心への言葉[50]きよく、正しく、神に仕える

[50]きよく、正しく、神に仕える
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主(神)の御前に仕えよ』(ルカ1:75)。救われて、聖別されたものは、神に仕える者となります。神に仕えることについてルカの福音書はうたっています、『きよく、正しく、恐れなく、主に仕えよ。』きよさは私たちの側にあるもので、正しさとは他の人たちとの関わりを指すものです。きよさは神が与えてくれる、いわば贈り物です。正しさは学んで得るもの、すなわち、経験なのです。きよさとは性格上の特質であるのに対し、正しさとは学んで得る習慣です。きよさはいのちであり、正しさは生き方です。

主イエス様はご自身のことを、『わたしが道であり、・・・・いのちなのです』と言われました(ヨハネ14:6前半)。私たちのいのちはきよく、私たちの道は正しいのです。いのちは私たちの中にありますが、道は人に向かって出てゆきます。内に神のきよいいのちを受けた後は、外に向けて正しく生きる必要があります。外に向けた正しい生活は、内なるきよいいのちの力がなければ成り立ちません。キリスト者は、外から見ればもっとも正しい人と映るかもしれませんが、内なるきよさに支えられたものでなければその正しさには意味がありません。きよさと正しさは、言わば、一枚の硬貨の表と裏のようなもので、両方がなければ成り立ちません。私たちはきよさと正しさの両方において、主に仕えなければなりません。

正しさの問題について考えてみましょう。正しさとは、人やものごとにどう対処するかを示すものです。人は、救われるまで、間違った人生を生きてきました。自分を良いものと思い込んでいたために、そのことに気づいていませんでした。しかし、救われた時、人は神のきよいいのちを受けるのです。こうして、間違った生き方を見直し、正しい人生を始めることになります。これによって、正しさがその人の中に宿り、愛に満ちた行動がおのずと生まれるようになります。正しく、義なる者として、人との毎日を生きていくうえで、間違ったことをしたり、不正なものを受け取って手中に収めると言ったことは、はっきりと拒絶しなくてはいけません。この拒絶は、内なるきよいいのちと神の性質から生まれるものであり、神からの贈り物としていただいたものです。このような二つのつながりを、理解できているでしょうか?

古い話しです。救われた後の3年間、私は正しい人であろうと努めましたが、義とはなんであるか、はっきり掴んでいませんでした。ある日、私は、キリスト者の大きな集いで、演台の下、前の席に座っていた宣教者の話しを、新聞で読みました。立ち上がって演台に登るとき、他の席の上の歩かなくてはいけませんでした。彼はうっかり、人の外套を踏んで、汚してしまいましたが、謝ろうとはしませんでした。これを読んですぐに私は、正しくないとはどういうことなのかを悟りました。この説教者には、人のレインコートを汚す権利などなく、それは正しくない行動です。光を受けた時から、私は正しくない行いにどう対処するか悟ったのです。

人生には、多くの正しくないものごと、問題があります。正しくないことは、お金、態度、時間、所有物、などいろいろな場面で、自ずから現れてきます。正しさを追求することは、とても良い霊的な訓練となります。この意味で、御霊からいただける啓発は日光、私たちは窓ガラスに例えることができます。ガラスが何度も煤けたら、いずれは不透明になってしまいます。すなわち、問題は日が当たっているかではなく、ガラスがその光を通すかということにあるのです。まったく同じように、大切なのは、聖霊が光を当ててくれるかではなく、私たちの内側が曇りない状態に保たれているかということです。私たちが義を求めるのは、ガラスをいつもきれいに磨いて、透き通らせておくようなもので、それによって、いつでも聖霊の啓発のもと、霊的な感性を保ち、正しく生きることを可能としてくれます。

2016年9月24日土曜日

心から心への言葉[49]真実と光

[49]真実と光
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

天の真理を見るためには、神に光を当てていただくことが絶対に必要です。『どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください』(詩篇43:3前半)。神が照らし出すものとは何でしょう?神の光は、ご自身の真実を照らします。これを理解することはとても大切です。神の光を通してはじめて、その真理を知ることができるからです。真実は説教を聞いて学ぶものではなく、神の光を通して伝えられるものです。今日、兄弟姉妹に、『キリストの助けを受けたことがありますか?』と訊けば、おそらく、多くが、『私は死にましたが、なぜか真実は私のうちに働いていません、』と答えるのではないでしょうか。これは私たちが真理について聞いても、それを見ていないからです。真実を本当に見た者は、光を当てられた者であるはずです。

ある兄弟が証ししました。神がローマ書6章を読むようにと彼の目を開き、その後で彼はエペソ書6章も見たそうです。彼は、自分の死は事実であると同時にキリストの勝利でもあること、そして、自分が確かにその勝利にあずかっているという事実を見たそうです。それまでの彼は、何かを求めていましたが、今はそれを手に入れました。以前の彼は、主の勝利を願っていましたが、今はこう賛美しています、『主はすでに支配された。』それまでの人生とは、なんと言う違いでしょう。かつてはただ、あこがれ、願っていたものが、今は現実となりました。もう、それを掴もうと手を伸ばすことはしません。既に手の中にあるからです。光が来るとき、私たちは立ち上がって、それが完了したと告げます。

キリスト者は誰もがこのような啓発を経験しています。少なくとも、救われたときに一度は経験したはずです。救われたとき、そこで見たのは、救いへの期待や救いへの願望ではなく、また、いずれは救われるという希望でもなく、すべてがキリストにあって、既に成し遂げられたという事実でした。この啓発のもとではじめて、人はキリスト者となりました。すべてのキリスト者は、この光を現実の中に見たのです。実際には、あらゆる霊的な経験は、こうして真実を知らされるところから始まります。真理が広がっていくとき、そこに光が当てられなければ、単なる教義となってしまいます。しかし、神の光を受けるとき、真実は啓示へと変わり、啓示によって、私たちは真実を得るのです。啓示がなければ、人間的な論理で心を満たすことしかできません。啓示を得たものだけが、現実といのちを持っています。

神の光によって啓発されたとき、聖霊が霊的な現実へと導いてくれます。第一に、慰め主が真理の御霊と呼ばれていることから、真理の御霊が存在することは確かです(ヨハネ14:16を参照)。また、一方では真実の言葉である聖書があります。一つには事実としての真理があり、それは神がキリストにおいて成されたことです。聖書は私たちが信じるこの真理を示してくれます。それから聖霊は、私たちを真理の中へ、霊的な現実の中へと導いてくれます。主イエス様がその現実です。御霊によって、神は私たちをこの現実へと引き寄せます。そこで待っているのは、単なる教義や教えではありません。こうして、私たちは自分だけの感情や経験の中にではなく、キリストの成し遂げられた事実の中に生きることになります。

2016年9月17日土曜日

心から心への言葉[48]神に用いられるためには

[48]神に用いられるためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

救われた日から、神はご自身のいのちを私たちの中に入れ、生活の中の様々な問題を通して少しずつ訓練してくださいます。主が私たちに学んで欲しいのは、ご自身と協調して、共に働くことです。神は、ご自身の性質を私たちの中に混ぜ合わせて、御手の内に用いることを願っておられます。神の性質がどれだけ形作られているかということが、神にとってのあなたの価値を計る物差しとなります。内なる神の性質が大きくなるほど、あなたは神に用いられるものとなります。神の性質は、祈るときや、聖書を読んでいるときだけでなく、普段の行動の中でも、増し加わってゆきます。神のいのちが混じることを通してのみ、私たちは霊的に有用な者になってゆくからです。神の人格が中に溶け込むことだけが、私たちを、主の助けとなるものに変えていきます。入り込んだものは小さくても、それが私たちの霊的な価値となります。神がご自身を混ぜ入れるとき、そのいのちが神にとっての私たちの価値として現れます。

すなわち、神がその時々に行うことは、すべてが私たちの中にご自身の性質を日々、増し加えるためなのです。人としての性質があまりに強固であると、神は私たちを通して光り輝くことはできません。しばらくの時間が過ぎると、少しずつ、主は私たちから、外に現れてきます。この過程は、神のいのちが私たちから完全に現される日まで続きます。こうして、キリスト者としての全生涯を通して、神はご自身を私たちと混じり合わせ、これによって、私たちは神への助けとなることができます。

霊的に学んでいる時、心を何に集中するべきでしょうか?福音書にあるように、ペテロはおよそ3年間、主とともに歩きました。彼は何を学んだでしょう?主がペテロに教えたのは、神の御性質がどのように人の心の奥底まで入り込めるかと言うことでした。このキリストの弟子は、自分の考えを捨てて、主の考えに入ることを学びました。文字では書かれていなくても、福音の中にその様子がはっきり見て取れます。

自分の考えから抜け出すことを学ばなければ、神に用いられる者にはなれません。すべての奉仕は神から始まり、一度、私たちの中に入ってから、外に現れるべきものであると、心にとめておきましょう。神が中に入り、そして、外に現れてゆくことができなければ、人は私たちの心に触れるだけで、神の心には触れません。自分の心の中にだけ生きることは、人々の心が神にふれる道を閉ざしてしまいます。私たちを通して、人に神にふれてもらうにためは、自分自身から抜け出すことを学ばなくてはいけません。

2016年9月10日土曜日

心から心への言葉 [47]休むことは力

[47]休むことは力
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30:15後半)

霊的な生活において、人がよく陥る過ちがあります。外から見て忙しく立ち働いているときほど、内面では混乱してしまうのです。忙しさで手一杯にはなっていなくても、やはり、私たちの内なるいのちは乱されています。このような状態ですと、外の状況に対応する能力が失われてしまいます。休むことは、キリスト者の生活における力であると覚える必要があります。神ご自身がこう言われたからです、『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』興奮しやすい人は、神の前に強くありません。心の乱れている人々は主の前で力を持っていません。私たちの強さは、内なる静けさと休息から来ることを、理解しなければいけません。

渦巻く風の奥には中心があります。風は外側では高速で渦巻いていますが、中心はもっとも静かです。同じように、内面が静かな生活が、私たちに力を与えてくれます。外の世界では風が吹き荒れていても、内側は完璧な静けさを保っています。『落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』心が外の騒がしさにかき乱されて、静寂を失うことはあってはいけません。そうなれば、周りの世界に押し流されてしまいます。

海を考えてみてください。表面では、波が高く上がり、風が強く吹きつけもしますが、深い底では、何一つ動くものはありません。静寂に満ちています。海底に棲む生物を調べた人々は、その研究結果から、大洋の底ではほとんど動きがないことを証明したそうです。同じように、キリスト者としての生活においても、静寂と休息が必要です。ゆっくり休むことはできなくても、忙しく働く中に、内なる静けさを保つような者であるべきです。内なる休息があれば、敗北することはありません。どのような状況にあっても、私たちは主の前に、何一つ起こっていないかのように生きることです。主が私たちの中におられて、静穏な人生を求めることを助けてくださっています。

休むことの秘訣とは何でしょう?ひとつはピリピ書4章6~7節に見られます、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

キリスト者が休息を得るための一番の秘訣は、生きていく上で出会うすべてのこと、要求、仕事、必要、困難などを主に打ち明け、真摯にこう告白することです、『主よ、私はこれらすべてをあなたの御手にゆだねます。』こういった問題に直面したら、祈りと願いによって、感謝とともに、それを主にゆだねてください。何が起ころうと、それを神にゆだねてください。ゆだねたその時、神の平安があなたの心を守り始めます。ゆだねさえすれば、主の平安はすぐにでもやってきます。こうなれば、あなたも私も、日の出から日の入りまで、外の世界に押し流されることはなくなります。困難がどれほど大きくても、どのような問題があろうと、神の平安は私たちに留まり、良心を安らかに保ってくれます。

二つ目の秘訣はマタイ11:29に与えられています、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』一つ目の秘訣は信仰であり、二つ目は従順です。神があなたの上に次々と困難な状況を起こすとき、主から与えられた試練に抗ったり、主の御心に逆らい、また、御心とは違うことを求めれば、内なる平和はありません。休息とは献身からやってくることを、覚えてください。困難が起こったとき、ただ、あなたが主から学び、主のくびきを負いさえすれば、自分の思いを遂げることができずにいらだっていても、やはり、心には平安が生まれます。もし、主に向かって、『主よ、あなたが何をして欲しいのであれ、私は喜んでそれをします、』と言えば、間違いなく魂に安らぎを見出すでしょう。人間的な不満や期待は必ず、休息を奪ってしまいます。

2016年9月3日土曜日

心から心への言葉[46]貧しさについて

[46]貧しさについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。

霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。

多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。

貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。

2016年8月23日火曜日

心から心への言葉[45]良心の示す道に従いなさい

[45]良心の示す道に従いなさい
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

自分を欺くことはやめて、御霊に従うことを学び、また、自分の良心の命ずる声を聞きましょう。内なる声から逃げようせず、注意深く耳を傾けてください。御霊に従えば、私たちはどんな時もへりくだって、良心の正す声に耳を傾けることができます。信じる者が、自分の多くの罪をひとつひとつ見つけだして、数え上げることなどできるはずがないと考えて、あいまいで通り一遍の告白をするのは間違ったことです。このような漠然とした告白は、良心の正しい働きを殺してしまいます。このようなことをせず、御霊が良心にふれるにまかせ、自分の罪をひとつづつ、はっきりと現していただくべきです。信者が行うべきはへりくだって、静かに、そして、従順に、良心がひとつひとつの罪を現すのに任せることであり、そうすることで、良心の裁きを受け入れ、神に抗うすべてのものを吐き出したいと願うようになります。

あなたは、良心に、自分の生き方をすべて探っていただこうという考えがありますか?自分の良心に、本当の心の状態を明らかにしてもらう勇気がありますか?自分の良心に願って、あなたの生活とのすべてを、神の御心の前に広げてもらおう思う気持ちを持っていますか?自分の良心を切り開いて、すべての罪をさらけ出してみたいと思っていますか?その考えがなく、そうするつもりもなく、恐れて身を引いてしまうなら、それはあなたのいのちの中に憎むべき多くの罪があることを現しています。その罪は十字架の元へ引き出されなければなりません。それはまた、あなたが神に従順ではなかったこと、御霊にも完全に従ってこなかったことも意味しています。そこには、神との交わりを妨げる何かがあることがはっきり現れています。主に向かって、『あなたと私の間には何の関わりもありません』などと言うことはできません。

良心とは、私たちの精神の窓です。そこは天の光が差し込むところであり、信者の精神とその存在のすべてが光で満たされます。ここに私たちは天の光を見ます。その光は良心を貫いて、私たちの思い、言葉、行いを照らし、私たちの過ちを現して、罪をさらけ出します。良心が働くことを許し、主の命じるままに、自分の罪を取り除けば、その時、天の光はいっそう明るく輝きます。罪を告白せず、取り除くこともなければ、罪の傷跡が残り、良心は汚されます(テトス1:15を参照)。その結果、窓は日ごとに暗くなってゆき、光は中まで入り込むことがなくなります。こうなると信者は、不注意に罪を犯し、それが悪いと気づくこともありません。覆い隠されると良心は鈍くなり、鋭敏さを失います。一方で、信者が自分の精神を研ぎ澄ませば、それだけ、良心も鋭くなってゆきます。

信者にとって、これ以上、告白する必要もなくなるほど、霊的になれることなどありません。どれだけ深遠な知識、精一杯の働き、熱意や鉄の意志をもってしても、良心の鋭敏さの代わりになることはできません。信者が良心をながしろにして、代わりに自分で心と感情を成長させようと考えれば、その人は疑いなく、霊的な旅路において後退して行くことになります。

2016年8月12日金曜日

心から心への言葉[44]困難は私たちのパン

[44]困難は私たちのパン
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

民数記14章に、カレブがイスラエルの全会衆に向かって言ったことばが記録されています、『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼ら(背の高いアナク人たち)は私たちのえじきとなるからだ(9節前半)。』彼は、イスラエルの子供たちに、なぜすぐに出発しなければいけないか、なぜ彼らは必ず勝てるのか、そして、その地に住む人々(アナクの子孫であるネフィリム人)は彼らのえじきであり、恐れる必要がないのはなぜなのか、その理由を語りました。えじきとは、食べることで、力が増し加えるものです。アナク人たちがどれだけ立派な体格をしていても、イスラエルの民なら、彼らをたやすく打ち破ることは、カレブの目に確かでした。カレブが神の約束を信じきっていて、困難をものともしなかったからです。

本当に信じる者は、いつでも、主の約束を強く心に抱いているから、苦難にあってもくよくよと悩むことはしません。しかし、だからと言って、高ぶることがあってはいけません。私たちはまず、主の前にへりくだり、それから、主の勝利に立たなくてはなりません。

ですから、困難な状況に立たされたら、そのたびに、こう尋ねることです、『今度は、私は飢えるのですか?それとも食べるのですか?』と。もし、あなたがキリストの力を通して勝利し、そこから主の力が現れるなら、あなたは再び育まれます。あなたの力は強められ、満たされ続けるでしょう。食べなければ誰も成長できないことを、いつも心にとめておきましょう。

とは言え、私たちの食べ物はいつも、神の御言葉の中にだけあるわけではなく、神の御心を行う中でのみ見いだすものでもありません。アナク人も、やはり私たちの食べ物なのです。アナク人は人生で出会う困難の象徴です。多くの人が神の御言葉を食べ、神の御心を行うことを自分の食べ物としてきました。しかし、ネフィリム人をえじきとすることで自分を育ててきたものは多くありません。多くの人は、アナクの子孫たちを、ほんの少ししか食べていないのです。それは多く食べるほど、強くなるものです。この点において、カレブはとても良い模範となります。アナク人をえじきとした彼は、85歳になっても力に満ちていたからです。40歳の時の強さを、85歳になるまで持ち続けました。えじきとなったアナクの多くの子孫たちが、カレブの中に年を取らない人を形作ったのです。

このようなことが、霊的な面では現実に起こります。主にある兄弟姉妹の多くは、人生において大きな苦難がありません。しかし、人は苦難の中にこそ、自分の弱さを見出すものです。このような人たちは、えじきとしたアナク人があまりに少ないため、神の前に何の力もありません。一方では、苦難にぶつかっても、ものともせずに跳ね返し、また、誘惑にも打ち勝つ人も、いたるところで見ることができます。彼らが強いのは、多くのアナク人をえじきにするからです。ですから、私たちも多くの苦難と誘惑を食べることが必要です。私たちの進む道にサタンが置く苦難と誘惑が、パンとなり得るのです。神はこのようにして、私たちが成長する道を整えられます。信仰のないものは、困難にぶつかると希望を失ってしまいます。しかし、信仰を持つ者に主は、『これが私のパンです』と教えてくれます。神を讃え、感謝しましょう。私たちの行く手に置かれる困難や試練の中に、食べられないようなものはありません。食べても成長の助けとならない苦難などありません。苦難が多いほど、大きく成長できるのです。

2016年7月31日日曜日

心から心への言葉[43]神のあわれみ

[43]神のあわれみ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ9:16)熱意を持って、神を追い求めることは自分への助けとなります。とは言え、熱心であること、自分自身を探し求めること自体は、意味のないことです。長く待ちすぎることは、まったく待たないのと同じです。走るのに速すぎても、遅すぎても、どちらでもよいことです。あまりに多く聞きすぎても、少なく聞き過ぎても、違いはありません。私たちがすることはすべて、神の哀れみだけに頼っています。御霊だけが、人をまっすぐな道へと導き、その道を歩かせてくれます。少なくとも一生に一度、神のあわれみがどのようなものかを見極めることがどうしても必要です。もちろん、主の哀れみをより多く体験するほど、あなたは成長してゆきます。ある一瞬ですべてを目の当たりにするにせよ、人生全体を通して見続けるにせよ、主の哀れみにふれるときは必ず、そこに霊的な真実を見出すはずです。それはただ心に感じているだけでなく、現実であり、すべてが神のあわれみなのです。

神の哀れみは事実であって、心の中にだけあるものではありません。例として、『生まれ変わる』ことを考えてみましょう。私たちはいつも罪人にこう言います、『あなたははっきりと悔い改めて、少なくとも一度は主を信じなくてはいけません。』また、信者にはこんなふうに言います、『あなたははっきりと一度、自分を聖別しなくてはいけません。』同じように、神の哀れみを知るためには、あなたも神の哀れみにはっきりと出会うことが必要です。

神にいつも手助けしてもらえる3種類の人があります。強い意志を持った人たち、強い感情を持った人たち、そして、強い心を持つ人たちです。多くの人は、この3つの強さのうち、一つ以上に支配されています。この3つの強さのすべてを、神に砕いていただかなくてはいけません。神は、人の弱いところではなく、強いところに手を下そうと考えておられます。人の強さが、弱さよりも、霊的な成長を妨げることが多いのです。この3つの強さを変えていただかなくては、神のあわれみを認めることはできません。

神の助けを受けた後は、霊的な生活が変えられていくことを体験するでしょう。人生の多くの場面で、何かが多すぎたり、少なすぎたりすること、長く待ち過ぎること、まったく待たないことも、妨げとなります。私たちの霊的な生活の中にこのような面があれば、それは正さなければなりません。信者の中には、内なる人が十分、成長しきっておらず、外なる人のほうが強すぎるものがいます。これは、ごく普通の体型の場合、頭の長さは体全体の7分の一であることに例えることができます。もし頭の大きさが体全体の4分の一、または、16分の一であったら、どちらの場合もうまく行かないでしょう。心があまりに強すぎる人がおり、また、感情が激しすぎる人もいます。どちらの場合も、内なる人が十分、大きくありません。どちらの場合も、状況を補正してゆくことが求められます。

私たちに本物のへりくだりをさせてくれるのは、神の哀れみしかありません。小さな苦悩を難なく乗り切ったために人の心は高ぶることがあります。一方では、大きな苦悩を必死で乗り越えることが、人にヘリ下りをもたらしてくれるのです。

2016年7月19日火曜日

心から心への言葉[42]御霊に従うためには

[42]御霊に従うためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。

神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。

私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。

神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?

すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。

2016年7月10日日曜日

心から心への言葉[41]霊の敏感さについて

[41]霊の敏感さについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。

マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。

これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。

同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。

あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。

2016年6月29日水曜日

心から心への言葉[40]御霊と文字の違い

[40]御霊と文字の違い
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『文字』とは何でしょう?そして、『御霊』とは何でしょう?そしてまた、心の感覚と、霊の感覚の違いは何でしょう?聖書の中の『文字』は、決して悪いものではありません。第2コリント3章6節でパウロが語る『文字』は旧約聖書を指しています。旧約聖書は聖書の一部ではありますが、その中の霊にふれることがなければ、聖書の御言葉もただの文字でしかありません。そのため、聖書のような素晴らしいものでさえ、文字の羅列となってしまう可能性があるのです。御霊が語り、聖書に残されているその言葉に私たちがふれても、御霊にふれることができなければ、神の言葉はただの文字に変わってしまいます。これが、ここでいう『文字』という言葉の本当の意味です。人がローマ書を365日間読み続けて、そこに書かれたすべての摂理を客観的には理解したとしても、御霊の言葉や働きに心を動かされる日は一日たりともないということすらあり得るのです。こうなると、その人にとって、ローマ書は文字以外の何物でもなくなってしまいます。例えば、朝起きて、すぐに聖書を読み、おりにふれて祈っているとしましょう。しかし、これがただの生活習慣となってしまえば、私たちも神の御言葉を写した文字の中に埋もれてしまいます。そこには、外に向けたみせかけの霊性はあっても、内なる霊は動いていません。その結果は文字だけとなります。