2016年7月31日日曜日

心から心への言葉[43]神のあわれみ

[43]神のあわれみ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ9:16)熱意を持って、神を追い求めることは自分への助けとなります。とは言え、熱心であること、自分自身を探し求めること自体は、意味のないことです。長く待ちすぎることは、まったく待たないのと同じです。走るのに速すぎても、遅すぎても、どちらでもよいことです。あまりに多く聞きすぎても、少なく聞き過ぎても、違いはありません。私たちがすることはすべて、神の哀れみだけに頼っています。御霊だけが、人をまっすぐな道へと導き、その道を歩かせてくれます。少なくとも一生に一度、神のあわれみがどのようなものかを見極めることがどうしても必要です。もちろん、主の哀れみをより多く体験するほど、あなたは成長してゆきます。ある一瞬ですべてを目の当たりにするにせよ、人生全体を通して見続けるにせよ、主の哀れみにふれるときは必ず、そこに霊的な真実を見出すはずです。それはただ心に感じているだけでなく、現実であり、すべてが神のあわれみなのです。

神の哀れみは事実であって、心の中にだけあるものではありません。例として、『生まれ変わる』ことを考えてみましょう。私たちはいつも罪人にこう言います、『あなたははっきりと悔い改めて、少なくとも一度は主を信じなくてはいけません。』また、信者にはこんなふうに言います、『あなたははっきりと一度、自分を聖別しなくてはいけません。』同じように、神の哀れみを知るためには、あなたも神の哀れみにはっきりと出会うことが必要です。

神にいつも手助けしてもらえる3種類の人があります。強い意志を持った人たち、強い感情を持った人たち、そして、強い心を持つ人たちです。多くの人は、この3つの強さのうち、一つ以上に支配されています。この3つの強さのすべてを、神に砕いていただかなくてはいけません。神は、人の弱いところではなく、強いところに手を下そうと考えておられます。人の強さが、弱さよりも、霊的な成長を妨げることが多いのです。この3つの強さを変えていただかなくては、神のあわれみを認めることはできません。

神の助けを受けた後は、霊的な生活が変えられていくことを体験するでしょう。人生の多くの場面で、何かが多すぎたり、少なすぎたりすること、長く待ち過ぎること、まったく待たないことも、妨げとなります。私たちの霊的な生活の中にこのような面があれば、それは正さなければなりません。信者の中には、内なる人が十分、成長しきっておらず、外なる人のほうが強すぎるものがいます。これは、ごく普通の体型の場合、頭の長さは体全体の7分の一であることに例えることができます。もし頭の大きさが体全体の4分の一、または、16分の一であったら、どちらの場合もうまく行かないでしょう。心があまりに強すぎる人がおり、また、感情が激しすぎる人もいます。どちらの場合も、内なる人が十分、大きくありません。どちらの場合も、状況を補正してゆくことが求められます。

私たちに本物のへりくだりをさせてくれるのは、神の哀れみしかありません。小さな苦悩を難なく乗り切ったために人の心は高ぶることがあります。一方では、大きな苦悩を必死で乗り越えることが、人にヘリ下りをもたらしてくれるのです。

2016年7月19日火曜日

心から心への言葉[42]御霊に従うためには

[42]御霊に従うためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。

神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。

私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。

神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?

すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。

2016年7月10日日曜日

心から心への言葉[41]霊の敏感さについて

[41]霊の敏感さについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。

マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。

これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。

同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。

あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。