2016年12月30日金曜日

神前有能[第2日]祈る人に

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい

第2日
祈る人に

『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』マタイ6:6

聖書の中の祈りはそう明なもので、愚かではありません。主イエス様が祈り方を教えるときに、初めに言われることばはこれです、『天にいます私たちの父よ。』主は、天におられる父に祈るよう教えていますが、私たちキリスト者は自分の部屋の中にいる神に向かって、祈っていることがよくあります。私たちの祈りは、天におられる父に聞いてもらうために捧げるものです。神は、信仰によって、祈りを天国まで送って欲しいと願っています。それは、私たちの思いが良い時も悪い時も、また、何の思いもないときでも同じです。部屋の中にいる神に向かって祈り、それを聞いてもらえると思っているなら、残念ながら、あなたは部屋の中にいながら、たくさんの奇妙な感覚、魔術的な体験、神の幻影を見るでしょう。これはすべてサタンが見せているものであり、サタンから来るものは、はっきり意識できることもあれば、気付かずに受け取ってしまうこともあります。

自分の部屋にいる神に祈らない人もいるでしょう。その人は、代わりに、祈っている相手に、その祈りを向けることがあります。これも、極めて危険なことです。2000マイル以上離れているところに住む友人がいるとしましょう。あなたは、その人のために祈り、例えばの話、その友人を御言葉で奮い立たせて欲しい、あるいは、救ってほしいと神に頼みます。あなたは祈りを神に向けているのではなく、自分の考え、自分の望み、そして、自分の願いだけに気持ちを向け、想念(魂のちから)としてその友人に送っているのです。その祈りは、あなたの考え、願望や望みを、友人に向けた矢として射る弓のようなものです。その思いの力は、友人への重圧となって、あなたが望んだ通りのことをするでしょう。あなたは、自分の祈りが聞き届けられたと思うかもしれない。しかし、言っておきますが、あなたの祈りに答えているのは神ではありません。神に祈っていないからです。それは、友人に向けた祈りへの答えに過ぎません。

ある者は、『私は友人のために祈りを積み重ねた、』こう言って、祈りが答えられるのは、そのおかげだと言い張っています。つまり、神に向かってではなく、相手の人に向かって祈ったからだと言うのです。あなたの祈りは答えられますが、答えるのは神ではありません。自分では催眠術を知らなくても、あなたが隠れてやったことは、催眠術の方法にのっとっていました。あなたは、これを行うために、まやかしの霊能力を解放していたのです。

なぜ、こうなのでしょう?あなたが、天におられる神に祈ったことがなく、あなたの祈りは、祈っている相手に向かって放たれ、積み上げられ、そして、取り囲んでいるからです。あなたは祈っているように見えますが、現実には、相手に、まやかしの力で重圧を与えているのです。あなたがもし、誰かのために祈る中で、魂の力を使えば、例えば、その相手が罰せられるように、とは言わないまでも、少なくとも鍛錬されるように祈ったとすれば、あなたの魂の力の祈りは相手に突き刺さり、その結果、相手は患ってしまいます。これは、はっきりした魂の法則です。火の中に指を突っ込めば、火傷してしまうのと同じくらい当然のことです。

ですから、相手が期待通りのことをしなかったら、罰してくださいと、求めるような祈りをするべきではありません。そのような祈りは相手に苦しみをもたらし、祈ったものは、苦悩の源ということになります。祈るなら、神に向かって祈るべきであって、人に向かってではありません。私自身もこのような祈りの悪影響を経験したことがあります。数年前のこと、私は一年以上、病いに臥せっていました。それは、5~6人の祈りが、私の上に積み重なっていたためでした。彼らが祈れば祈るほど、私は弱くなってゆきました。ついに、私はその原因をつきとめました。私はこの祈りに抗い始め、彼らが祈ってきたことから解放してくださいと、神に願いました。こうして、私は快復したのでした。

2016年12月29日木曜日

聖書からの約束:慰め

慰め Comfort

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 ■ 詩篇46:1-3


私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。 ■ 詩篇138:7

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。 ■ 詩篇18:2

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。 ■ 詩篇22:24

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。 ■ 詩篇37:24

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。 ■ ナホム1:7

正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。 ■ 詩篇37:39

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 ■ 詩篇55:22

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 ■ ヨハネ16:33

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 ■ マタイ11:28

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。 ■ 2コリ1:5

主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。 ■ 詩篇9:9

主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。 ■ 哀歌3:31-33

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。 ■ 詩篇27:14

2016年12月25日日曜日

聖書からの約束:子どもの義務

子どもの義務 Children's Duties

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。 ■ エペソ6:1-3

子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 ■ コロ3:20

父と母を敬え。 ■ ルカ18:20

自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。 ■ 申命27:16

おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。 ■ レビ19:3

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。 ■ 申命5:16

わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。 ■ 箴言6:20

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。 ■ 箴言13:1

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。 ■ 箴言1:10

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。 ■ 箴言15:5

幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。 ■ 箴言20:11

知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。 ■ 箴言10:1

おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。 ■ 箴言28:7

子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 ■ 箴言8:32-33

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、私の心はおどる。 ■ 箴言23:15-16

あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。 ■ 箴言23:22

正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。
あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。 ■ 箴言23:24-26

2016年12月24日土曜日

『トウザーの朝の祈り』12月24日

12月24日
喜びとおどろき

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
ルカ2:10

世界中の人々が、この知らせに感嘆する気持ちを失いつつあるのは悲しいことです。今や現実的な価値のあるものにしか、興味がないと、はっきりことばで表しています!クリスマスの日さえ、堕落してしまいました。

私たちはこの美しくも荘重なこの知らせに関心を失い、こんなことばかりを訊いています、『それが何の役に立つ?どれだけの利益になると言うんだ?』

かつて、神を信じる子供たちが、全ての中に神を見た時代があったのです。彼らは目の前のすべてに心を奪われました。どうでもよい山などなく、すべての山が、神の山でした!雲はどれも同じではなく、神のいくさ車でした!彼らは、すべての中に神を見たのです。私たちの生きるこの時代には、うれしい驚きをもって何かを見上げることもありません!

しかし、ひとつ言いたいのですが、これまでの人生でいつも、クリスマスの朝に小さな子供たちを見ることは、尽きることのない喜びでした。つつましい贈り物であっても、子供が思わずあげる喜びと驚きの声は、偽りがなく、価値あるものでした。びっくりした顔の子供たち、すべてが驚きと美しさにあふれていました!

大人たちが礼拝の中から、感嘆の気持ちを失ってしまうのは、本当に悲しいことです。礼拝とは感嘆に値するものであり、感嘆すべきは礼拝だからです!

主よ、『この民全体のためのすばらしい喜び』の知らせは、2000年前にもたらされた時と、まったく同じくらい、今日も大切なものです。人は堕落したままで、飼い葉おけの中の赤子は今も世界の救い主だからです。神を讃えます!

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月22日木曜日

『トウザーの朝の祈り』12月22日

12月22日
ことばは人となった

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
マタイ3:17

神が人間に示された多くの不思議な御業の中で、もっとも甘美で、やさしさに満ちたもの、すなわち、イエス様の受肉のことを、私はいつも思い、いろいろと考え続けてきました!キリストであるイエス様は永遠なるお方です。時が満ち満ちた時、へりくだられるからです。ヨハネが、分かりやすく語っています。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

正直に言うと、私は赤子だったイエス様を見てみたかったと思っています。しかし、今やすぐれて高い所の大能者の右の座で栄光を受けたイエス様が、かつては、飼い葉おけのわらの中に寝かされていた赤子のイエス様です。卑しいからだを取りながらも、創造主であられ、その飼い葉おけの木を造り、そのわらを造られた方であり、その場にいたあらゆる動物たちの創造者でもあられました。

主はまことに、ベツレヘムの小さな町とその中の全てを造られたのです。主はまた、その夜、その場面でいつまでも輝いていた星も作られました。主は、ご自身の世界、主の御父のものである世界に入られました。私たちがふれ、手に取るものは全てが主のものです。こうして、私たちは主を愛し、主を讃え、主をほめるものとなりました!

主よ、あなたは私たちのために、弱々しくも頼りない赤子となられました。自分から進んで、ここまでへりくだられたことに感謝いたします。生まれた時から、あなたは、人を助けるために自分の持つものを犠牲とするとはどういうことかを示されました。この教えを人生の中で生かし、今よりもあなたに似たものとなれますように助けてください。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月21日水曜日

神前有能[第1日]なぜ祈るのか?この不可思議

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第1日
なぜ祈るのか?この不可思議

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7

祈りとは霊的な世界において、最もすばらしい行動であり、もっとも不可思議な行いでもあります。祈りとは謎です。そして、祈りについて、いくつかの質問を投げかけて、その答えをじっくり考えてみれば、今よりなお、祈りを取り巻く不思議な性質を理解できるはずです。それは、簡単に答えが見つかる質問ではないからです。しかし、ここで言いたいのは、祈りの不思議さは人にはとうてい理解できないとか、祈りに関わる様々な問題は説明できるものではないといったことではありません。ただ、祈りについて本当によく分かっている人は一握りしかいないことを示しているだけです。こう考えてみると、祈りの中で、神のために多くを為すことができるのは限られた人たちだけです。祈りの力は、どれだけ多く祈るかではなく、私たちの祈りがどれだけ、祈りの原理に沿っているかというところにあります。このような祈りだけに、本当の価値があります。

初めに答えていただきたい質問は、なぜ祈るのでしょう?祈りの効能とは何でしょう?神は全能なうえに、全知なるお方ではなかったでしょうか?ではなぜ、人が祈るのを待ってから、働きを始められるのでしょう?すべてご存知のはずなのに、願っていることを話さなければならないのは何故でしょう(ピリピ4.6)?全能の神はどうして、直接、働かれないのでしょう?なぜ、私たちの祈りを必要とされるのでしょうか?求めた者だけが与えられ、捜した人だけが見つけ、叩いたものだけが中に入れる(マタイ7:7)のは、何故なのでしょう?なぜ神は、『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです』(ヤコブ4:2)などと言われるのでしょう?

この質問と同時に、私たちはこう問いかけなくてはいけません。祈りは神の御心と相反するものだろうか?祈りと義の関係はどのようなものだろう?

神が決して、ご自身の御心に反することをしないと、私たちは知っています。扉を開けることが神の御心なら、なぜ御自身で開けずに、私たちが叩くまで待たれるのでしょう?主は、人に戸を叩くよう求めたりせずに、御心のままに、自分から、扉を開けたらよいのではないでしょうか?全知なる神は、扉を開けなければ、私たちが中に入れないことはご存知です。ではなぜ、私たちが叩くまで待ってから、開かなければならないのでしょう?扉が開けるためにあり、扉を開けることが神の御心にかなうなら、また、それだけでなく、開けてもらわなければ人は中に入れないことをご存知だったら、なぜ神は私たちが叩くのを待つのでしょう?私たちが扉を叩くことで、神は何か得るところでもあるのでしょうか?

まだ続けて、尋ねるべき質問があります。神の御心は扉を開けることにあり、また、扉を開けることが義にかなっているとしたら、神は私たちが叩かなくても、扉を開けるでしょうか?それとも、神は、御心と義をあえて行わないまま、私たちの祈りを待つでしょうか。神は本当に、扉を開けたいという御心を、私たちが叩かないために、抑えこんだままにしておくでしょうか。

そうなると、神の御心を、私たちが制限することになるのでしょうか?そんな神が本当に全能なのでしょうか?神が全能なら、なぜご自身から扉を開けず、私たちが叩くまで待たなければならないのでしょうか?神は本当に、ご自身の御心を達成することができるのでしょうか?もし、本当にできるなら、なぜ扉を開けること(神の御心)は、私たちが叩くこと(人の祈り)に、支配されるのでしょう?

この全ての質問を通して、祈りが大きな神秘であることが分かってきます。ここに神の働きの原理を見るからです。それは、神の人々が先に祈らなければ、神が立ち上がって働くことはできない、神の御心は、ご自身に属する人々の祈りを通してのみ実現される、そして、信者の祈りが御心を達成するものである、という原理です。神は、一人だけで御心を満たすことはしません。神の人たちが、共に働きたいという思いを祈りの中で示して、はじめて働かれます。

このように考えてみると、祈りとは信者たちが神とともに働くという作業に他ならない、と言うことができます。祈りとは信者たちの思いが、神の御心とひとつになることです。信者が地上で口に出す祈りは、天の主の御心を言葉にしているに過ぎません。祈りとは、神に願いを伝えて、自分の要求を聞き入れ、個人的な願いを満たしてもらうよう求めることではありません。祈りとは、御心を変えて、主が望んでいないことをしてくださいと迫るものでもないのです。そうではなく、祈りとはただ、神の御心を信者の口を通して語ることです。神の前で信者は、主の御心がなりますようにと、祈りの中で願うのです。

祈りによって、神が決めたことが覆ったりはしません。祈りは何も変えません。主が既に定めたことを成し遂げるだけです。しかし、祈りをしないことは、ある変化をきたします。なぜなら、人が祈りをとおして神と共に働かないと、そのために多くの問題の解決が宙に浮いてしまうからです。

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(マタイ18:18)。』私たちがよく知っている主の御言葉ですが、これが祈りについて語っていることに気を付けてください。そして、後にすぐ、キリストの次の言葉が続きます、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(19節)。』

2016年12月20日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月20日

12月20日
美しいものを愛していますか?

すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
黙示録21:27

この世界のあり方や社会をつぶさに見れば、罪の無残で醜い傷跡が目に留まります。罪は、この世界をみだらに傷つけ、汚し、そこから、一致、調和、美しさを取り去ってしまいました。

とても暗い世界に見えます。神に感謝しましょう。天国はあらゆる魅力、あらゆる調和と美しさにあふれた場所だと言う、明るい約束と展望が示されています。

これはうわべだけの言葉ではあありません。美しいものを愛するなら、地獄は避けた方がいいでしょう。地獄とは、道徳的に醜く、みだらなあらゆるものを具現化した場所だからです。地獄は造られたすべての物の中で最も醜悪なところです。

事実、この世界は、醜いものであふれた地獄と、美しいもので満ちている天国の間に置かれています。ここに住んでいる限り、この両極端な場所のどちらに行くかを考えなければいけない日が来ます。すべてがよい場所か、すべてが悪い場所のどちらかです。

信者である私たちは、永遠なる御子が私たちを救い、美しい天国と、神との永遠の交わりの中に送り出してくれるために来たという、その思いにしっかりと抱かれています。

愛する主よ、あなたの創造されたもの、七色の虹、美しい落日、花が咲き乱れる野原の中に、あなたの恵みと美しさを見せていただけることに感謝します。私たちはそこに、永遠の命を受けた者のために蓄えられている美を見出します。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

聖書からの約束:子供

子供 Children

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 ■ 使徒16:31

なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。 ■ 使徒2:39

あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。 ■ イザヤ54:13

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。 ■ イザヤ44:3

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。 ■ マルコ10:14-16


あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。 ■ 詩篇128:3

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ■ 詩篇127:3-5


しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。 ■ 詩篇107:41


孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。 ■ 箴言17:6

彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。 ■ ヨブ21:11

2016年12月18日日曜日

『トウザーの朝の祈り』12月18日

12月18日
神に支配権をゆだねなさい

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
詩篇119:35

自分でもしつこいとは思いますが、これは何度でも繰り返して語る必要があります。私たちの主は、御自分がで命令できない相手を救うことはありません!

神が、私たちに与えてくれた地上の人生は、決断するための期間です。個々の人間は、いずれ住まうことになる永遠の世界に対する決断を、自分で下します。私たちはイエス様、油注がれた救い主、王の王であり、すべての主の主を、そのままのお方として受け取るという決断しなくてはなりません!自分が主に導かれ、自分の人生を主が支配できることを理解しないままで、その人を救い、召すというのは、主のなさることではありません。

罪の根となるものは、神に対する反逆です。そして、地獄は、御心に従うことを拒否する反逆者が、一人ずつ送られるアルカトラズ刑務所です。

地獄がどのようなところか、たくさんの議論があります。そこで人は、炎、燃えたぎる硫黄や蛆虫に耐えなければならないのかもしれません。しかし、地獄と道徳的存在である人への裁きの本質とは、自分は反逆を犯したゆえにそこにいると気づき、それを意識し続けることです!

地獄は、『私は神に何の借りもない』と述べた、すべての不従順な反逆者が永遠に住まう場所となるでしょう。

愛する主よ、恐ろしい地獄の現実が、私たちの教会で語られることは、もうほとんどなくなっています。罪の行く末を誰も恐れないことも、不思議ではないのかもしれません。教会が尻込みせずに、聖書のすべての真実を世界に伝えることができるように私は祈ります。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月16日金曜日

『トウザーの朝の祈り』12月16日

12月16日
神の隠れた働き

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
テトス3:7

人の胸の内で行われる神の隠れた不思議な働きを、私は信じています。救い主、イエス・キリストの中に、寛容で人を変える力を持った神の恵みを見出した後、私もその働きを信じずにいられなくなりました。

私の父と母は、人間性という面では高い水準にありましたが、神を思う気持ちはまったく持っていませんでした。二人とも、神を求める心が現れることはなく、その態度は冷たく、世俗的で、現実しか見ていないようでした。

こんな100パーセント、不信仰に取り巻かれた環境にいながら、なぜ、私は17歳で、母の屋根裏部屋に続く道を見出し、ひざまずいて、心と人生の全てをイエス・キリストに捧げることができたのでしょう?

理由はとても説明できません。私にただ言えるのは、神の呼びかけを聞く鋭敏さを持った人間の中には、神の秘めた働きとも呼ぶべきものがあるということです。私自身、自分のイエス・キリストへの回心は、はっきり起こった事実であり、他のどんな人の回心と変わるところがなかったと、証しできます!

愛する仲間たちよ、神の霊が今も、あなたの心を揺り動かしているなら、神に感謝してください。そして、光を追いかけて行きなさい!

主よ、ほとんどの信者は、あなたが人の心の中で成す『隠された働き』を、個人的な経験から知っています。私は今日、世界中の犯罪者やテロリストたちの、今はかたくなな心にあなたが働いてくださるよう祈ります。そして、天の御使いたちにも、その働きの成果を喜んでいただけますように!

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月15日木曜日

『トウザーの朝の祈り』12月15日

12月15日
賛美で手いっぱい

彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主。」 
黙示録4:8

死が私たちの態度や性質を変えると願い、また、信じることは、人間にとって、明らかに誤った考え方です。

私が言いたいのはこういうことです。もしこの人生で、天国とその喜びについて語り、歌うことに、本当に心からの幸せを感じていなければ、死が私たちを熱心な信者に変えるはずなどありません!今、神を礼拝し、敬慕する気持ちがないのなら、死ぬ時が来ても、それは重苦しいものでしかないでしょう。

神が、無理やり人を天国に送ろうとされるでしょうか。私には分かりません。神が、誰かに向かって、『あなたは、地上にいる間、私を拝むことに興味がなかったけど、天国に来たら、それがあなたの最大の関心ごとになって、絶え間なく拝み続けるようにしてあげよう』など言うとは、とても思えません。

問題ある発言ですか?

そうかもしれませんが、ヨハネは天国の場面で、生き物たちが昼も夜も絶え間なく、こう叫んでいるところを描いています、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!』私が恐れるのは、この世で、神への信仰をうたっている人の多くが、生ける神を褒めたたえ、賛美しようと努めながらも、合間に手を止めている時間が長すぎることです!

主よ、私の人生の全てが、今日のこの日も含めて、あなたへの礼拝の捧げものとなりますように。そして、私が天国に着く時には、あなたを拝む準備が整っていますように。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

聖書からの約束:ほどこし

ほどこし Charity

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。 ■ 詩篇41:1-2

寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。 ■ 箴言19:17

祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。 ■ ルカ14:13-14

 
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 ■ ルカ12:33

自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 ■ 箴言14:21

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。 ■ ルカ6:38

彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。 ■ 詩篇112:9

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 ■ 1コリ13:13

貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。 ■ 箴言28:27

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 ■ 2コリ9:7

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 ■ 箴言11:24-25

私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。 ■ 詩篇37:25

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 ■ 1テモ6:17-18

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 ■ 伝道者11:1

飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。 ■ イザヤ58:10

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。 ■ イザヤ58:7-8

あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 ■ 申命14:29

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 ■ マルコ10:21

その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。 ■ 詩篇37:26

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 ■ マタイ6:1-4


そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 ■ マタイ25:34-40

2016年12月14日水曜日

『トウザーの朝の祈り』12月14日

12月14日
前へと進んでいきなさい

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。
ルカ24:45

経験を伴わない真実は、誤った考えと変わらないもので、同じくらい危険となることもあります。

思い出してください。モーセの座を占めた律法学者たちは、間違った考えを持っていたのではなく、自分で教えた真実を経験できなかったと言う意味での被害者でした。

キリスト者にとって最大の敵のひとつは、宗教的な自己満足であると、気づいてください。もう『たどり着いた』と信じ込んでいる人は、それより先に進めません。そして、自分が、『到達した』ことを示すために、御言葉を巧みに引用して人に聞かせながら、その御言葉を心のうちで現実に経験したことがなければ、そんなやり方は危険なものとなりかねません。

過去の偉大な聖徒たちはみな、熱心に求める心を持っていました。神への強いあこがれで、彼らは燃え尽きてしまいました。彼らは一心に前に進み、上に登ろうと努めました。しかし、熱意のないキリスト者たちは、その高みをけだるい目で見るばかりで、自分もそこに到達したいなどと考えもしていなかったのです。

こんな激励の言葉を、私たちは人に投げかけたいと思います、『祈り続け、戦い続け、歌い続けなさい!』と。神の深みへと進んでゆきなさい。足はしっかり地に着けたまま、心はどこまでも高く上らせなさい!

主よ、私たちの教会とあらゆるキリスト教団体で働く人たちのために祈ります。彼らがぬくぬくした現状の中に浸って、満足しないように勧めてください。魂を獲得する戦場に進んで出て行くよう、彼らの心をかきたてください。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月13日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月13日

12月13日
神に栄光を

栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださる。
第1ペテロ4:14


御霊が中に入って油を注ぐとき、私たちは礼拝する者となります!

だからと言って、世界中の全てのキリスト者が、同じように礼拝しなくてはいけないと言うことではありません。御霊の導きの下では、信者たちはどこにいようとも、心を揃えて神を讃えています。

イエス様がエルサレムに入って、ご自身を救世主として現された時、そこには大勢の群衆がいて、大きな声で騒いでいました。礼拝は声に出して行われることが多いとはいえ、大声で叫んでいるときこそ、人は神を礼拝しているなどと、私は考えていません。しかし、私が思うのは、教養があり、静かで、冷静で、落ち着きがあり、洗練された人たちを現す言葉があります。教会でキリスト者仲間が明るく、『アーメン!』と言うのを聞いて、当惑してしまうようなら、彼らには何らかの霊的な啓蒙が必要かも知れません。

信者の誰かの、『神に栄光を!』という言葉にうんざりするのは、神を崇める聖徒たちに御霊が与えようと待っている霊的な祝福と喜びを、あなたが知らないためかもしれません。自分の立場からしかお話できませんが、私は礼拝する人たちの中にありたいと思っています!

愛する主よ、私はあなたへの礼拝がいつも、心からのものであり、そこに、この世的なごまかしも心の乱れも、入らないよう祈ります。いつの日か、あらゆる聖徒たちと天国でともに立ち、心とまことにおいて、あなたを王として崇めることができたら、なんと言う喜びでしょう。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月12日月曜日

『トウザーの朝の祈り』12月12日

12月12日
ただの名前ではなく

主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。
第2テモテ2:19

いつの世も、キリスト者と自称する人たちがいて、こう言い張ってきました、『私は正しい、私はイエスの名によって祈っている。』彼らは、神への礼拝は何か決まった形式に基づいて行われると信じ込んでいるようです。イエスの名を唱えることを、何かの魔法の呪文とでも考えているのでしょう。

御霊の助けを借りて、注意深く、聖書を調べるなら、イエスの名前と性質は、ひとつであることに気づくでしょう。イエスの名前のつづり方を知っているだけでは十分ではありません!

私たちが主と同じ性質を持つようになり、御心に従って求めることができるところまで来たら、主は私たちが欲し、必要としている良いものをくださいます。

私たちが神を崇めるのは、新しく生まれ変わった結果です。その時、神は喜んで、私たちに名前以上のものを与えてくださったのです。

主が、私たちにくださったのは新しくなった性質です。ペテロはこの真実をこのように表現しました、『その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。』(第2ペテロ1:4)

主よ、私は祈ります。使徒パウロが信者たちを『神のご性質にあずかる者』と書き記した言葉のように、キリストの御体(なる教会)も自分をみなすようになって欲しいと。この思いを込めて自分を見れば、イエス様が弟子としての私たちに期待しているものに、変わっていくことができるでしょう。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月10日土曜日

聖書からの約束:信じること

信じること Belief

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ■ ヨハネ3:16

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。 ■ 使徒10:43

それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 ■ ローマ9:33

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 ■ ヨハネ1:12

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 ■ ヨハネ3:18

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 ■ ヨハネ3:36

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 ■ 1ペテ2:6

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 ■ 使徒16:31

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 ■ ヨハネ12:46

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 ■ ヨハネ6:35

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 ■ マルコ9:23

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 ■ ヨハネ20:29

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。 ■ ヨハネ6:47

2016年12月6日火曜日

『トウザーの朝の祈り』12月6日

12月6日
誰でも来なさい

いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
黙示録22:17

神の人への接し方には、不思議な美しさがあります。主は、世の救いをひとりの人間の中に込め、そして、その人を地上に送って、こう言いながら目立たない道を歩くようにされました、『願うなら誰でもわたしについて来なさい!』派手な鳴り物もなく、足を踏み鳴らして従う軍勢もいません。

やさしい『旅人』がこの地上を歩いています。その声はあまりに静かで、この世の喧騒の中に消えてしまうこともあります。しかし、それは神の最後の声であり、そして、私たちは静まって耳を傾けるまで、真実のメッセージを受けることはありません。

『だれでも』というこの言葉で、主の招きがすべての者に向けられていること、そして、人間にはそれに応じる自由な意思があることを、主は教えてくれます。誰でも来てよい。来なくてはいけないのではない。そして、来るものは、自分でそれを選んだのです。

この意味で、誰にとっても、未来は自分の手の中にあります。世界の権力者たちだけでなく、多くを語ることのない無名の人も、『運命の人』となります!人は、魂の進む道を自分で決めます。人は自分で選び、運命の待つ方向に足を踏み出します。自分の決断によって、地獄に飲み込まれるか、天国に新しい家が用意されます!

ご自身の中の実に大きなものを、神は人間にくださいました!

愛する主よ、私は今日も家族と近しい友人のために祈ります。その中に、まだ賢い選択をしていない者がおり、まだ、家の外からこちらを見ています。主よ、私は、あなたの霊が彼らの心を溶かし、いつの日かあなたの元に来るように祈ります。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月5日月曜日

『トウザーの朝の祈り』12月5日

12月5日、新しい日を始めよう

義人の道は、いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4:18

人がキリスト者となるときは、太陽が昇って、新しい一日が始まった時間のようだ、と聖書は言っています。それから、その道に沿って生きてゆくに連れ、輝く光のように、いよいよ輝きを増して真昼となります。

ここでひとつの疑問が浮かんできます。もし、キリスト者はみな、同じような立場、状況にあるとしたら、なぜイエス様はここで、キリスト者の生活が3つに分かれているような指摘をされたのでしょう?『あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍。』(マタイ13:23)

もし、私がみな、同じようなものであり、同じ場所、同じ状態に『至った』のなら、なぜ使徒パウロはピリピのキリスト者たちに、こう語ったのでしょう、『私はすべてのものを捨ててでも、キリストを知り、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。』(3:7~11を参照)

人は、自分が信じたことのないものを経験することはできない、と私は考えています。それでも私は人々を教え、在り来たりでごく普通のキリスト者としての道を進みながらも、前に進んで、まだ知らない霊的な勝利を宣言するように、励ましていかなくてはいけないと思います。

主よ、日々、キリスト者として生きながら、あなたのように成長したいと試みている私を、あなたの御霊が、いつも、ともにあって励まし、教え、導いてくれることに感謝します。

エイデン・トウザー、『トウザーの朝の祈り』

2016年12月4日日曜日

聖書からの約束:怒り

怒り Anger

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 ■ 詩篇145:8

あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる。 ■ ネヘ9:17
 

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 ■ 詩篇30:5

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。 ■ ヤコブ1:19-20
 

軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。 ■ 伝道者7:9

短気な者は愚かなことをする。 ■ 箴言14:17

怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。 ■ 箴言16:32

激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。 ■ 箴言15:18

怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。 ■ 箴言29:22

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。 ■ 詩篇37:8

おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。

あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。 ■ 箴言22:24-25

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。 ■ 箴言15:1

父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 ■ コロ3:21

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。 ■ エペソ4:26

人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。 ■ 箴言19:11

争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。 ■ 箴言21:19

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 ■ マタイ5:22

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 ■ エペソ4:31-32

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 ■ ローマ12:19-21

もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。 ■ 箴言25:21-22

憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。 ■ 箴言27:4

しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 ■ コロ3:8