2016年1月29日金曜日

心から心への言葉[05]満足

[5]満足
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

満ち足りることはキリスト者の美徳です。すべてのものを神の前に差し出すことが、心からの満足への第一歩です。自分にとって神がすべてであると考える人は、満ち足りた心を持っています。世を友とする信者は、この世の名声を求めずにいられません。しかし、この世の名声、この世の栄光は人の心を満たすことはできません。どれだけの名声を得ようと、一日たりとも満足していることはないでしょう。キリストを自分のすべてと思っているものこそ幸いです!キリストともに天の下へと昇り、日の下で行なわれたすべてのわざのむなしさを見るまで(伝道者の書1:12-14参照)、私たちは地上のものを求めてやみません。聖霊の導きを受け、キリストにあって受けたものだけが永遠の真実であることを悟ることがなければ、私たちも世にあるものを追求し続けます。神に感謝しましょう。キリストを信じる私たちにとって、主が何よりも尊いものとなっていることを。

2016年1月28日木曜日

心から心への言葉[04]キリストのいのちの現われ

[4]キリストのいのちの現われ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

人の一生がどのようなものだったか、いくつかの節目となる出来事だけで説明することはできません。それは、むしろ、全生涯を通して日々、行ってきた事柄に現れます。人がどれだけ霊的であるかは、説教がどれだけ的確であるか、教会で来訪者と仲良くやっていけるか、とか、表向きの生活がうまくいっているかといったことで、測ることはできません。それは、生活の内面から推し量るべきものです。すなわち、その人の喜びや悲しみ、言葉や行い、そして、他の人とどう接するかといったことです。

キリスト者の歩みの初期の段階には、多くの『作り物の』愛、信仰、忍耐などが現れるものです。自身の努力から来るこう言ったものは、外に向けた霊性であって、心の中の神の働きから生まれたものではありません。自我を覆って、人目から隠すことはできても、本物の自我は、自分でも気づかないうちに、すべて現われてしまいます。このようなとき、この人の心には純粋に罪を憎む気持ちが欠けているのです。なぜ、こうなるのでしょう?この人の心の動きを見てみましょう。例えば、ちょっとした欠点が人に知られると、大きく気持ちが沈み、悲しみに包まれます。一方で、誰もそれに気づかなければ、神の前に、それを嘆くこともしません。 

そのような状態で生きていることに気付いた時、信者がそこから抜け出す最善の道は、自分の『顔』へのこだわりを捨てることです。その人がすべきは、神の前に、自分の自我がいかに憎しみに満ち、よこしまなものであるかを告白すること、聖霊を通して、完成された偉大な十字架の御業を自分のものとし、自我を死に渡すこと、そうして、自分の中にキリストのいのちが自由に生きられるようにすることです。日々、聖霊と共に働き、『(自分の)道を主にゆだね主に信頼すれば主が成し遂げてくださる(詩篇37:5)』ことを学ぶべきです。自分ではキリストの中に生きているつもりなのに、生活のすみずみにまで主が現れていなかったら、神の御前に行って、自分の本当の霊的な状態がどんなものか示してくださいと、お願いするべきです

2016年1月26日火曜日

心から心への言葉[03]正しいキリスト者

[3]正しいキリスト者
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

救われる前、人は罪とそむきの中に死んでいます。その人は義に ついて何も知りません。救われた後は、少しずつ、神の清さと正しさを理解し始めます。しかし、ここに若い信者が持つ危険があります。新生の後で得た知識か ら生じる危険さです。この危険の性質はどのようなもので、どこに現われるのでしょう?若いキリスト者は、その態度や言動において過度に正しくなろうとする あまり、人にも多くを求めてしまうことがあります。新しく得た光の故に、善と悪の違いに敏感になりすぎ、新しい自分の良識と相反する他の者たちを裁いてし まうのです。この時期には正常なキリスト者に対して、大きな怒りを抱くことすらあります。人の中に何か、受け入れがたいものを見出すと、こんなふうに言っ て、すぐ相手を非難します、『なぜ、この人は、こんなことをしたり、あんなふうにするのだろう?こんなふうに振る舞うのはなぜだろう?』これは、若い信者 がとくに、よくすることです。

『正しさを拠り所とする』信者とは、一般に、神の恵みをあまり多く受けていない人たちです。彼らが、主の道 に深く分け入り、霊的ないのちが豊かに築かれたら、他の人にももっと、恵み深くなるはずです。いわゆる山上の垂訓の中で、主がこう語られたと記録されてい ます、私たち信じる者は、他の者に義であることを求めるべきではないと。主は、私たちが、自分を打つもの、迫害するもの、だまし取るものに対してすら、義 を求めることを望んでおられません。主は、私たちがそれに堪え、優しさで報いるようにと命じ、教えています。天なる父が完全であるように、私たちも完全で なくてはなりません。主は、義でないものにも、義なるものと等しく雨を降らせてくださいます。主人の教えに従っていないと、世からそしられることのないよ うに気を付けましょう。

キリスト者は、自分は正しく、しかし、他者にはいつくしみ深くあるべきです。自分の権利を要求したり、正当に扱わ れることを求めてはいけません。これがキリスト者の寛容です。キリスト者は、自分は正しくあっても、人には正しくあることを求めません。このように歩むこ とで、主とともに世を治めるものとなれます。

2016年1月21日木曜日

心から心への言葉[02]従順

[2]従順 
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』 

神に従うのは、何と甘美なことでしょう。神に従うために、多くのものを失っても、私たちの心は喜びであふれます。神に従う道を歩いたことのない者は、この喜びを知らないし、理解することもできません。しかし、日々、この従順の道を歩む者は誰でも、損を益と思い、恥辱も誉れとみなすようになります。主に従順であれば、報償を得られます。その報奨とは、誠実に仕えるものは、次第に、自分を否定して、主に従うための、より大きな力を見出してゆくことです。主に逆らうものには、自分の意志に従うことに重きを置き、しだいに、反逆を強めてゆきます。これが実際に私たちの人生で起こります。主に従うほど、主はご自身を褒賞として与えてくださいます。私たちが従うとき、よろこびは苦難を通して増し加わります。本当に主を知っている信者も、従順に仕えることを通じて、さらによく知るようになります。

従順さには程度の差があります。絶対的に従うことは何と難しいことでしょう。しかし、それでも実に甘美なものです。すべての面で主に従うには、完全に自分に死ぬことが求められます。神の御心は、自分に死ぬことで達成されるからです。これ以上に、主に対する感謝を現す手段はありません。それでもなお、人の心には偽りがあり、信じる者の心も完全に捧げられていません。私たちは、自分がどこまでも従順であり、優しくへりくだって、主を愛していると思いこんでいますが、多くの場合には、不従順で、尻込みばかりする者であることに気付いていません。日々の生活の隅々で、自分には従順さが欠けていることを深く心に刻み、より多くの恵みを受けることができますように。 

人の心とはなんと偽りに満ちているものでしょう!心は、自分がおおむね従順であったと言って満足します。しかし、従順でなかったことについては、こう考えます、『そんなに細かいところまで全て従えなくても、仕方がない』、とか、『だからと言って落ち込むこともないさ』、とか、『あれだけやれば十分ではないかな?』といった具合で、このような言葉を、逃げ口上として使います。主がその人たちを導き、こんな言葉の後ろには、不従順な心が潜んでいることに気付かせてくれますように。人は、何かに従ったあとはいつも、神が求める従順さを完璧に満たしたように思い込みますが、従わなかった物事に対しては、あれはどちらでもよかったとか、必要なかったとさえ、考えようとします。これは、不思議なことではありませんか?本当に主の心を知っていれば、そのような考え方は出てこないはずです。はじめに損得の勘定をしないで、十字架を負うのは何と難しいことでしょう。

2016年1月14日木曜日

心から心への言葉[01]へりくだり

[01] へりくだり 
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』 

載せている荷物が重いほど、舟は水の中へ深く沈みます。たくさんの実をつけるほど、枝は垂れ下がります。樹が大きいほど、根は深く張っています。これは、神から多くの恵みを受けた人たちも同じなのです。少ししか恵みを経験していない人ほど、自分が受けた恵みを鼻にかけます。しかし、へりくだっているのは神の恵みで満ちている人たちです。神のみが人をへりくだったものへと変えられるからです。へりくだりとは、自分のことを、できるだけ思わないようにすることではありません。自分への思いとは関係がないのです。へりくだっているとは、自分を低く見ることではありません。自分をどう見るかということとは、まったく違うのです。真にへりくだった人とは、自分に死んだ人のことです。自分に死んでいない人も、外から見れば同じように行動してるかもしれませんが、内側では、いつも自分を誇っています。まさしく、『人の心は何よりも陰険(エレミヤ17:9』なのです。

 へりくだりとは、人前に出ることを避けて身を引いたり、何かを恐れることとは、まったく、別のものです。このふたつは明らかに意味が違います。自分の力で、また、生来の気性のままに(へりくだった性格の人もいるからと言って)、へりくだろうとしても、そのような人たちはいずれは、引きこもったり、あきらめてしまうことになります。しかし、主にあって本当にへりくだっている人は、責任から逃げようとせず、正面から向かい合います。神と生きる中で、勇気をもって前へと進みますが、その中でも常に、自分が汚れており、無力な者であることを認めています。それでいて、主に信頼すること、主にすべてをゆだねることをやめません。責任を避ける人は、へりくだっていません。むしろ、そうすることで、その人の霊的なあり方に問題を抱えていることが現れてしまいます。 

へりくだって主に仕えながら、責任を真摯に負う人はなんと少ないことでしょう。『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのですピリピ4:13)。』そして、『このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです1テモテ4:9)。』私たちが、主を見上げていますように。

2016年1月13日水曜日

心から心への言葉[00]序文

序文 
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉 

『あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こしました(詩篇42:7前半)。』心の淵よりも深いものは何でしょう?もっとも賢い男、ソロモンはこんなふうに忠告しています、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく(箴言4:23)。』神の声を聞いた心は、別の心にも、同じ声を聞き、それに応えるようにと呼びかけます。これこそ、ウォッチマン・ニー兄弟が、心から分かち合いたいと望んだものです。

主に仕えている間、ニー兄弟は、神が語った言葉を伝える中でも、心から出たものだけが、他の人の心にも届くことに気付きました。知識は必要ないというわけではなく、それは上からの啓示、導きから来たものでなければならないのです。そのような知識だけが、生きており、人の心の奥底まで達する力があるからです。ニー兄弟は多くの心へと、言葉を書き送り、また、語りかけて、神の栄光へと向かわせました。

本書は、ニー兄弟が、主に仕えた生涯のいろいろな時期、多くの人に向かって、心から心へと語った話を集めたものです。いろいろな話題にふれていますが、そのどれもがキリスト者の生活に深く関わっています。どの話題も、霊的でありながら、現実的な性質を持つものです。多くの中から選ばれ、翻訳され、まとめられた文章がこの祈りの本、『心から心への言葉』として出版されました。それぞれの引用元は、本の適当な場所に注意書きとして挿入されています。私たちの祝福された主が、これらの言葉を用い、私たちの心をご自身の元へと導いてくださいますように。