2016年2月25日木曜日

心から心への言葉[13]おごり

[13]おごり
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

若い信者が持つ危険のひとつであり、年かさの聖人さえも陥りがちな罠は、自分を間違ったところに置いてしまうことです。十字架が心に働きかけて初めて、自分を誇示すことをやめ、他の人こそ誉れを受けて欲しいと望むようになります。このような人は、神の前に静まり、主への怖れの中にあっても、気持ちは安らいでいます。キリスト者の生活は、一瞬たりとも、十字架と切り離すことはできません。神の聖霊が手を差し伸べて、私たちの堕落しきった状態をさらけだしてくれます。私たちは、神の霊の訓練を通して、自分の絶望的な状態を、真摯に受け止めることができます。そうなったら、あえて自分を誇ることはなくなり、むしろ、自分を恥じるようになるでしょう。神が、私たちの本当の状態を明るみに出され、自らの目で確かめられるようにしてくださったからです。自分を知るほどに、誇る気持ちは消えてゆきます。本当の姿を知らないのは哀れなことです!神の光のうちに光を見ることができますように(詩篇36:9後半を参照)。

 自分を誇る強さにもいろいろな段階があります。聖人の中にも、高らかにラッパを吹き鳴らす人がおり、また、穏やかな言葉で自慢をする人もいますが、そのどちらにも、自画自賛したい気持ちが隠れています。あるものは、自尊心からうぬぼれを持ち、自分が他の人より強いと思い込みます。あるものは、嫉妬心から自分を持ち上げ、他の人と対等だと思い込もうとします。これは、すべてが肉の働きです。動機が何であれ、確実に危険へと導いてゆきます。

創造主ではなく、被造物を拝むことは、人間がよく犯す過ちのようです。主が、人間に栄光や名声を与えたら、そこには必ず、英雄崇拝が生まれます。人の賞賛を受けたくて、意図的に目だった行動をするとき、そこに他の人を讃える言葉がなければ、私たち自身も地に落ちてしまいます。外からは、ある程度、霊的によい状態に見えたとしても、霊的な戦いにおいては、私たちは破れ、地にまみれているのです。今日も、数え切れないほど多く、敗北を伝える知らせが舞い込んでいます!この知らせの中に、神の誉れとなるものなど、何ひとつありません。ですから、私たちも人を批判することのないよう、主よ、助けてください!神への賛美のようでありながら、人への賛辞、自分への賛辞が隠されていることが多くあります!ああ、私たちは心の中で、人が神を讃えるよう願いながら、同時に自分も誉めて欲しいと、望んでいるのではないでしょうか!神のための働きなのに、神が置き去りにされていることが多くあります。これでは、横で見ている私たちは、誰に寄り頼めばいいのか、分からなくなってしまいます!自分を讃えることで、自分を義とすることなど、決してできません。 

キリストにおいて幼子であったとき、私もそうしていなかったでしょうか?人から賞賛を受け、働きをほめられたとき、心はどれだけ踊ったでしょう!主が私たちの姿を知らせてくださって、人目につかずに、静まっている本当の神の人たちの中に入れますように。

2016年2月21日日曜日

心から心への言葉[12]休息

[12]休息 
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

休むべき場所は、主のもとにしかありません。私たちは、主のうちにだけ休息します。自分が住む社会、知識、健康、気持ち、または、霊的な経験の中でさえ、他の安らぎを求めようとすれば、それがどれだけ、はかないものか、すぐに気づくでしょう。私たちは、揺れ動く土台の上で、打ちのめされてしまいます。主ご自身が、私たちの休む場所としておられることに、感謝しましょう。この地上のどこにも、私たちの休むところはありませんが、主のうちに安らぎを見出すことができます。主は、私たちの『強いやぐら』だからです(詩篇61:3)。

私たちは主の愛のうちに休みます。それは永遠の愛であり、私たちをどこまでも抱擁してくれる愛です。この愛のゆえにこそ、主イエス・キリストは地上へと降りてこられ、十字架にかけられ、死者の中からよみがえり、再び天へとのぼり、私たちのために取りなしてくださり、そして、居場所を備えていてくださいます。それだけでなく、主はまた再び来られ、私たちを御許に受け入れてくださいます。驚くべき愛ではありませんか!この主の愛は、人の舌や声で伝えることはできません。神はこれほど愛してくださるのに、なぜ、私たちは主のもとに心から憩うことをしないのでしょう?何が降りかかろうと、思い煩うことなどなく、ここまで愛してくれる方の下に休むことができるのです。

それに加え、私たちが主のうちに安らぎを見出すのは、主の知恵の故でもあります。主の知恵はすばらしいもので、決して間違いを犯しません。主は、物事の順番を整え、私たちと共に、前へと進んでくださいます。私たちの身に降りかかることは、すべて主の知恵によって、注意深く備えられています。主は、ご自身を愛する人々のために、すべてを働かせて益とすることをご存知です(ローマ書8:28前半を参照)。時に人は、困り果て、途方にくれることもあるかもしれません。しかし、主は私たちとは違います。すべてを支えてくださるだけでなく、取るに足りない小さなことまで計画されています。なぜ、思い悩むのでしょう?主は、あらゆることに知恵を持っているのではないでしょうか?

私たちはまた、神の力強さのうちに休むこともできます。神の腕に守れないものはないからです。神の力の強さを、誰が測れるでしょう?主は、最善の計画を立てられるだけでなく、その計画を実現させる力を持っています。主には、神の子供たちを救い上げる強さがあり、悪魔のすべての企みを跳ね返す力があります。神は永遠の勝利者だからです。この神の力が、私たちにも働いています。

ああ、恐れ、震えている兄弟たちよ、ともに主のうちに休みましょう。この力あふれる方こそ、私たちの父なのですから。主が助けてくださり、私たちも苦しみの中で、主の安らぎを見いだして、慰めを受けられますように。私たちが主の愛、知恵と力に寄り頼み、無益な悩みから解放されますように。

2016年2月15日月曜日

心から心への言葉[11]決して渇かない

[11]決して渇かない
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちの主は永遠の賛美に値する方です。それは、主がこの地上におられた時に言われた、この言葉の故です、『わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません(ヨハネ4:14前半)。』この言葉はまことであり、そのまま受け入れるに値するものです(第1テモテ1:15前半を参照)。主がくださったもののおかげで、私たちは永遠に満ち足りていられるからです。主は、ご自分が下さったものを、よく分かっておられます。しかし、残念なことに私たちの方が、それを受け止められないことが多いのです。そのため、すぐにまた、また渇いてしまいます。私たちは絶えず、渇きを味わっているのではないでしょうか?私たちは満足することなく、もっと多くのものが必要だと感じます。しかし、愛する主の言われたとおりにならないことは決してありません。主の言われることは永遠に真実です。問題は私たちの側にあります。私たちの信仰が足りないだけであって、他に何の理由もないのです!ただ、主の御ことばを信じさえすれば、二度と渇くことはないはずです。主が約束された、生ける水は、人の乾いた心を潤し、どんな時も必ず、私たちの思いを満たしてくれます。神の約束を信じるほど、私たちのうちにある神のいのちは湧き立ちます。ああ、信じない者の心は何と哀れなものでしょう!主が恵みを見せてくださって、私たちも、主を信じるだけでなく、主のうちに休むことができますように。主が、すべてを満たしてくださることを知っているものは幸いです!もう渇くことがない者こそ幸いです!

2016年2月13日土曜日

心から心への言葉[10]孤独の日

[10]孤独の日
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私は昨今、いつも不安を感じています!何かを無くしたかのようです。私は、ここを出て、聖人たちと交わり、この孤独な心を慰めてもらえたらと願わずにいられません。こんな日を一人で過ごすのは、本当につらいことです!このような心の状態のまま、きちんとした暮らしを続けてゆくのは容易いことではありません。しかし、そうしなければ、動揺したままのたましいを、そのたびに抑え込むしかありません。

ああ、主よ、私は自分のたましいの赴くまま、いたずらに行動しないようにします。あなたの御霊が私の心のうちで働いているからです。今、この状況の中で、あなたは私のたましいと霊を分けることを望んでおられます(ヘブル4:12参照)。それは、私の霊が天にのぼり、主イエス様の御霊とひとつになるためであり、こうして、私は自分のたましいの高ぶりに、つき動かされることがなくなるのです。私は苦しい。本当に苦しんでいます。しかし、この苦しみに耐えられ、この日のために神が定めた道から逃げなければ、たましいはもう、私を支配することはできません。主が、私を鎮めてくださいますように!

2016年2月11日木曜日

心から心への言葉[09]静けさ

[9]静けさ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

今日の信者たちが持つ欠点を、私は見てきました。それは、話し過ぎることです。このために、彼らは『落ち着いた生活をする(第1テサロニケ4:11前半)』ことができません。性格的に自分から進んで話さない人もいますが、ほとんどの信者はこの点、あまりに積極的に過ぎるようです。神の恵みを多く受けた人ほど、静かに頭をたれるものです。しかし、キリスト・イエスの中に、まだ十分深い根を下ろしていないものは、軽薄で、言葉多く話し過ぎるきらいがあります。

箴言18:2にこう書かれています、『愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。』まさに、このとおりです!神のうちに、自分の足がかりができていない人ほど、自分の良いところをひけらかすものです。しかし、主にくり返し触れられると、誰もが、こう語ったエレミアのようになります、『私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました(15:17後半)。』静かな生活は、キリストの香りを放ちます。あまり多くを語らない人が話す時は、その言葉に重みが加わります。反対に、いつも話し過ぎる人には、霊的ないのちが欠けています。

主は、聖霊のことで次のように語りました、『御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです(ヨハネ16:14)。』イエス様は、御霊に関してこうも言われました、『御霊は自分から語るのではない(ヨハネ16:13後半)。』御霊で満たされている人は、キリストの愛から来ているものでなければ、誰に対しても、何ひとつ語らないものです。自分の中から出てくるものは、言葉にしません。自分が言いたことがあって話すのではなく、主から何かを聞いて初めて話すのです。この意味で、聖霊に対してほんとうに従順であれば、日々、私たちが口に出す言葉は半分以下にまで少なくなり、そうすることで、主に栄光を帰すことになります。聖霊ご自身は言葉で主を讃えます。自分が聖霊で満たされていると言うなら、同じようにすべきではないでしょうか?

自分が知っていることを、人に言いたがるのは自然なことです。自分より成長した兄弟に教えてもらったことの一旦しか理解できていないのに、私たちはよくこんなふうに言います、『そのことはもう知っている。実際に、この通りにしてきた。』主のしもべが語る宣教を聞いた後、言われたことをさっぱり理解できない他の聴衆と自分が違うところを見せたいがために、わざわざ質問したくなることがあります。しかし、自分も何も分かっていないことに、気づいていません。話したくてたまらない気持ちは、知識の浅はかさの裏返しです。一方で、静かに生きることは、本当の知識ある人生を送っている証拠です。

気持ちが高ぶる中でも、言葉に出さず、静かなままでいるのは、簡単にできることではありません。周りが沸き立っているときほど、私たちは遠回しに、時には、はっきりと自分の利口さをひけらかすような言葉を出したくなるものだからです。騒ぎ立てる人たちに影響されず、気持ちを沈めたままでいられたら、とても素晴らしいことです!侮蔑の言葉を受けても、自分は陰口で返さず、静かな心でいるのは誰でもできることではありません。私たちの内なる人が穏やかなとき、人の前だけでなく、神の前でも静まっていられたら、どれだけ良いことでしょう。

平穏な生活とは、霊的に静まっているだけではなく、外の世界の状況に動かされないことも意味しています。言葉が少ないだけではないのです。この世には、性格的に口数少ない人もいます。しかし、霊の静けさを持って生まれてくる人は誰もいません。無口な性質の人も、心のうちは、他の人たちと同じくらい、あるいはもっとひどく、荒れ果てているかもしれません。しかし、心が静まっているものは、普通は言葉少ないものです。口を硬く閉じて、余計なことをしゃべらないようするのは、心の静謐とは違います。そこにはすでに、内なる動揺があります。心の奥深く十字架が働いていなければ、内から静まる道はありません。聖霊が十字架の真実を私たちの内なる人に知らせてくださり、主にすべてを支配していただいてはじめて、私たちは神の前に静まることができます。

私たちの主は、この見習うべき気質を持っておられた方でした。例えば、民衆が主を国王として祭り上げようとした時、主は荒野へと退きました(ヨハネ6:15を参照)。また、主はピラトの前に立たれた時、何も言いませんでした。何を訊かれても答えず、ただの一言さえも、口に出されなかったのです(マタイ27:12~14を参照)。外に向けて言葉を発しなかったのは、心のうちに揺らぐところがなかったからです。

2016年2月6日土曜日

心から心への言葉[08]知識と裁き

[8]知識と裁き
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

裁くことは聖書の中で禁じられています(マタイ7:1を参照)。神の聖者は人を裁いてはならないはずなのに、今日のキリスト者は、キリストにある兄弟に対して裁判官として振舞うことがあります。キリスト者はこの世でもっとも批判的な人たちだと言われるのを、私は何度も聞いています。これは、今の時代のキリスト者が陥りがちな過ちのようです。私たちが語る言葉の見張り役として、主が定めた人たちを敬ってください。裁くことは知識と密接につながっています。物事に明るくない人ほど、裁いてばかりいます。人の言うことだけとを聞いて、事実を確かめもしないうちに、相手を裁くのは、実に考えが足りません。誰もが、人に分からない秘密を持っているのですから、それをかえりみずに拙速に相手を裁くのは不公平なことです。他の誰についても完全に知っていることなどあり得ないのですから、あえて裁かないようにするべきです。

ある人や状況について、すべてを把握していると思い込んでいても、そこにはやはり、自分で気づいていない誤解があるかもしれません。私たち自身も、どれだけ誤解を受け、誤った批判をされてきたか、それが、どれほど辛く苦しいものだったか、思い出してみてください。その時、私たちを裁いた人たちは、すべての事実を知り尽くしていると信じ込んでいたのです。私たちが人を裁いた時も、同じように思っていたのではないでしょうか。自分が裁かれたときは心をかき乱されたのですから、なぜ、他の人には、善意を持って判断してあげないのでしょう?

残念ですが、聖書知識を学んだがために、それが、他の人を裁く原因となることがよくあるのです。事実、頭の知識が増えるほど、私たちの裁きも厳しいものとなります。そうなると、知識ばかりを積み重ねる意味など、どこにあるでしょう?悲しいことに、本から学んだもの、頭に詰め込んだ知識が、人を裁く根拠となってしまい、このため、聖書の教えが明確であればあるほど、私たちが下す裁きも厳しいものとなることがよくあります。しかし、神は私たちを裁判官として任命したわけではないのです。そしてまた、人を裁くものは、キリストの裁きの座で自分が裁かれると、いつも心に留めておくべきです。人を非難することばかりを好んで、悔い改めようとしないものは、神には受け入れられません。

他の人のために神の御心を求めることはやめましょう。神ご自身が彼らを導いてくださるからです。神が私たちを導いてくださったのなら、他の人たちも導いてくださいます。あることが、自分から見て神の御心と思えないからといって、他の人に対しても御心ではないと決めつけると、そこで、人を裁いてしまうことになりかねません。神ご自身が責任を負われるのです。そこに、私たちの助けは必要ありません。神が誰かをすでに許されたのに、私たちがその人たちを批判し続けることがよくあります。私たちは神より正しいとでもいうのでしょうか?そのような罠におちいることがありませんように。神が兄弟の過ちを負い、それに耐え忍ばれるのなら、私たちも同じようにすべきではないでしょうか?神が覆い隠されたものを、さらけ出すことはやめましょう。他の人たちを裁き続けることは、人間として無益であり、自分にとっても恥ずべきことです。人は、神が自分にどれだけ憐れみ深くあったか、すぐに忘れてしまうものです。

この困難な時代にあって、神の子供たちが示すべきものは、厳しい裁きではなく、優しい愛です。主にある兄弟が、あなたのために、いつまでも痛みに満ちた涙を流すことがあってはいけません。むしろ、隣人の傷口に、よろこびのぶどう酒と聖霊の油を注ぎ、優しく包み込んであげなさい(ルカ10:34参照)。その人たちには慰めをあげなさい。裁いてはいけません。

2016年2月3日水曜日

心から心への言葉[07]方策

[7]方策
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

この商業主義の時代にあって、今は、あらゆる物事が人の企てによって動きます。悲しむべきことに、その影響は信じる者の間にも及んでいます。『想い』と『企て』は、違うものであることを知っておく必要があります。誠実に人を愛することと、何か目的があって愛することの間には、大きな隔たりがあります。人を本当に愛する者は、心から愛するのですが、何かのもくろみからそうする人は、愛するように自分を仕向けています。心から相手を愛する人は、真に心の底から愛が生まれるのに対し、愛するふりをしている人は、無理してそう見せ掛けなくてはいけません。

心からの愛はきわめて自然なものです。内に向けた想いと、外に向けた想いが一致しているからです。これに対し、計略としての愛は、意図的に作り出されたもので、内側と外側で食い違っています。世にあるキリスト者は、自分の心のうちの企みに大きく支配されており、それがゆえに、不自然な行動をとります。そこでは、うちなる真実が外に湧き出ることはなく、むしろその行動は、批判されることの恐れや、賞賛を求める気持ちから生まれるものです。

たとえとして、兄弟の愛を考えてみてください。主キリストにある兄弟への愛を口にしても、そこに本当に愛の心はなく、霊的ではないと批判されることを恐れてそうしている人もいるでしょう。ああ、愛と呼ばれるものの多くは偽物です。本物の愛ではないのです。私たちから、そんな見せ掛けの愛が現れることのないよう、主よ、助けてください。

使徒パウロが第1コリント13章で言ったことは、本当に、私たちの気持ちと思いの奥深く入り込み、心を揺さぶります。自分の体を火の中に捧げるような立派な行いをしながらも、そこに愛がないこともあるのです。その行いは誠実な心から生まれるものでなく、何かの目論見があって出てくるものです。使徒パウロは、そんな行いは『何の役にも立たない(3節)』と言い切っています。企ての中から現される愛は、外面的な愛であり、そこでは、心と言葉が一致していません。外に向けて取り繕ったものであって、そこには内なる神の恵みの働きがありません。このような愛は、他の人だけでなく、自分をも欺くものです。その愛は目的があって生まれるものであって、そこには敵のたくらみがあります。この愛は長く続くことはなく、いずれ、本当の心の状態が現れます。このような作りものの愛、まやかしの愛は人の霊的な生活にとって、何の助けにもなりません。

主の十字架に、心の中の全ての毒を消し去っていただきましょう。使徒ペテロが、第1ペテロ1:22と4:8に書いたような者になりましょう、『あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』

使徒ヨハネのこの言葉もいつも心に留めておきましょう、『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか(第1ヨハネ3:18)。』

2016年2月1日月曜日

心から心への言葉[06]隠される

[6]隠される
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の聖人たちよ、この世の名声を求めることはやめ、むしろ、神の中に自分が埋もれることを良しとしましょう。名声と栄誉を追い求める時、人は悪魔に傷つけられているのです。主の御手の中に自分を隠す人たちは、守られており、心も穏やかです。神の聖人にとって、世の栄光を追い求めるのはあってはならないことです。主を本当に愛する人は、この世で認められたいなどと望まないはずです。それなのに、信者の中には、高いところに置かれることを望み、また、キリスト者の集団や神の人たちの集まりにおいて、自分を『先生』と呼ばせている人たちが多く見られます。ここで、信者の問題は、世ではなく、教会にあります。私たちの主は実に賢いお方です!主は初めから、私たちがお互いを兄弟と呼び合い、他の言葉を使わないように言われたのです(マタイ23:8参照)。ああ、指導的な立場にある兄弟たちの中にさえ、尊敬の念を込めて呼ばれたいと望む人が多くいます。聖霊の働きを通して、十字架の精神を受け入れない限り、名声を得たいと言うよこしまな思いから逃れることはできません。

多くの人たちが、世とは、この世界の中にだけあるものと思い込んでいて、世は教会の中、そして、信者の心の中にまで存在することに気づいていません。このようなよこしまな心は、信者が本当の意味で世に死ぬまで、消え去ることはありません。聖人の中でも、十字架で主と共に死ぬことによって、本当に主とひとつになったものだけが、教会と心の中にある世に対して死ぬことができます。この世の名声を求めないことは心の問題です。もし、主ご自身が私たちを人目を引く場所に置かれるなら、そこから身を引く必要はありません。残念なことに、人は名声を得ると、その後、さらなる称賛を欲するようになるものです。心の奥底では名声を望んでいるのです。しかし、主のもとに安らぐことを願っているなら、神の喜びのみを求め、人の意見には耳を傾けないでください。そうすれば、どこであれ、神が私たちのために定めた場所にとどまり、そこで安らぎを見出します。私たちが安らぎのある場所に至ることを、主は望んでおられます。神のうちに隠されるとは、何かから引き下がることではありません。それは名声を得ることを意図しておこなうことでもなく、何かから逃避することでもありません。ただ、神の胸のうちに休息することです。