2016年6月29日水曜日

心から心への言葉[40]御霊と文字の違い

[40]御霊と文字の違い
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『文字』とは何でしょう?そして、『御霊』とは何でしょう?そしてまた、心の感覚と、霊の感覚の違いは何でしょう?聖書の中の『文字』は、決して悪いものではありません。第2コリント3章6節でパウロが語る『文字』は旧約聖書を指しています。旧約聖書は聖書の一部ではありますが、その中の霊にふれることがなければ、聖書の御言葉もただの文字でしかありません。そのため、聖書のような素晴らしいものでさえ、文字の羅列となってしまう可能性があるのです。御霊が語り、聖書に残されているその言葉に私たちがふれても、御霊にふれることができなければ、神の言葉はただの文字に変わってしまいます。これが、ここでいう『文字』という言葉の本当の意味です。人がローマ書を365日間読み続けて、そこに書かれたすべての摂理を客観的には理解したとしても、御霊の言葉や働きに心を動かされる日は一日たりともないということすらあり得るのです。こうなると、その人にとって、ローマ書は文字以外の何物でもなくなってしまいます。例えば、朝起きて、すぐに聖書を読み、おりにふれて祈っているとしましょう。しかし、これがただの生活習慣となってしまえば、私たちも神の御言葉を写した文字の中に埋もれてしまいます。そこには、外に向けたみせかけの霊性はあっても、内なる霊は動いていません。その結果は文字だけとなります。

2016年6月27日月曜日

心から心への言葉[39]みずみずしい献身を続けよう

[39]みずみずしい献身を続けよう
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

旧約聖書には、天幕の外に置かれる祭壇の火は、一度しか点けてはならないと書かれています。毎日、たきぎを次ぎ足し、いけにえを捧げ続けて、その火は昼も夜も、絶えることなく祭壇の上で燃えていなければならなかったのです(レビ記6:12を参照)。火を点けてよいのは一度だけです。燃え尽きた後で、新しい火を灯すことは許されませんでした。祭壇の火は、消えることなく燃え続けていることが求められていました。祭壇の火を保つためには、毎日、休むことなくいけにえを捧げることが必要でした。

新約聖書では、私たちは自分のからだを、生きた供え物としてささげることを求められています(再びローマ12:1を参照)。燃える火を守り続けるために、絶えることなく自分を神へのいけにえとして捧げなければいけません。生きた供え物とは、生きている限り、自分を神へのいけにえとして捧げ続けるという意味です。罪を犯したり、何かを差し出さずおけば、私たちはみずみずしさを失います。そして、そのままで捧げ続けるなら、祭壇に置かれた神の火を消してしまうことになります。

もしあなたが、自分が傷つくことはしたくないと思ったら、または、愛、思い、願い、欲求、望みや期待を大切にするあまり、自分の欲望、意思や感情が傷つけられることは避けたいと考えたら、その瞬間、あなたは、自身を生ける供え物として捧げることをやめたのです。自分を傷つけたことが、一度としてないのに、心のうちでは喜びで満たされていられると言うなら、そんな喜びは頼りないものです。自分の全てを祭壇に捧げてはじめて、あなたは供え物となるからです。あなたは傷を負い、苦しみ、大切なものを失いながらも、神には何かを差し出しています。この時、あなたは自分に逆らって生きているかのように見えるでしょう。しかし、うちなる喜びは絶えることなく沸き立つのです。

2016年6月22日水曜日

心から心への言葉[38]痛みを伴う喜びがいちばんの喜び

[38]痛みを伴う喜びがいちばんの喜び
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

ツァレファテのやもめの女が、エリヤに振る舞った食事を覚えているでしょうか?かめの中の一握りの粉と、つぼにほんの少しの油が残っていただけだったのに、預言者エリヤは、小さなパン菓子を作るように求めたのです(第一列王記17:8~16を参照)。人間的な見方をすれば、エリヤの言葉はこの上なく残酷なものでした。預言者のためにパン菓子を作っている時、やもめの女の心はどれだけつらかったでしょう。その後、どうやって食べて行けばいいかも分からなかったのです。しかし、このパン菓子が最後とはならなかったことに気を付けてください。それどころか、その後も長い間、食べ続けることができたのです。それだけでなく、よこしまなアハブ王の時代に、国全体に多くのやもめ女がいましたが、後世まで記憶されるのはこの人だけでした(ルカ4:25~26を参照)。それは、彼女が持っていたもの全てを神の預言者に捧げたからに他なりません。

全てを主に捧げるとは、情熱的な衝動から一度だけするものではなく、気の向いた時だけ行うというものでもありません。どんな時も、続けて行かなくてはいけません。捧げ続けることは、おそらく、大きな痛みをもたらすでしょう。しかし、大きな喜びも与えてくれます。痛みを伴う喜びこそが最良のものです。そんな喜びのおかげで、涙を流すことも、よくあります。喜びの涙が流れ落ちるとき、賛美が沸き上がります。この喜びは特別のものです。それはこの世の肉的なキリスト者には、経験できないものです。

2016年6月20日月曜日

心から心への言葉[37]献身は主の恵みであり、私たちの喜び

[37]献身は主の恵みであり、私たちの喜び
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神が、ご自身への献身を求められることは、私たちにとって何という大きな喜びでしょうか!パウロは、コリントの信者たちに、主が死んでよみがえったのだから、もはや彼らも自分のためにではなく、主のために生きなくてはいけないと語りました(第2コリント5:15を参照)。もし、私たちのために死んでよみがえられた主が、ご自身のために生きる機会を与えてくださらなければ、キリスト者としての生活はとても惨めなものとなるでしょう。

ある時、私は引っ越しすることになりました。その頃、私は一人暮らしで、自分だけでは重い家具を動かすことは、とてもできなかったのですが、二人の兄弟が来て、手を貸してくれ、家具を全部、運んでくれました。彼らのからだはホコリまみれになってしまいました。私は兄弟たちにお腹が空いていないか、喉が渇いていないか尋ねましたが、『そんなことはない』という答えでした。彼らはそのまま、自分の家に帰りました。その夜、私は二人の兄弟が汗まみれで、汚れたまま家に帰り、自分は何のお礼もしなかったことが気になって、いつまでも眠れませんでした。心の中でそのことを深く悔やんでいました。その日は一晩中、よく眠れなかったのです。

主イエス様は、私たちのあがないという御業を成し遂げられました。主がなされたことは、家具を動かす仕事よりはるかに大きなものです。『主よ、私たちに何をして欲しいのですか?』と訊けば、主はこう答えるでしょう、『私がすべてをなした。あなたは何もしなくてよい。』この会話が本当に行われたとしたら、誰もがとても落ち着かない気持ちになったでしょう。神が私たちをあがなわれたとき、ひとつ目の大きな恵みをくださったと、私はいつも感じます。そして、私たちが自分を捧げることを許されるとき、主は二番目の大きな恵みをくださいます。

もし、主のあがないを受けながら、主のために生きるという気持ちのなければ、その人はまったく、または、ほとんど救われていないと思わざるをえません。そのような人は、神の救いの素晴らしさをよく分かっていないからです。

2016年6月17日金曜日

心から心への言葉[36]生きた供え物の3つの特徴

[36]生きた供え物の3つの特徴
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

ローマ書の12章で、献身とは、私たちのからだを神に仕えるための聖い、生きた供え物としてささげること、とされています。このような供え物には3つの特徴があります。ここで語られるひとつ目は『聖い』こと、すなわち、神のために選び分けられていることです。私には、日本との戦争の間、中国政府の役人だった友人がいます。一度、彼を食事に招いたことがあるのですが、答えはこうでした、『すまないがそれはできない。私はこの体を国に売ったのだ。もう自分の好きなようにはできない。』私たちの体が選び分けられたというのも、これと同じ意味です。誰一人、それに触れることも、使うこともできません。神が用いるために取り分けてあるからです。これが、『聖い』、または、神のために選び分けられていると言う意味です。

供え物の二つ目の特徴は、神に『受け入れてもらえる』ことです。そして、三つ目の特徴は、そのような供え物は、なされて『当然』のものであることです。神は私たちに何かを与えて、何かを与えないということはされません。主は私たちにも何も隠さずに差し出すことを望んでおられます。主は、どれだけ与えるかではなく、この主の望みの通りに、私たちが動いているかを見ています。神はいつでも、ためらうことなく、余すところなく、与えてくださいます。私たちも、主に対して同じように与えるべきではないでしょうか?私たちの献身において、『量』を見れば、私たちが実際に神に与えるものはあまりにも僅かで、主がくださったものとは、比較にすらなりません。けれども、『質』は同じはずです。

2016年6月14日火曜日

心から心への言葉[35]キリストを地上で現す

[35]キリストを地上で現す
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『さばいてはいけません。さばかれないためです』(マタイ7:1)。ひとりひとりの信者がこの言葉の意味を知り、実践できるように、主よ、助けてください。キリスト者は、心の中で人を裁くときも、言葉で裁く場合も、まずは、自分自身の弱さを認めるべきです。

神の言葉によって真に変えられた人は、説教者になる資格があります。キリストに変えられた者は、人々をキリストにどう導くか、悩む必要はありません。主を愛する一人ひとりが理解しておくべきことがあります。人は、自分自身の中にキリストを見ることができなければ、他のどこにも生けるまことの神を見出すことなどできません。

キリスト者とは、この地上でのキリストの現れです。彼らはキリストのいのちを生きなければいけません。聖霊に満ちているキリスト者は、『わき出る』(ヨハネ4:14)ように、また、『流れ出る』(7:38)ように生き生きとした態度で仕えます。主に真に信頼していることは、次の三つの行いに現れます。まず、自分を表に出さない、主を褒め称える、そして、心の底から主を愛することです。聖書を隅々まで真摯に読めば、主を拒むことなどできません。恵みと真実は、いつも共にあります。どちらが欠けることはありません。価値のない情熱、すなわち、神の御心のうちにない熱心さは、必ず、傷を負わせ、罪を犯す原因となります。肉の享楽に耽ることは、栄光の家を追い求める上で障害にしかなりません。

生徒が先生より、偉いことはありません。主が苦しんだのに、弟子たちが平安な暮らしを望むことなどできるでしょうか?私たちは、安らぎを求めることはせず、また、自分から苦しみを探すこともしません。気を付けるべきは、敵への恐怖に支配されることではなく、自分の中に何かの『隙』ができることです(エゼキエル26:10)。自分が主のために犠牲にしたものではなく、主が私たちのために投げ打ったものの大きさを心に留めましょう。それと同時に、主のためにまだ捨てていないものがどれだけあるかも考えてみましょう。

『御霊に従って歩む』(ローマ8:4)。『御霊によって歩みなさい』(ガラテヤ5:16前半)。『御霊に導かれて、進もうではありませんか』(ガラテヤ5:25前半)。御霊にある休息はなんと平安なことでしょう!

『隠れて話したことは何もありません』(ヨハネ18:20後半)。主のものとなった全てに、あなたのこの足跡に従っていきたいという望みを与えてください!

何をするにも、『主のために』行うようにしましょう。これが私たちの平和と喜びです。きれい好きな人なら、食器をまた使う前に、一枚一枚きれいに拭きとるでしょう。主は、これよりずっと多くのことをしてくれます!

高揚した気分に捕えられているとき、御霊が現れて、その思いを十字架にかけてくれます。同時に、主は、私たちが何かひとつのものだけに心を留めることを許してくださいます。その何かが、イエス様でもよいのです(ヘブル12:2前半を参照)。信仰があれば、不可能を可能にすることができます。また、愛のある者なら自分の重荷を軽くすることができます。私たちが日々、愛に満ち、真実への思いを増し加えることができますように。

2016年6月9日木曜日

心から心への言葉[34]私はあきらめない

[34]私はあきらめない
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

キリスト者であるのは、確かに苦しいことですが、それでも、私は決してあきらめません。十字架は、自分にとって栄光であって、決して恥としないと心に決めています。ああ、主よ、目をあげれば、あたりにはあなた以外誰も見えません。あなたは私の一番、近くにいる方です、主よ。あなたの他には、何もないし、誰一人いません。両親に聖書を隠されてしまったのですが、他に小さな新約聖書をもっています。ですから、もう飢えることはありません。近しい親戚も私を嫌っていますが、そのために主ととも歩むというこの決心が揺らぐことはありません。何があっても、私の気持ちがくじけないようにお祈りください。サタンは絶え間なく攻撃を続け、主は離れてしまった、もう祈りを聞くことはないと、私に言い続けています。しかし、主は聖書の中で、ヘブル書の一節を示してくださいました、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』(13:5後半)。

例えば、主はある方を通じて、私に小さな新約聖書を送ってくれました。ここからも、主の目が私に注がれていて、私を忘れていないことが分かります。どうして、主を離れることなどできるでしょう?主に従う私たちは、この世のものではなく、世は私たちを憎んでいます(例えばヨハネ15章18~19節を参照)。世に憎まれようとも、私は主の愛に満足しています。主の愛は、人の愛を数百万倍も超えているからです。私を狙うサタンは、心に多くの残忍な計略を秘めています。しかし、サタンが何をたくらもうと、私をキリストにある神への愛から引き離すことはできません(ローマ書8:38-39を参照)。私はすべてを投げ打って、イエス様に従いたいと願っています。人生の全てを費やすことになろうと、その気持ちは変わりません。

私は主の愛を味わいました。これからも、主の足元に座り、その甘美さを味わい続けることでしょう。以前の私は、主がいなくても平気でしたが、今は主と御言葉なしでは一瞬たりとも生きていけません。勝利の主、栄光にあふれた主、あなたは再び来られます。その時、あなたが定めた道を、私が歩いていますように!

あえて言いますが、一度、勇敢にサタンと戦ったのだから(第2テモテ4:7前半を参照)、それですべてが終わりだと信じている人が大勢います。決して、そのようなものではありません。確かに、勝利は揺るぎないものですが、その戦いが終わることは約束されていません。

キリスト者は、主と一体になった交わりを経験することが必要です。主とともに死ぬ、すなわち、主の死とより深く結び付くという、さらに深遠な経験を与えられること、それを通して、『もはや私ではなく』なることを主に願う時、主はあらゆる種類の絶望と拒絶を私たちに向けられます。そのような時も、悲しみにくれることなく、むしろ、主を讃えましょう。『もはや私ではなく』なるという、私たちの思いと願いを、主がかなえてくださるからです(ガラテヤ2:20を参照)。

2016年6月5日日曜日

心から心への言葉[33]神に知られている

[33]神に知られている
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神に仕える中に、喜びと感じることはありますが、私は満足していません。このような状態で、『わたしについて来なさい』と呼びかけられるお方が、私に向かって直接、『ついて来なさい』と語りかけておられることに気付きます(例えば、マルコ10:21を参照)。ああ、主について歩くその途上でさえ、私は何と無知な者でしょう。私は、いつも、近道をしようとして、迷ってしまいます。しかし、聖書知識を追い求めるのはよくないことなのでしょうか?それでも、今日、私はあることに気づくようになりました。それは、人生のどの局面で、何が私に降りかかろうと、私は本当に何も知らないし、知りたいとも思わないことです。『人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです』(第1コリント8:3)。

2016年6月4日土曜日

心から心への言葉[32]おくびょう

[32]おくびょう
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私はある兄弟と、樫の木陰でノートを広げて見せあっているところです。どうすれば、主のために最善のかたちで働けるか、中でも、いちばん効き目のある説教とはどういうものか、お互いの考えを比べています。その友はこういいます、『私はいつも説教を書いたら、もう一度、注意深く見直します。その説教に、聞き手の誰かの気分を損ねるかもしれない箇所があれば、すぐに消してしまいます。』これを言ったのは若い牧師で、彼が最も不安だったのは、自分が説教師であると人に知られることでした。私は、聞き間違えたのかと思い、彼に確かめました、『あなたが言っているのは、罪や、やがてくるさばきの恐ろしさについて語っている厳しい言葉は、自分の言葉も聖書の御ことばも含めて、もっと優しい言葉に置き換えたり、削除することさえあるということですか?』彼は答えました、『そうです。その言葉が誰かの気分を害すると思ったらそうしますね。』私は、これが彼の正直な証しなのだろうと思いました。なぜ多くの説教者がこれほど無力なのか、ここに現れているのではないでしょうか?『人を恐れるとわなにかかる』(箴言29:25前半)。これは何と言う真実でしょうか!

2016年6月3日金曜日

心から心への言葉[31]私たちの祈り

[31]私たちの祈り
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

誰かにへりくだってほしいと願うとき、私は必ず、その人の祈りの生活について尋ねます。この質問以上に、悲しみと過ちの告白を引き出す方法を、私は知りません。人前でする祈り、一人だけでする祈り、どちらであっても、祈りはへりくだる経験であり、同時に、今、さまよっている道から引き上げて欲しいというと願いをかき立てることになります。

2016年6月2日木曜日

心から心への言葉[30]報われる働き

[30]報われる働き
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の真実のことを、知識として知っているだけでは、喜びも利得も必ず受け取れる確証とはなりません。持っているものが知識だけだったら、自分自身が混乱してしまいます。心の中で、霊的な実践をすることが絶対に必要であり、それは、御霊が私たちの中で活発に働くことによって成されます。

2016年6月1日水曜日

心から心への言葉[29]神のことば

[29]神のことば
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

生ける神は、いつまでも生きておられ、主の御ことばもどんな時も消えることはありません。私たちは、御言葉に頼って生きることができます。主の御ことばはすべてが啓示を通して現れたものであって、何であろうと、神が言われたことに、すべてをゆだねてよいのです。一日のはじまり、朝の見張りの時間に食べるもの、神の律法を愛して、夜昼なく律法のことを思い続けるもの、信仰と言葉を混ぜ合わせる者、このような人たちはすべてが必ず、霊的な滋養と強さをいただけるでしょう。