2017年1月25日水曜日

聖書からの約束:敵

敵 Enemies

主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。 ■ 詩篇37:40

主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。」 ■ イザヤ62:8

悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。 ■ 詩篇125:3

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。 ■ 詩篇112:8

主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。 ■ 出エ15:6

神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。 ■ 詩篇60:12

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ。―― ■ イザヤ54:17

主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。 ■ 箴言16:7

主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。 ■ 詩篇118:7

われらを敵の手から救い出し、・・・ ■ ルカ1:74

主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。 ■ 申命28:7

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。 ■ 詩篇27:5-6

共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。 ■ 申命20:4

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 ■ ルカ18:7

見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出たものではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。 ■ イザヤ54:15

主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。 ■ 詩篇97:10

しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ。――あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ。―― ■ エレ39:17-18

あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。 ■ 2列王17:39

すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。 ■ 2列王6:16

見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。 ■ イザヤ41:11-12

にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。 ■ 箴言3:25-26

この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。 ■ ルカ1:71

「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。 ■ 使徒18:10

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」 ■ ヘブル13:6

2017年1月20日金曜日

聖書からの約束:死

死 Death

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 ■ 詩篇23:4

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 ■ 1コリ15:55

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。 ■ 箴言14:32

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 ■ ローマ5:9

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 ■ ヘブル2:14-15

まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。 ■ ヨハネ8:51

この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。 ■ 詩篇48:14

この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。 ■ 詩篇73:26

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。 ■ 詩篇49:15

永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい・・・、 ■ イザヤ25:8

わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。 ■ ホセア13:14

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 ■ 詩篇116:15

全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。 ■ 詩篇37:37

たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 ■ 2コリ4:16

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。 ■ ヨハネ3:15

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ■ ローマ8:38-39

2017年1月18日水曜日

神前有能[第4日]祈る時は、偽善者や異邦人たちのようであってはいけません

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第4日
祈る時は、偽善者や異邦人たちのようであってはいけません

『私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』詩篇19:14

主はこう言われています、『また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです』(マタイ6:5~8)。祈りとは、まず何よりも、神の栄光を現すために行う神との交わりです。しかし、この偽善者たちは、神を讃えるべき祈りを利用して、自分を讃えています。そのために、彼らは、会堂や通りの四つ角で祈ることを好むのです。こうするのは、人に見られるためであり、会堂や通りの四つ角は人々が行きかう公共の場所だからです。彼らは神に聞いてもらうために祈るのではなく、人に見られたくて祈るのです。彼らの目的は自分自身が注目を浴びることです。こういった祈りは、あまりに表面的です。神に向かって祈っているとも、神と交わっているともみなすことはできません。この種類の祈りをする動機は、人からの賞賛を受けることにあるので、神とは全く結び付いておらず、そこに神から何かを受け取ることはありません。彼らは、人からの賞賛をほうびとして受け取ってきた者たちであり、やがて来る御国で覚えられることはありません。

では、どのように祈るべきでしょうか?主のことばは続きます、『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』ここで『奥まった部屋』という言葉は、象徴的に使われています。『会堂』や『通りの四つ角』という言葉が、人目にさらされる場所の典型として使われているように、『奥まった部屋』とは人目にふれない場所を象徴しています。兄弟姉妹の皆さん、実は通りの四つ角や会堂にいても、また、大通り(高速道路)や自動車の中にいる時でさえ、奥まった部屋を見出すことはできるのです。何故でしょう?それは、あなたが隠れて神と交わりを持つところ、人には見えないように祈りをするところなら、どこでも奥まった部屋だからです。『自分の奥まった部屋にはいり、戸をしめて、』とは、この世のものを締め出して、自分の中に閉じこもることを意味しています。言葉を変えれば、外のすべての声に耳をふさぎ、静かに、そして、ひとりだけで(純粋に)神に祈ることです。

『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』この御言葉は、大きな慰めではありませんか!隠れた所におられる父に祈るためには、信仰が求められます。外に現れるものを何も感じなくても、あなたは自分が内に隠れた父に祈っていることを信じています。神は隠れた場所、人の目には見えないところではあっても、間違いなくそこにおられます。神は決して、あなたの祈りをさげすむことなく、祈るところを見ておられます。神がどれだけ、あなたの祈りを心に止めているか、ここに示されています。神は見ておられるだけではなく、あなたに報いようとさえしています。この言葉を信じられますか?

主が、『報いる』と言われる時、主は報いてくださいます。主はここにおられ、あなたの隠れた祈りが無駄にならないと保証してくれます。本当に祈るなら、主は必ずあなたに報いてくださいます。今日は何の報いもないように思えたとしても、あなたが褒賞を得る日が来るはずです。兄弟姉妹たちよ、隠れたところでするあなたの祈りは、隠れた所におられる父の厳しい目に耐えることができますか?隠れたところにおられる父が、あなたに報いてくださると信じていますか?

主は私たちに、人前に現われないように教えるだけでなく、こう、諭してくれます、『祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』ギリシャ語で、『同じことばをただくり返す』とは、吃音者が話すときのように、繰り返し、単調に言葉を出し続けることを意味しています。祈るとき、異邦人は同じ言葉を単調に繰り返します。このような祈りは、何の意味もない、ただの音にすぎません。彼らの横に立って祈りを聞けば、流れる川のほとりで、岩に打ち付ける水の音を聞き続けるか、小石を敷きつめた道端で、通り過ぎる車輪の回る音をいつまでも聞いているような気持ちになるでしょう。異邦人たちは、同じ言葉を何度となく唄いあげます。彼らは、多くの言葉を出せば、それだけ聞いてもらえると思っています。しかし、そのような祈りはむなしく、効果がありません。私たちは、そのように祈ってはいけません。

ですから、祈り会の中で捧げる祈りの言葉も、意味のないものとならないようにしましょう。誰かが祈っても、アーメンを言わないと、相手はあなたの心がひとつになっていないと、非難するでしょう。しかし、あなたが祈りにアーメンを唱えると、相手はその言葉を繰り返して使います。この人の祈りは、求める心の大きさではなく、聞く人がどれだけ賛同してくれるか、その度合いに影響されています。この人が祈るのは、心の重荷を吐き出すためではなく、自分の発言を全部、聞いて欲しいからです。その多くは人に影響された祈りであり、多くはまったく心のない声にすぎません。もう一度言いますが、そのような祈りは、岩に打ち付ける水音や、砂利道の上を途切れることなく行きかう車輪の音のようなものです。その祈りは、ただの音に過ぎず、意味はありません。私たちはそのように祈るべきではありません。

『だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。』祈りが神に聞かれるかどうかは、主の前における態度に加えて、私たちが本当に必要なものによって決まると、この節は示しています。言葉が多いか、少ないかは、まったく関係がありません。祈っているものが、私たちにとって本当に必要でなければ、どれだけ多くを言葉に出そうと、祈りは答えられることはありません。必要もないのに望むことは、貪欲さの現われであり、間違った願いです。神は進んで、必要なものをすべて与えてくれますが、人の利己的な欲望を満たすことは望んでいません。神は必要なものをすべてご存知だから、自分で祈らなくてもよいなどという人がいますが、まったく愚かなことです。祈る目的とは、私たちの信頼、私たちの信仰、私たちの期待、そして、私たちの心の願いを、神に知らせることではなく、言葉に表すことにあるからです。このためにこそ、祈るべきなのです。それでも、祈る中で、私たちの心の願いは唇から出る言葉よりも多く、信仰は言葉より強くあるべきです。

2017年1月15日日曜日

聖書からの約束:勇気

勇気 Courage

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。 ■ 詩篇27:14

まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。 ■ 詩篇37:28

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」 ■ イザヤ43:1

恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。 ■ 2列王6:16

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。 ■ 詩篇37:3

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 ■ イザヤ40:29

雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。 ■ 詩篇31:24

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 ■ ピリピ4:12-13

2017年1月10日火曜日

聖書からの約束:神の懲らしめ

神の懲らしめ Correction, God's

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。 ■ 箴言3:12

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 ■ 申命8:5-6

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。 ■ 詩篇94:12-13

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 ■ 2コリ4:16-17


なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ■ ヘブル12:10-11

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 ■ ヘブル12:6-7

しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。 ■ 1コリ11:32

2017年1月8日日曜日

神前有能[第3日]誰のために祈るのか

ウォッチマン・ニー
神前有能

第1部、だから、こう祈りなさい。

第3日
誰のために祈るのか

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』第1ヨハネ5:14

初めに注目すべきは、本当に祈る人とは、神にいつも近づているだけではなく、その願いがいつでも神の御心に入る人であること、すなわち、その考えがいつも神の考えに入る人であることです。これは、祈りにおける最も大切な原理です。

私たちの必要のみから生まれるような祈りもあります。主がそのような祈りを聞かれることも、時にはあるとはいえ、その祈りを受け入れてくださることはほとんど、または、全くありません。この聖句に注意してください、『主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた』(詩篇106:15)。この一節が意味するものは何でしょう?イスラエルが神に、欲望を満たして欲しいと泣き叫んだとき、神は答えとして、彼らが望んだもの全てを与えられましたが、それによって、彼らは神の前に弱められることになりました。ああ、確かに、時に神は、あなたの祈りを聞き、あなたの必要を満たさんがために、その祈りに応えますが、そのときはまだ、主ご自身の御心は満たされていません。そのような祈りには大した価値はないことを理解しましょう。

しかし、別の種類の祈りもあり、それは神ご自身の必要から生まれるものです。これは神の祈りであり、神から始まる祈りです。そして、そのような祈りは最も価値あるものです。このような祈りを持つために、祈る人は、ひとりで何度も神の御前に来るだけでなく、自分の願いが神の御心へと入ることを許し、また、その思いが神の思いの中に入らければなりません。このように日常的に主の臨在の中に生きている人は、主の御心と願いを知ることが許されています。そして、その御心と神の願いが、実に自然なかたちで自分自身の望みとなり、その人は祈りの中で、それを表すようになります。

ああ、私たちは、どうしてもこの二番目の種類の祈りを学ばなければなりません。私たちは未熟で、弱い者ではありますが、それでもなお、神に近づき、神の御霊によって、自分の思いを神の御心へ、自分の考えを神の考えへと近づけることが認められているのです。神の御心と考えに少しでもふれれば、神がどのように働かれるか、神が私たちに何を求めているのか、少しずつ分かってきます。こうして、私たちが知り、その中に入り込んだ神の御心と考えが、徐々に、私たちの内で自分の祈りになってゆきます。そして、そのような祈りには大きな価値があります。

神の思いの中に入り、神の御心と目的にふれたことで、ダニエルは自分の心の中に、神と同じ望みがあることに気づきました。神の切なる願いが、ダニエルの中に再生され、ダニエルの願いとなりました。すなわち、ダニエルが、涙とうめきとともに、祈りの中で自分の願いを語った時、彼は神の願いを言葉にしていたのです。私たちはこのような祈りをしなければなりません。それが、本当に神の心に触れるからです。それ以上の言葉は要りません。私たちに必要なのは、より多く、主の心に触れることです。神の御霊に、神の心の願いへと導いてもらいましょう。

もちろん、この種類の祈りを学ぶには時間がかかるでしょう。この祈りを学んでいく初めの頃は、あまり多くの言葉、多くの考えを求めないようにしましょう。私たちの霊は落ち着き、静まっていなくてはいけません。今の自分の状態をそのまま主のところへ持ち込んで、主の御顔の光の中で、その状態について考えればよいのです。あるいは、現在の状況など忘れ、主の御前で御言葉をじっくり噛みしめてもかまいません。または、主の御前に生きて、自分の霊で触れようと試みるだけでもよいのです。実際のところ、私たちが神に会うために進んでいくのでなく、神が私たちが来るのを持っておられます。そして、その神の臨在の中で私たちは何かをつかみ、神の御心に触れます。最大の知恵は、まさに、ここから来るのです。これによって、私たちの望みは神の願いの中に入り、私たちの思いは主の心に入ります。そしてそこから、私たちの祈りは主のもとへと昇ってゆきます。

私たちが自分の願いと思いを神に任せると、神ご自身の御心と願いが私たちの中で再生されるようになり、今度はそれが、私たちの願いと考えになってゆきます。この種類の祈りは、最も価値があり、ずっしりと重みがあります。主イエス様が祈りについて言ったことを思い出してみましょう。『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』(マタイ6:9~10)。この最後の三つの文章を繰り返し、唱えるだけはいけません。この言葉は、神の御心と願いを明らかにするもので、神の御霊が私たちの心を御許に運ぶとき、私たちの中でも、新たに作り出すべき言葉です。そして、この言葉が私たちの願いと思いになると、それから後、私たちが口にする祈りは、何よりも価値があり、重みのあるものとなります。

神には地上で為すべきことがたくさんあり、多くの場所に手を差し伸べています。では、どうすれば、私たちは自分の気持ちと考えに沿った祈りができるのでしょう?私たちは神に近づいて、主が為そうとしていることを心に刻み込んでいただくべきであり、それによって、私たち自身が深いうめきによって、とりなすことができるようになります。主に近づいて、福音を広めると言う御心を、神に注ぎ込んでいただくと、これは直ちに私たちにとっての重荷となります。そして、その背負った重荷のままに祈るとき、私たちのため息の中にこそ、神の御心が表れているような気持になるでしょう。主は私たちの中に、様々な願いを入れ、様々な重荷を作り出するかもしれません。しかし、何であれ、ある願いや重荷が心の中に生まれるとき、その人は主の御心を自分自身の願いとして、それに即した祈りをすることができます。ダニエルの場合、神の御前に来て、彼はあることにふれました。その時、彼は深いうめきとともに、そのことを祈りとして口に出しました。このような祈りこそ、何よりも貴重で、意味のあるものです。このような祈りこそが、神の御名をあがめ、神の御国を来たらせ、そして、みこころが天で広く行なわれるように地でも広がっていく源となります。

2017年1月5日木曜日

聖書からの約束:満足

満足 Contentment

陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。 ■ 箴言17:22
 

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 ■ ヘブル13:5
 

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。 ■ 箴言15:15

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。 ■ 箴言14:30

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 ■ 1テモ6:6

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。
確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。 ■ 箴言23:17-18