2017年2月25日土曜日

神前有能[第17日]目をさまして、祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第17日
目をさまして、祈りなさい


すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

この節で、目を引くのは、『そのためには絶えず目をさましていて・・・忍耐の限りを尽くし』というくだりです。『そのためには』という言葉は、何を指しているのでしょうか?

その前の部分を読むと分かるように、これは祈りと願いのことです。この使徒が言わんとしていたのは、『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈る』だけでは十分ではなく、祈りと願いにおいては、さらに、『絶えず目をさまして・・・忍耐の限りを尽く』さなければならないことです。言葉を換えれば、一方では祈りがなければならず、他方では、目をさましていることが必要です。『目をさまして』とはどういう意味でしょう?それは、眠りに落ちないこと、目をしっかり開いて、あたりを見張り続けること、あらゆる危険、危機を防ぐことを意味します。祈りと願いにおいて、『目を覚ましている』とは、サタンの策略を見抜き、その目的と手段を見つけるための霊的な洞察力を培うことを語っています。では、願いと祈りにおいて、目を覚ましていることの具体的な側面に入ってゆくことにしましょう。

祈りは、努めのひとつです。祈りは、ひときわ高い位置に置かれるべきものです。サタンはいつでも、祈りの前に、主とは関わりのない何ごとかを人の心に送り込み、祈りを後回しにさせようとたくらんできます。祈りの大切さを教えられても、その本当の意味を理解している人は多くはありません。人は、奉仕会、聖書研究会などには熱心に参加します。そのような会合に参加する時間は作ります。しかし、祈り会となると、参加者は驚くほど僅かしかいません。お知らせが、繰り返し回覧され、その中で、我々の根本的な努めは祈りであり、祈りの生活につまづけば、全てにつまづくと、伝えられても、祈りには十分な関心が払われず、大した影響はないものと思われています。山積みになった問題に直面したとき、私たちは口では、祈りだけが解決できるなどと言うかもしれませんが、実際には、祈るよりもしゃべることが多く、祈るよりも思い煩うことが多く、また、祈るよりも自分で手立てを考えることのほうが多い者です。早い話が、あらゆることが祈りの前に置かれるのです。他のことが、ひときわ目立つところに置かれ、祈りは片隅に追いやられます。祈りはもう、どうでもよいことになってしまいます。


2017年2月20日月曜日

神前有能[第13日]祈りと苦しみ


ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第13日
祈りと苦しみ

あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1後半)

ある兄弟が、なぜ自分の祈りは答えられなかったのかと、尋ねてきました。私の答えは、そこに苦しみがなかったからだというものでした。彼が重ねて、何故、苦しみが必要なのかと質問したとき、私は、祈りが応えられるためには、苦しみがなくてはならないと、答えました。実際に、私は兄弟たちに、よくこんな質問をします、神はあなたの祈りを聞かれていますか?それに対して、よくある答えは、『3回、5回と祈った後で、そのことは忘れてしまった、』というものです。何故、忘れるのでしょう?のしかかる苦しみを感じていないからです。いつもこんなふうになるのは、奇妙なことではないでしょうか?

自分が何を祈ったのか忘れてしまったのなら、神がそれを覚えていないと言って、とがめることができるでしょうか?あなたが、わずかばかりの祈りの言葉を、軽い気持ちで口に出しただけなら、神がそれに応えないのは当然のことです。多くの人は、作文でも書いているかのように祈ります。そんな人は、何も祈らないほうがましでしょう。多くの人の祈り方は、祈りの第一の原則に反しています。祈りにまず必要なのは、信仰でも約束でもなく、求める心です。渇望のないところ、祈りはありません。祈っても返事がないことも、不思議はありません。

信者の祈りに応えるために、神はまず、祈る必要を与えます。その信者に何かの苦しみを与え、相手に祈る必要を感じさせるのです。こうして、信者は答えを求めて、神のほうを向きます。

2017年2月15日水曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第1巻目次

『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』

T・オースティン・スパークス
フィリピン、マニラ、1964年

著者からのお願い


ただで受けたものは、ただで与えるべきであり、利益を得るために売ってはならない、また、メッセージは自分が語ったままに伝えて欲しいというT・オースティン・スパークスの要望を守るため、このメッセージを他の人たちと共有する場合は、彼の願いを尊重して、無償で配布するようにお願いします。代金を受け取ること、料金を課すこと(配布のために必要な費用は除きます)はしないでください。また、この一文を必ず含めてください。


 
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』第1巻
T・オースティン・スパークス
第1~22回会合
フィリピン、マニラ、1964年

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。』ヨハネ17:21,22

目次


編集者の手紙
会合1 - God's Ways Are Different From Our Ways
会合2 - "That They May Be In Us"
会合3 - "He Loved Them Unto the Uttermost"
会合4 - "Jesus Christ... Both Their Lord and Ours"
会合5 - "Worshipping in Spirit and in Truth"
会合6 - "The Most Important Thing is Spiritual Understanding"
会合7 - Christ Corporate is the Church
会合8 - "Have You Understood All These Things?"
会合9 - Has it Come From Heaven by the Spirit of God?
会合10 - Jesus Came to Form a New Heavenly Israel
会合11 - The Presence of the Lord: "The Lord is With Us"
会合12 - "This Kingdom is an Everlasting Kingdom
会合13 - The Lord Will Never Have Mixture in Our Life or in Our Work For Him
会合14 - The New Israel's Passover
会合15 - God Has Shown Us the Pattern: He Has Shown Us That Pattern Who Is Christ In Perfection

2017年2月5日日曜日

神前有能[第10日]主イエスの名によって祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。


第10日
主イエスの名によって祈りなさい


あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14.14)

主イエスの名前は、特別なものです。キリストは地上で、この名前を持っていませんでした。地上におられた時の名前はイエスといいました。マタイ伝1章に、そう書かれています。しかし、これに加えてピリピ書2章には、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた主を、神はまた、高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったことが示されています。この名前とは何でしょう?ピリピ書の2章10~11節を読んでみましょう、『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』その名前とは、『イエスの御名』です。主は、地上におられた時も、確かにイエスと呼ばれてはいました。しかし、これは主が天に昇られた後で、与えられた名前です。死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われるまでに、神に従順であったがゆえに、主は、高く上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのです。そして、このすべての名にまさる名こそ、イエス様という御名です。

主イエス様の御名が、これほど大きく変わってきたと語ったのは、啓示を受けたパウロだけではありません。主イエス様ご自身さえ、この御名が劇的な変貌を遂げてきたことを示されています。『あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。・・・その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。』(ヨハネ16章24節、26節前半)イエス様は、今日ではなく、『その日には』と言われています。その日が来るのを待ち、それから、わたしの名によって求めるのです。こう語られた日、主はまだ、このすべての名にまさる名を持っていませんでした。しかし、主はすべての名にまさるその名を、『その日』にお受けになるのであり、そして、『その日』に私たちは、父のもとに行って、主の御名によって求めることが許されるのです。

2017年2月2日木曜日

神前有能[第5日]『だから、こう祈りなさい』(1)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第5日
『だから、こう祈りなさい』(1)

『聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』ヨハネ17.11

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13

では、主がどのように祈り方を教えてくれるかをみることにしましょう。この祈りは、よく主の祈りと呼ばれています。この言い方は誤りです。なぜなら、それは主ご自身の祈りではないからです。これは、主が私たちに祈ることを教えている祈りです。ルカ11章1~4節にもっとも、明瞭に示されています。この祈りをよく学ぶべきです。『だから、こう祈りなさい。』こう祈るというのは、この節にある言葉を祈りのたびに繰り返すことではありません。それは、決して、主が望んでいることではないのです。主は、私たちに祈り方を教えてくれますが、この言葉を繰り返すように求めてはいません。

この世界が始まってから、いつも神への祈りが捧げられてきました。世代を超え、時を超えて、数えきれないほど多くの人々が、神の前に来て、祈ってきました。その中で、正しく祈った者は、きわめて少なかったのです。

多くの人は自分が欲しいものばかりを考え、神の求めるものに注意を向ける人はわずかしかいません。このためにこそ、主イエス様は口を開き、上で読んだように祈ることを教えています。そして、この種の祈りは、非常な重みと偉大さと深さを持っています。学びたいと全く思っていないのなら別ですが、少しでも祈り方を学びたい気持ちがあるなら、『このように祈る』ことを学ばなければなりません。神が地上に来て人となられたのであり、この方が初めて、的を得た祈りとはどのようなものか、私たちに教えてくださっているからです。

主は、私たちが、『天にいます私たちの父』に向かって祈ることを願っています。この名前、『父』とは、人間が神を指す新しい呼び方です。かつて人間は神を、『全能の神』、『いと高き神』、または、『エホバの神』といった言葉で呼んできましたが、『父』と呼ぶことなど、思いもしませんでした。ここで、まったく初めて、神は、『父』と呼ばれたのです。ここからはっきり分かるように、この祈りを捧げているのは、既に救われ、永遠のいのちを受けた者たちです。人は救われたからこそ、神を、『父』と呼ぶことができます。主から生まれたものだけが、神の子供です。神を『父』と呼ぶことができるのは彼らだけです。これは、『天にいます私たちの父』に向けられた祈りであり、自分が神の子供であることを踏まえて捧げられています。神の御許に来てこう告げるのはなんと甘美で、大きな安らぎとなることでしょう、『天にいます私たちの父。』

神を『父』と呼べるのは本来、主イエス様だけだったのですが、今、主は私たちにも、神を『私たちの父』と呼んで欲しいと願っています。これは本当にすばらしい啓示です。神がそのひとり子をお与えになったほどに、私たちを愛された事実がなければ、どうして、神を、『私たちの父』と呼ぶことなどできましょう?神に感謝しましょう。御子の死と復活を通して、私たちは今、神の子供となりました。私たちは新しい地位を得たのです。これから後、私たちの祈りは、天にいる父に向けられます。なんと親しく、なんと自由で、なんと喜ばしいことでしょう!主の御霊が、父である神をよりよく理解させ、また、私たちの父が愛に満ち、忍耐強くあることを心から信じさせてくださいますように。主は、私たちの祈りを聞くだけでなく、祈ることの喜びを味合わせてくださるでしょう。

その次に来る祈りは、神に捧げる三つの願いにふれています。(a)『御名があがめられますように。』(b)『御国が来ますように。』それから、(c)『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』ここにある『天で行なわれるように地でも』は、三つの全ての願いに当てはまるものです。三つの全ての祈りを修飾するする言葉であって、神の『みこころ』に触れている三番目の願いだけを説明しているわけではありません。神の御名は、天であがめられていますが、地ではまだ、崇められていません。天には神の御国がありますが、地にはまだありません。そして、神の御心は天で行われていますが、この地上では、御心に従っていません。私たちはこれを踏まえて、祈る必要があります。

このいわゆる主の祈りの言葉は、私たちの考えをはるかに超えるものです。この世界が造られた時から、人間は一度として、神のもとに来て、神の求めるように祈ったことはなかったようです。この祈りの意義は、神がカーテンの後ろから姿を現して、ご自身の願っておられるところを語ったという事実にあります。神が人間となって、本当に的を得た祈りを教えてくれたのは、これが初めてのことです。ここに私たちは、天の御国とはどのようなものであるか、また、その御国が広がって地上を包み込んだことを直ちに理解できます。神は、ご自身が望んでおられること、何より大切であるとご自身が考えていることを、私たちが祈るよう呼びかけています。