ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。
第7日
『だから、こう祈りなさい』(3)
『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』詩篇23:1
『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13
イエス様が祈り方を語られたこの箇所の後半には、自分のための3つ祈りがでてきます。
初めに出てくるのは、『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』なぜ主が、私たちに神の御名、神の御国、神のみこころのために祈るよう教えるのか、なかなか理解できない人もいるかもしれませんが、ここで突然、はなしは、日ごとの糧のことに替わります。この崇高な祈りから、急に日常生活に飛び込むとは、一万フィートも急降下するような感じがします。しかし、そこには大切な理由があるのです。
主が目をとめられるのは、真に神から出た者であり、いつでも、神の御名、御国、みこころのために祈る人です。このような祈りは欠かせないものであり、こうして祈るものは必ずその身に、サタンの攻撃を招くことになります。ここで、祈らずにはすまされないことがひとつあります。日々の糧です。食べ物は人間にとって欠かせないものであり、おおきな試みとなります。日ごとの糧を得ることが難しい時、それは人にとって、過度に大きな試みとなります。神の御名があがめられることを願い、御国が来るように、みこころが地でも行なわれますようにと祈りながら、その一方で、あなたは人間として地上に住み続け、日ごとの糧なしには生きていけません。サタンはあなたのこの必要を熟知しています。だからこそ、こうして生活を守っていただくための祈りを用いなくてはいけません。キリスト者は、主の守りが自分にあることを祈ります。そうしないと、こうして主に向けた初めの(天的な)祈りを祈っているあいだに、敵の攻撃を受けるでしょう。サタンが私たちを攻撃するのはここです。日々の糧を必要としていて、そこを巧みに攻撃されたら、祈りにも必ず影を落とします。この祈りが欠かせないものであると、知ることができますように。人間としてこの地上にいる限り、体は日々の食べ物を必要とします。ですから、神に日々の糧をくださいと頼まなければなりません。
この祈りはまた、私たちが日々、神と向かい合い、毎日、神に祈ることが必要であると示してくれます。主がこう教えているからです、『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』週に一度、祈るのではなく、毎日、祈るべきことです。地上には私たちが頼れるものはなく、貯め置かれたものありません。私たちは、一週間分や一か月分ではなく、今日の糧を求めなければなりません。神により頼むしかないのです!主は、私たちの日々の糧に無関心ではないし、それを求めないよう教えることもなく、むしろ、人が毎日、求めることを望んでおられます。
父なる神は既に、私たちに必要なものを全て知っておられます。それでも、主がここで、日々の糧を毎日、神に祈るように望まれるのは、私たちが父の方を見て、信仰を日ごとに新たにすることを願っているからです。私たちはいつも、先のことを心配しすぎて、ずっと将来の必要を祈ってしまうのではないでしょうか。これはよくないことです。神の御名、御国、みこころに対する強い思いがあると、私たちの苦しみも、おのずと大きくなります。しかし、神が今日は、この日の糧をくださるのですから、明日が来たら、明日の糧のことを祈ればよいのです。『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(マタイ6:34)
二番目の願いはこれです、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』私たちは、肉体的な必要がある一方、くもりのない良心をも求めています。私たちは日々、あらゆることで神を悲しませずにいられないものです。そのすべてが罪ではないかもしれませんが、負いめとなることはあります。行うべきだったのに、行わなかったことは負い目です。言わなければならなかったのに、言わなかったこともまた、負い目です。こうなると、神の御前に責められることなく、良心をつらぬくのは容易なことではありません。毎晩、寝床に着く前、私たちはその日、神を悲しませた多くのことを思います。それは、必ずしも罪ではなくても、負い目ではあります。神に私たちの負い目を赦して、もう思い出さないでくださいと頼むとき、そこに、くもりのない良心を持つことができます。これは非常に大切なことです。罪だけでなく、負い目も赦してもらってはじめて、くもりのない良心を持って、大胆に神の前に生きることができるのです。
私たちは神に願います、私たちの負いめをお赦しください、私たちも自分に負いめのある人たちを赦しました。兄弟姉妹に厳しい態度を取り、自分が傷つけられたことを忘れようとしない人は、神に負いめを許してくださるよう頼む資格はありません。心があまりに狭くて、人のせいで傷ついたり、気分を害したことばかり思っているなら、神の前でこうに祈る資格はないでしょう。大胆に父の御許に来て、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました』と頼みたいなら、自分が先に人を赦す心を持つことが必要です。人の負い目を赦していないのに、神に自分の負い目を赦してくださいと頼むことなどできません。自分が初めに、自分に負い目のあるものを許していなければ、どうして口を開いて、神の許しを請うことができるでしょう?
ここで大切な点ですが、私たちの父との関係を語ると同時に、聖書はまた、兄弟姉妹の中におけるお互いの関係も示しています。他の兄弟姉妹との関係を顧みることなく、自分と神との関係を憶えているから、自分は神に対して正しいと考えている兄弟姉妹がいたら、その人は自分を欺いているのです。今日この日、兄弟姉妹との間に不一致を生んだら、直ちに神の祝福を失っています。同じように、今日、兄弟姉妹たちに対して、するべきことをしなかったり、言うべきことを言わなかったら、そこには、罪はなくても、負い目が生まれます。罪がなければ、全てはうまく行くなどと夢を見る(期待する)ことはやめしょう。私たちには、どのような負い目もあってはいけないのです。兄弟姉妹に抱いている不平不満を許すことも、忘れることもできなければ、自分たちが神の許しを受けることの妨げとなります。私たちが人に相対するのとまったく同じように、神も私たちに対処されます。神は自分の負い目を赦したと考えながら、自分は負い目のある相手を決して忘れず、その負い目をいつも思っては、苦情を言い続けていたら、自分をひどく欺いていることになります。主ははっきりと、こう祈るよう教えているからです、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』
『赦したように・・・・』ということばに注意してください。『赦した』ことがないのに、『赦したように』と口にすることなど、どうしてできるでしょう?負い目のあるものを赦したことがなければ、あなたの負い目もやはり、神に覚えられているでしょう。負いめのある人たちを心から赦し、彼らの負い目が初めからなかったかのように消し去ったら、そのとき、あなたは大胆に神のみ前に来て、こう言ってよいのです、『私の負いめをお赦しください。私も、私に負いめのある人たちを赦しました。』そうなれば、神はあなたの負い目を赦さないわけにいかないのです。心から喜んで、『負いめのある人たちを赦し』ましょう。それができなければ、神も私たちを赦すことはありません。
三番目の願いは何でしょう?『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』一番目の願いは肉体的な欲求と結びついており、二番目の願いは私たちの兄弟姉妹との関係を教えるものでした。この最後の願いは、私たちとサタンとの関係を語っています。『私たちを試みに会わせないでください』は後ろ向きな面であるのに対し、『悪からお救いください』の方は前向きです。神の御名、御国、そして、みこころへの強い思いを抱きながらも、この地上で神のために生きている私たちは、一方で、日々の糧を備えていただくという肉体的な欲求を神に向けており、また一方で、自分には、神の御前にいつも清く、正しくあるための良心が欠けていることを経験し、神に負い目を赦していただくよう願わずにいられません。そこにはまた、別の必要も生まれます。それは、平和を持つ必要であり、そのためには、サタンの手から救ってくださいと、神に頼むことになります。
兄弟姉妹のみなさま、天の御国の道を歩けば、それだけ、多くの試みを受けるようになります。このような状況に、どう対処すべきでしょう?祈りながら、神にこう乞うことです、『私たちを試みに会わせないでください。』自分を過信しすぎて、あえて試みに立ち向かってやろうなどと考えないでください。主が、こう教えられたからには、私たちは、試みに合わせないでくださいと、神に祈るしかないのです。いつ試みが来るのか、人は知ることはできませんが、前もって、神が試みに合わせないように祈っておくことはできます。
この祈りは自分を守るためのものです。試みが来るのを待ちながら毎日を送るより、私たちを試みに合わせないようにと主に祈るべきなのです。主が許されるものだけが起こってよいのであり、主が許さないものは、私たちの身に起こらないように願います。そうしなければ、朝から晩まで、試みと戦うことで手いっぱいで、他のことが何もできなくなってしまいます。私たちは試みに合わせないように主に求め、会うべきではない人に会わず、起こるべきではないことから遠ざけられることを願います。これは守りを求める祈りです。そして、私たちは神の守りによって、日々の糧を与えられ、良心のやましさの問題が解決され、そして、試みにも合わないように願うべきです。
私たちは、『試みに会わせないでください』というだけでなく、『悪からお救いください』とも、主に求めなければなりません。この後半は、前向きな願いです。サタンの手がどこに在ろうと、日々の糧にかかっていても、良心を攻め立てても、また、私たちを試みようと手を尽くしていても、私たちはただ、主に悪から救い出してくださうと願うばかりです。言葉をかえれば、どんなことでも、悪の手に堕ちることなど心配しなくていいのです。マタイ8章と9章を読むと、サタンの手は、私たちが思う以上に多くのものに広がっていることが分かります。サタンの手とは、人間の体には、高熱というかたちで現れるかもしれませんし、海で例えれば、突然の嵐かもしれません。サタンの手は、人間においては悪霊に取りつかれ、また、豚の群れが水に溺れることを通して、その正体を現わすかもしれません。それは、人の心に生まれる、主への理由なき拒絶や反抗の中に映し出されることもあります。どの場合も、サタンはそこにいて、人を傷つけ、苦しみを与えようと目論んでいます。だからこそ、私たちは祈り、主に悪から救ってくださいと願うべきなのです。
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