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2024年11月1日金曜日

『神への渇き』、第十章―生活の聖礼典(サクラメント)終章

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第十章―生活の聖礼典(サクラメント)

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。――第一コリント一〇・三一

心の平和に到達しようとするキリスト者が出会う最大の邪魔ものの一つは、われわれの生活を聖と俗との二面に分ける、あの広く行われている習慣である。この二つの面は別々に存在し、道徳的にも霊的にも両立出来ないものと考えられている。そして、われわれは生活の必要上その一方から他方へ常に行ったり来たりしているので、私たちの生活は破綻してしまい、統一した生活が出来なくなって、分裂した生活を営むようになりやすい。

2024年10月24日木曜日

『神への渇き』、第九章―柔和と魂の安息

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第九章―柔和と魂の安息

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。――マタイ五・五

山上の垂訓をひっくり返しにして、「これが人類の姿だ」と言ったら、それは人類の真相をかなり正確に伝えたものと言っていいだろう。なぜなら、山上の垂訓で説かれているいろいろな徳目の正反対が、人間の生活および行為のいちじるしい特徴になっているからである。

2024年10月20日日曜日

『神への渇き』、第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。――詩篇五七・五

自然界の秩序が正しい関係に基づいていることは明白なる事実である。つまり、万物が調和して存在するためには、おのおのの物がお互いの関係において正しい場所におかれていなければならないのである。人間の生活もやはりそうである。

2024年9月17日火曜日

『神への渇き』、第七章―魂の凝視

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第七章―魂の凝視

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。――ヘブルー二・二

第六章で述べたあの知的な常識人がはじめて聖書を読むようになったと仮定してみよう。彼はその内容については何の予備知識もなしに、聖書に近づく。彼は全然偏見を持っていない、別に何かを証明しようとするのでもなく、また弁護しようとするのでもない。

2024年8月29日木曜日

『神への渇き』、第六章―語る声

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第六章―語る声

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。――ヨハネ一・一

キリスト教の真理について教えられたことのない知的な常識人が右の聖句に出会った場合、彼はおそらく、ヨハネは、語ること、つまり自己の思いを他の者に伝えることが神の性質である、と教えるつもりだったのだ、と結論することだろう。そして、その結論は正しいと言えよう。言葉は思想を表わす手段である。それが永遠なる御子に適用されるとき、自己表現は神性に内在するものであり、神は永遠に御自身を被造物に向かって語ろうとしておられるという信仰にわれわれは導かれる。聖書全体がこの思想を支持している。神は常に語っておられる。神は語られた、ではない、神は語りつつあるのだ。神はその御性質のゆえに絶えず明瞭に語っておられる。神は世界をその語る声をもって満たしておられるのである。

2024年8月14日水曜日

『神への渇き』、第五章―宇宙における神の内在

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第五章―宇宙における神の内在

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
――詩篇一三九・七

すべてキリスト教の教えの中には、ある種の基本的な真理が含まれている。それは時には隠されており、また積極的に主張されるよりもむしろ当然のこととして前提されているが、しかもあらゆる真理にとって必要なのである。それはちょうど、原色が完成された絵画にとって必要であるのに似ている。このような基本的真理が神の内在ということである。

2024年7月27日土曜日

『神への渇き』、第四章―神を捉えること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第四章―神を捉えること

味わい、これを見つめよ。――詩篇三四・八

二十五年以上も前に、神に対する普通人の持つ信仰の推論的性格に注意を換起したのは、インドのキャノン・ホウムズであった。たいていの人々にとっては、神は推論であって、実在ではない。つまり、神は彼らが十分だと考える証拠から演釈されたものではあるが、個人によって親しく知られることはないのである。彼らは言う、「神はあるにちがいない、だからわれわれは神があると信ずるのだ」これはまだよい方で、そこまですら行っていない人たちもいる。彼は神については噂で知っているだけなのだ。彼らは自分で考えぬく労をとることなく、他の人たちから神様の話を聞き、神に対する信仰を、彼らの全信条を形成しているいろいろながらくたと一緒に、心の奥の方に投げ込んだままでいる。さらに他の人々にとっては、神は一つの理想、すなわち真や善や美の別名にすぎない。あるいは、神は法則とか生命とか、存在現象の背後にある創造的衝動とかに考えられている。

2024年7月7日日曜日

『神への渇き』、第三章―へだての幕を取り除くこと

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第三章―へだての幕を取り除くこと

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、――ヘブル一〇・一九

教父たちの有名な言葉の中でも、アウグスチヌスの次の言葉ほどよく知られているものはない。

「なんじは我らをなんじのために造りたまいたれば、われらの心はなんじの中に憩うまでは休息(やすみ)を得ざるなり」

2024年6月28日金曜日

『神への渇き』、第二章―何も持たない幸福

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第二章―何も持たない幸福

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。――マタイ五・三

主なる神は地上に人間を造られる前に、まずその準備として、人間の生存と歓びのために役立ち、また人間を楽しませる様々なものに満ちた世界を創造された。創世記の天地創造の物語では、それらのものはただ単に「物」と呼ばれている。それらのものは人間が使うために造られたのであるが、それらは常に人間の外にあり、人間に奉仕すべきものであった。人間の心の深いところには一つの宮があって、そこには神以外の何者も住む資格はなかった。人間の内には神がおられ、外には、神が人間に雨のように注がれた無数の贈物があった。

2024年6月23日日曜日

『神への渇き』、第一章―神を慕い求めること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第一章 神を慕い求めること

わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。――詩篇六三・八

キリスト教神学は先行的恩寵の教義を説いている。それは簡単に言うと、人間が神を求める前に、まず神が人間を求められたに違いないという意味である。

罪ある人間が神について正しく知る前に、人間の心の中に神による教化のわざが行われたにちがいない。それはたとえ不完全であっても真実のわざであった。それは、つづいて人の心の中に生じる、希求や探求や祈禱のかくれた原因となった。

2024年6月20日木曜日

『神への渇き』、序文、はしがき

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer


目次

第三章 へだての幕を取り除くこと
第四章 神を捉えること
第五章 宇宙における神の内在
第六章 語る声
第七章 魂の凝視
第八章 創造主と被造物の正しい関係の回復
第九章 柔和と魂の安息
第十章 生活の聖礼典
あとがき

2021年10月6日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】10月6日:宗教の失敗

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(第二テモテ3:5)

宗教の中では、また、宗教によっては、罪人の必要を十分に満たすことはできないという事実を直視しようとしない人たちが、何百万人といます。

宗教家たちは、驚くほどたくさんのことを、あなたにしたいと望んでいます。幼児洗礼から始まり、あなたが百八歳まで生きた時には、最後の儀式まで取り仕切るのです――そのあいだ、ずっと、あなたを操り、あなたの心を傷つけ、そして、甘い言葉であなたの魂を解きほぐそうとします。それが全て終わった後も、あなたは、結局、もとのあなたのままです。あなたは、飾り付けられ、魂を解きほぐされた罪人――肉を食べなかった罪人とか、魚を食べた罪人――に過ぎないのです。

2021年10月4日月曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】10月4日:「目標を目ざして」

うしろのものを忘れ、・・・目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

キリストの信仰者に対し、自分の昔の姿を振り返って、落胆するように仕向けるのは、悪魔が昔からよく使う手口のひとつです。私たちの魂の敵はいつも、神の愛は尽きないことを忘れさせようとします。

神の誠実さに目を向け、自分自身を見つめることをやめて初めて、人は神とともに前進することができるのです!

新約聖書が私たちに教えていることは、つきつめれば、信仰をもって前を向くこと――そして、後ろを振り返ったり、自分の内側を見つめて時間をつぶさないこと――の大切さということになります

2021年9月24日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】9月24日:私たちの日々の問題

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。(第一コリント10:13)

キリストの信仰者が、キリスト者として生きることが、人間的な試練や問題に対する保証になると考えているなら、その人は間違った教えを受けていることになります。そのように信じている人は、地上を天国と取り違えており、天上のよりよい世界に至ってはじめて実現する状態を、この地上で求めているのです。

神は聖人と罪人のあいだに何の区別も置かないと、誰もが感じています。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくだいます(マタイ5:45)。不思議なことに、私たちはこの真実の裏側になかなか気づきません――すなわち、神は、どんな人間にも起こる問題を、ご自身を信じる神の子供たちにも、等しく与えられるのです。

2021年9月1日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】 9月1日:神への信頼

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができます。(第一ヨハネ3:21)

キリスト者の生活の中で気づく、非常に大切なことのひとつがこれです――私たちは、ご自身を明らかにしてくださった神に、全幅の信頼を置くことができるのです!

キリスト者としての人生が始まったばかりの頃、神は人を裁くために制裁を加えるようなお方ではないことを理解できたのは、私にとって大きな恵みでした。神は、私たちが塵に過ぎないことをご存知であり、私たちの神として、愛と忍耐をお持ちです。

2021年8月27日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月27日:祈らない人たち

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント3:13)

キリスト教において、礼拝者が非常に不足している兆候がいたるところに見られます。

教会の委員会などには、すすんで参加するのに、霊的なよろこびや輝きを求める気持ちがなく、祈り会には全く顔を出さないような人たちがたくさんいます。

祈りもしないし、礼拝もしない人たちが、多くの教会を運営し、教会が進む方向を最終的に決定しているという事実は、私には、いつも、恐ろしく不自然なことに思えます。

2021年8月25日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月25日:サタンの策略

私たちは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。(第二ペテロ1:16)

驚くべきことに、キリストの信者に対するサタンのもっとも巧妙な策略は、私たちの美徳とするところを逆手に取って用いることです!もっと驚くべきことに、この策略は、しばしば大きな成功を収めているのです。

罪の誘惑という手立てを使って、私たちの個人生活を攻撃し、私たちの美徳を通して働くことで、サタンは信者の共同体を攻撃し、自分では守れないようにするのです。

街を攻め取ろうと思えば、敵はまず、その抵抗力を弱め、破壊します。教会は、抵抗しているあいだは、陥落することはありません。それを知っている悪魔は、教会の抵抗を無力化するためにあらゆる策略を用います。

2021年8月20日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月20日:『縮む』クリスチャン

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛し・・・・ました。(エペソ5:1-2)

改宗したばかりの人は、すぐにはじめの熱意を失って、メリハリのない宗教的な日常生活に落ち着くことになるという考えが、キリスト教界の一部では信じられていますが、私たちも同じ考えを受け入れなければならないのでしょうか?私は、聖徒たちの幸福をいつも心で願っているつもりですが、キリスト者たちの中に、『世間並みの信者』という称号を受け入れて満足している人がいることには、心を痛めています。

2021年8月19日木曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月19日:遠くにいる神

わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(エレミア23:23-24)

子供のころ、神の存在についての短い歌にあった『星空の彼方、遠く』という歌詞をよく覚えています。

そこは、人間が神を置いた場所です。神は、星空の向こうのどこか、遠いところにいることになったのです。

この世に生きる人間として、私たちは神の存在を自分に理解できる空間の観点から考えがちです。私たちは、光年とかメートル、マイル、尋(水深)などの単位で考えます。私たちは、神がどこかの場所に住んでいると考えます――違います!神は、ある人々が考えているように、天と地のあるところにいつも住んでいるのではありません。

2021年8月15日日曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月15日:来るべき祝福の日

8月15日:来るべき祝福の日

神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 (第二コリント5:1)

多くの人たちが、天国に行くことについて話していますが、世の宗教が与える希望は、実にはかないものです。

死という出来事の向こうに、祝福された状態を求めることができるという希望は、神の優しさ、そして、イエス・キリストが私たちのために十字架でなされた購いの御業の中にしかあり得ません。

神の深い深い愛は、そこから後の幸福が流れ出る泉であり、キリストにある神の恵みは、その泉から私たちに届く水路です。キリストの十字架は、神と同じ性質が罪人の側にあるという、高潔な状況を作り出します。