ラベル My Daily Pursuit の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル My Daily Pursuit の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年8月4日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】8月3日

正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(詩篇32:11)

私は、福音主義教会に、救いとは、あたりを照らす電球でも、地獄を避けるための保険証書でもなく、神とその心への入り口であることに気づくようにと祈っています。

カルト集団は、この小さな宗教ゲームが大好きです。彼らは、保険契約を結ぶようなやり方で安心を提供しようとします。残念ながら、彼らが提供するものは、聖書が与えるものより、はるかに劣っています。

私が心配するのは、世の福音教会も、危険なほど、このような態度に近づいてしまっていることです。どういうわけか、人が改心する理由も、この水準まで堕落してしまったのです。人が何から救われたのかということでも、神に感謝すべきではありますが、むしろ、何へと救われたのかということが大切なのです。

2021年7月30日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月30日

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。【第一ヨハネ3:2】

私の好きな気味悪い一服の絵があるのですが、その絵がこの考え方の理解を助けてくれます。それは、天使と猿が部屋の中に並んで座って、お互いを見つめ合っているという絵です。

天使と猿が、ひとつになることは絶対にあり得ません。どうすれば、そんなことができるでしょう?

もし偉大なる全能の神が、ご自身の栄光と祝福に満ちた天的な性質を天使から取って、猿の中に預け入れたら、猿は飛び上がり、天使と握手してその名前を呼ぶでしょう。その瞬間、二者のあいだに類似が生じるからです。

2021年7月29日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月29日

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。【第二ペテロ1:4】

ここで使徒ペテロは、主による取りなしという問題を、自分なりに説明しています。神が私たちに福音の約束を残されたのは、その約束によって、私たちが神のご性質にあずかる者となれるためであると、彼は言っています。

これはどういうことでしょうか?

これが意味するのは、罪人が家に帰るとき――すなわち、救いの信仰をもって、悔い改めてキリストを信じるとき、神は、この罪人だった者の胸に、ご自身の性質の一部分を埋め込むということです。このとき、神の中にある神の性質と、罪人の中にある神の性質は、異質なものではなくなります。二つはひとつになり、そして、この罪人は家に帰ったのです。不一致はなくなり、似ていなかった部分は取り去られ、そして、人の中の神の性質が、神と人との交わりを自然なものとします。

2021年7月10日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月10日

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。【ヘブル12:17】

平均的なキリスト者は、ある真実について聞いたら、その真理は自分のものになったと考えます。霊性は、学問とは違います。学問では、教科書を読んで、いくつかの事柄を暗記すれば、その科目を習得したことになります。

しかし、霊的な問題は、そうではありません。

耳で聞いたことばが、あなたの霊的な性質の一部分となるような輝きを与えることができるのは、聖霊だけです。真実が私たちの一部分となるように、私たちの心を開こうと、聖霊は望んでいます。

2021年7月3日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月3日

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。【第一ペテロ2:23】

私は心の中でうんざりしています。自分自身のこと、友人たちのこと、また、今日の聖書者たちのことで嫌気が差しているのです。あまりに、自分を中心としたものになっていながら、私たちは、神を讃えることを声高に語り、自慢げに、『これこそ神の栄光だ』などと言っています。

自分が中心になっていることは、どうしたら分かるでしょうか?

2021年6月29日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月29日

しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。【ホセア13:4~5】

神の近くにいたいという願いは、事実、神のようでありたいという願いです。神と同じようになって、完全な交わりができるように――そうして、心と神が、神聖な交わりの中でひとつになれるようにという、贖い出された心の願望なのです。

人が神と似ているところがあるからこそ、神と子どもたちの交わりが、互いを結びつけ、うまくゆくのであり、生まれ変わった子どもたちの中で、もっとも貧しく弱いものであっても同じです。しかし、全く似ていない部分もあり、その違いのゆえに、あるべき交わりが持てないのです。

2021年6月27日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】 6月27日

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。【詩篇31:1~2】

ほとんどのキリスト者は、神学的なキリスト者です。彼らは、自分が救われていることを知っています。誰かがどこかで、彼らに教会名の入った新約聖書を手渡したのですが、神学を正しく理解させるためにそうするのは、悪いことではありません。問題は、彼らが神の存在を感じることなしに、幸せになろうと試みていることです。神の近くにいたい、神が自分の近くにいて欲しいというこの切実な願いは、神の民ならば誰でももっているものです。祈り、歌、賛美の中にも表れています。

2021年6月22日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月22日

私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。【詩篇18:6】

私たちが大いによろこぶべき、聖書の偉大な真理のひとつは、今日、新生したばかりの新しい改宗者であっても、いく分かは神の高潔さに近づいており、それによって、ある程度の一致が与えられているということです。天国とは、全てが完全に一致しているところです。罪が、神と罪人のあいだの不一致をもたらしたのです。

2021年6月20日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月20日

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。【ヘブル10:12~14】

義認とは、罪人を正しい者と宣告することですが、これはその人の外で行われます。義とされても、その義認がその人に起こった全てであれば、それだけで終わりです。義認は、本来、司法の場で行われるものです。誰かが法廷に立って、ある犯罪と関わりがない――無罪であると宣告されても、それで、その人の内面が変わるわけではありません。その人の体重は、前と完全に同じだし、背の高さも変わりなく、髪や目の色も変わってはいません。人間関係も前と違うところはなく、全ての面で、以前と同じ人間です。ただひとつ違うのは、この人は司法的に自由であり、法の前に無罪であると宣告されたことです。

自分が無罪と宣告されたら、誰でもその事実をよろこぶでしょう。しかし、宣告をしたのは、本人ではありません。この宣告は、陪審員の頭の中で、法律に則って行われたものです。

2021年6月17日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月17日

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。【コロサイ2:13~14】

放蕩息子は、あまりに辛い日々を経験した後で、ついに自分を取り戻しました。それは、苦しくても、価値のある旅です。我に返ったとき、自分が何をしなければならないか、彼にはすぐに分かりました。

あまりに多くの人が、自分が何をすべきかを知らないために、遠い国をさまよい、父親から遠く離れています。自分が置かれている状況にいら立っているのかもしれません。何をしたらいいのか、探し求めているのかもしれません。我に返って、自分の現実の姿を知るまで、何をすべきか、知ることはできません。

2021年6月16日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月16日

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。【ルカ15:22~24】

放蕩息子が帰ってきたとき、父親は前と変わっていたでしょうか?

放蕩息子が、父に冷たい仕打ちをしても、また、近所の人たちが哀れんで、『ああ、あの息子、可愛そうな年老いたお父さんになんてひどいことを』とうわさしても、父親は、全く変わっていなかったのです。この父親は、屈辱を受けて失望し、嘆き、心を痛めていたのですが、息子が帰ってきたとき、前と何も変わってはいませんでした。

2021年6月15日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月15日

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。【ルカ15:12~13】

多くの人が、放蕩息子のたとえを説明しようとしてきました。彼を、背信者と呼ぶ人がいます。彼を、罪人と呼ぶ人もいます。しかしながら、神が罪人のことで、『この息子は、死んでいたのが生き返った』と語るところを想像できるでしょうか

どちらも受け入れられなかったので、私は、神のところに行って、願いました、『神よ、お示しください。』

2021年6月14日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月14日

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。【ルカ15:17】

おそらく、すべての書の中でもっとも偉大な物語のひとつが放蕩息子の話でしょう。

二人の息子のうち、弟は退屈な生活に飽き飽きしてしまい、遠い世界に憧れて、冒険と興奮を求めるようになりました。彼は、財産の分け前を受け取ると、外の世界に出てゆき、毎日を遊興の中に暮らしました。彼がどのくらい、そんな生活を続けたのかは分かりませんが、結局、豚の世話をして生活するほどに落ちぶれてしましました。これはユダヤ人の男性にとっては、最下層の仕事だったのです。

2021年6月7日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月7日

あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らない。【申命記10:17】

神について考えるときに考慮すべき、もっとも大切な点として、神は決して、いら立つことがありません。人間は、いら立つものであり、それには理由があります。私たちは無限ではありません。しかし、神は、何に対しても、誰に対しても、どんな時も、いら立つ理由はありません。

神がいら立つことがないのは、限りのないお方だからです。無限であるからこそ、神は、常に神で有り続け、決して、変わることがありません。神なるものは、すべてが完全な調和のうちにあります。その全てを、神は永遠の御子に授けてくださいます。

2021年6月4日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月4日

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。【ローマ5:15】

ジョン・バニヤンは自叙伝を書き、その書を『罪人のかしらに恵みが満ちる』と名付けました。バニヤンは、この題が、まさしく自分の人生を現していると思っていました。彼は、神の恵みを受けるのに、自分ほどふさわしくない者はいないと信じていました。実際には、ふさわしい人などいなかったのです。しかし、彼は、自分の罪を深く思い、自分を救い出したのは神の満ちあふれる恵みに他ならないと感じていました。

2021年6月2日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月2日

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。【箴言3:34~35】

誰であろうと、過去に何をしていようとも、すべての人は神の恵みのもとに置かれています。しかし、誰もが神の救いの恵みを経験するわけではなく、ここに、大きな違いがあります。神の恵みはすべての人に及ぶのですが、その恵みが、イエス・キリストへの信仰を通して働くときに初めて、新生が起こります。

すべての人がこの恵みを経験するわけではありません。それでも、神は、ご自身の思いやりで、誰に対しても、悔い改める機会を与えるまで、下されるべき裁きを留め置かれます。

恵みとは、神の優しさです。神の心にある思いやりであり、神の好意であり、心からの愛です。神が、どのようなお方かということを表すものです。

2021年5月30日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月31日

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。【ヘブル4:16】

神の購いは、慎重に練られ、考え抜かれた大昔からの計画に沿って、キリスト・イエスの中に実現されました。

恵みは、キリストが飼い葉桶で生まれたとき、洗礼を受けたときや聖霊を注がれたときに、もたらされたのではありません。主が十字架で死んだとき、死者の中からよみがえったときやみ父の右の座についたときに生じたものでもありません。

2021年5月27日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月27日

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。【出エジプト記15:13】

旧約聖書には、哀れみについての記載が、新訳聖書の四倍もあります。一方、奇妙で驚くべきことに、新約聖書では、旧約に比べて、恵みについて、三倍以上もふれられています。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したと書かれています(ヨハネ1:17を参照)。キリストは、恵みが流れ出る祝福された管ですが、その意味が誤解されることがあります。残念ながら、非常に多くの人が誤解しています。

よい信仰を持った人たちでさえ、ここを誤解しやすいのです。多くの人々が、これを、モーセは律法しか知らず、キリストは恵みしか知らなかったと言う意味に捉えています。私たちの父たちはそのように教えていないし、清教徒の書物、ジョン・カルビンや有名な信仰復興論者、改革者たちの著作にも、そんなことは書かれていません。

2021年5月25日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月25日

主ご自身がこう言われるのです。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。【ヘブル13:5】

世の中には、心を慰め、気持ちを和らげるための心理療法や治療がいろいろとあります。辛い思いをしている人を慰めようと試みることは何も悪くありませんが、それが行き過ぎることがあるのです。

私は、人間の立場から慰められたいとは思いません。心の中にある、不義を誰にも軽々しく扱って欲しくないのです。神の前に自分が砕かれるままにすれば、その砕かれた残骸から、神の力と臨在が生まれます。神の臨在こそ、私が日々、切望するものです。

自分を神のみ前に投げ出すその恐ろしい時間、家族も友人も私を助けることはできません。創造されたのではない存在が私のむき出しの霊に迫るとき、人からの助けは何の役にも立ちません。

2021年5月21日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月21日

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。【エゼキエル14:6】

私が、自分では乗り越えられないもの、頭を垂れて、日々、ざんげの祈りを捧げるものとは、私自身の不義です。

私は、自分が生まれ変わったことは知っています。自分が天国に向かっていることも知っています。イエス・キリストが、私の多くの罪のために十字架で死なれたことも知っています。

私の心の奥深く、自分の不義に苛立つ気持ちがあります。この聖なるお方をよりよく知るほど、私の不義は恐ろしいものになってゆきます。私が自分自身を、神が見るように見つめ、そして、主の目、その聖なる目を通して私自分を見始めるとき、私は、自分の不義を、神が感じているのと同じように感じるようになります。