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2016年10月22日土曜日

心から心への言葉[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること

[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

自分の体を痛めつけるとは、肉体の自然な欲求を否定することを言います。これを行う人は、霊的であるとはみなされません。冬になっても温かいお湯を使わず、冷たい水で顔を洗う兄弟がいました。彼はまた、体を痛めつけるために、冬の間も薄着で通しました。ある姉妹が、私を食事に招いてくれました。彼女が作ってくれた料理は奇妙な味がしました。理由を訊いてみると、その答えはこうでした、『霊的になるためには、自分の体を痛めつける必要があります。よい食事をすれば、肉に楽しみを与えることになります。そんな人は霊的にはなれません。だから、肉が喜びを得ないように、私はおいしい料理を作らないことにしているのです。』確かに、キリスト者は、この世の楽しみや、贅沢な食事を求めるべきではありません。しかし、だからと言って、わざと不味い料理を作ることも間違っています。

では、『自分のからだを打ちたたく』(第1コリント9:27前半)とはどういうことでしょう?これは、肉体から来る欲求が、霊的な生活の妨げとなることを許さないという意味です。この生き方を貫くキリスト者こそ、真に霊的と言えます。『からだを打ちたたく』は、肉体からの自然な欲求はあっても、主とその働きのために必要とあらば、その欲求を投げ出すことをもいとわないということです。自然な欲求をすべて満たすことに執着し続けるなら、そのキリスト者は、体を打ちたたくという霊的な教えを学んでこなかったことになります。

以前、私は一人の兄弟と旅をし、ある家に滞在しました。食卓についている間、彼は箸を休めることなく、皿に盛られた好物を口に運び続けていました。はじめの旅の後、10年以上経って、再び彼と旅することになりました。その時も、この兄弟は同じことをしていました。この人は、自分の体を打ちたたいて従わせるとはどういうことか、明らかに学んでこなかったのです。自分の体を痛めつけるというのは、体からの自然な欲求をも拒絶すること、肉体のあり方をねじ曲げることを言います。このような行動は誤りです。一方で、からだを打ちたたくことを学ばなかった人は、主の御手の内であまり役に立ちません。

あるとき、私は二人の兄弟と主の奉仕のために出かけました。彼らは、とても活発に福音を述べ伝え、また、熱心に人を助けていましたが、一日のある時間が来ると決まって、働くことをやめて、休み始めるのです。昼食の後は、午睡の時間と決めていたからです。その合間も、多くの人が交わりを持ち、助けを求めるために来たのですが、彼らは誰にも会おうとしませんでした。その時間、私も彼らに手助けを求め、無理に頼みさえしたのですが、無駄でした。これでは、自分の肉に合わせ、自己憐憫や自己愛にふけっているだけです。彼らは自分の体を打ちたたくことを学んでいなかったのです。

中国の道教、仏教は体を痛めつけると言う概念を採り入れていますが、この考え方は聖書的ではありません。『からだを打ちたたく』と言ったとき、パウロは体を自分に仕えさせることについて語っていたのです。彼は、体を自分に仕えさせることができ、自分の肉体に支配されることはありません。これは、人の霊的ないのちが、体の欲求の前に決して、くじけないことを意味します。冬に顔を洗うときは、必ず温かいお湯を使うと決めている人は、体を打ちたたいて従わせることを、身をもって学んでいません。私たちは、体の働きを壊さないように、肉体的な必要には注意を払うべきです。しかし、同時に、この体は霊に支配されていなければなりません。

悲しいことに、兄弟たちの中にも、満腹するまで食べずにいられない人がいます。空腹に耐えられないのです。眠りが足りないと生きていけないからと言って、好きなだけ寝ている人もいます。また、清潔さにこだわるあまり、部屋にホコリがあったり、散らかっていることに耐えられない兄弟がいます。そして、また、堅い木の上では眠れないと言って、やわらかい寝台しか使わない人もあります。これらはみな、その兄弟たちが体を打ちたたくことを学んでいないことを示すものです。キリスト者も、心は燃えていても、肉体が弱いうちは、体を打ちたたくことを学んでいません。このような『自分を愛する』人たちは、神の手の中で、ほとんど役に立ちません。体を打ちたたいて従わせるにはどうすればよいのか、神の深いあわれみを受けて、学ぶことができますように。

2016年10月18日火曜日

心から心への言葉[51]キリストの体の部分となるために

[51]キリストの体の部分となるために
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

私たちは十字架がすべての中心であると信じています。しかし、十字架そのものが目標ではありません。十字架は神のきよい目的を理解するための道であり、その目的とはキリストの体です。十字架が生活の中で働くことができれば、自分がキリストの体の一部となったことが分かるでしょう。

多くの信者は、聖さこそが自分の勝利であるかのように追い求めますし、確かにそれは価値あるものです。しかし、神が霊的な経験を与えるのは、私たちがキリストの体の部分となるためであり、霊的な巨人として世界に出てゆくためではないことを心にとめましょう。

私をキリストの体の部分としてくれるものは何でしょう?神が私にキリストの体を見させてくれたら、その啓示は私の生活をどのように変えるでしょう?新しいところに光を当てて、何かを説明してくれるだけでしょうか?いや、この啓示は人生を根底から覆すものでなくてはなりません。それはまさに、私がいかにしてキリストの体の部分とされたかという啓示です!これまでに経験したことや、これから行うことではなく、内なるキリストこそが私を御体の一部としてくださるのです。

私をキリストの体の部分としてくれるものは、自分が持つ能力や行いから出るのではなく、私の中の主のいのちを通して現れます。キリストの体とはキリストだからです。

使徒パウロは、コリント人への第1の手紙の中で説明しました、『ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です(12:12)。』この一続きの言葉の中で、パウロは文法的にも、霊的にも、何ひとつ間違いをおかしていません。文法に関しては、パウロは最後の一文をこう書くべきだったと言う人もいるかもしれません、『キリストと教会もそれと同様です。』しかし、この使徒が言おうとしたことは、かしらはキリストであり、体もまた、キリストであることです。キリストから来るものはすべてが御体を形作るのに対して、キリストから来ていない物は何ひとつこの体に加わることはできず、切り捨てるしかないからです。

従って、これは何を加えるかでなく、何を差し引くかという問題です。すなわち、キリストの信者が、キリストの体に入り、その一部となるために、何を得たり、何かをする必要はありません。信者に必要なのはただ、自分の持てるものをすべて取り除くことです。そして、まさにこの時点で十字架が目の前に現れます。私から、キリストの体の部分となり得ないものを全て取り除くために、神が用いるのはただひとつ、十字架だからです。私自身の中から生まれる性質や気性といったものは、切り捨てる必要があります。中には、とても利口な信者もおり、自分の明晰さを通して、神の言葉を理解し、人に伝えることさえできると信じています。しかし、このような考えは捨て去らなければなりません。何としても、自分の心から抜け出すことが必要です。頭には救いの兜をかぶらなくてはなりません(エペソ6:17前半)。

キリストの体を知り、体験するためには、大きな犠牲が伴うことを理解しなくてはなりません。これはいのちの根源に関わるものです。なぜなら、キリストの体の中では、一部分だけの独立した行動は一切、行うことができないからです。この体の中では、気ままな行動は許されません。人間の体の中も、キリストの霊的な体でも同じことです。手が動けば、腕の筋肉も動かないわけにはいきません。腕が動くとき、指も必ず従います。これが意味するのは、キリストの体においては個人的な言動は全て、消し去るしかないということです。私たちは誰もが、キリストの御体の部分として、協調して動き、お互いに支えあわなければなりません。誰一人、自分だけで存在することはできず、ひとりひとりが兄弟たちと手を取り合って、前に進まなければいけません。

さて、本当にキリストの体を見たなら、他のかしらを持つことはきっぱりと拒絶しなくてはなりません。かしらであるキリストと共にあることはできないからです。ダビデには二人の敵がいました。ゴリアテとサウルです。一人は外にいる敵であり、もう一人は内側にいました。そのどちらも、かしらとしての性格を持っていたことに注意してください(第1サムエル17章4節、10~23節を参照)。頭から生まれる思いや考えと言ったものは、油注がれた者(この場合はダビデ)がイスラエルのかしら、王となって、玉座につく妨げとなります。ある日、ダビデの放った石が額に一撃を与え、ゴリアテを倒しました。まったく同じ日に、(油は注がれても神に拒絶されることになった)サウルの命運も定まりました。私たちは、この世界のあり方を撃ち破る必要はありません。私たちの格闘は、『血肉に対するものではないからです(エペソ6:12前半)。』ゴリアテが倒された時、かしらであったサウルの問題も解決したのです。

本当に十字架を知っていれば、それはあなたをキリストの体の経験へと導くはずです。多くのキリスト者が、主と、十字架の深い意味を分かっているつもりでいます。また、彼らは自分がキリストの体の真実を理解しており、すべてのキリストを信じる兄弟たちと、キリストにおいて一つになっていると主張します。誰もが、古い人を捨て去らなければならないと断言します。それなのに、古い人の性質から実際に離れることができないでいるとは悲劇的なことです。心にとめておいてください。過去も、現在においても、神があなたの人生で起こされたことはみな、キリストの体を経験するための用意だったのです。主が私たちの内になされることはその全てが、道を整えて、キリストの体の部分として役に立つものとするための備えです。

2016年9月30日金曜日

心から心への言葉[50]きよく、正しく、神に仕える

[50]きよく、正しく、神に仕える
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主(神)の御前に仕えよ』(ルカ1:75)。救われて、聖別されたものは、神に仕える者となります。神に仕えることについてルカの福音書はうたっています、『きよく、正しく、恐れなく、主に仕えよ。』きよさは私たちの側にあるもので、正しさとは他の人たちとの関わりを指すものです。きよさは神が与えてくれる、いわば贈り物です。正しさは学んで得るもの、すなわち、経験なのです。きよさとは性格上の特質であるのに対し、正しさとは学んで得る習慣です。きよさはいのちであり、正しさは生き方です。

主イエス様はご自身のことを、『わたしが道であり、・・・・いのちなのです』と言われました(ヨハネ14:6前半)。私たちのいのちはきよく、私たちの道は正しいのです。いのちは私たちの中にありますが、道は人に向かって出てゆきます。内に神のきよいいのちを受けた後は、外に向けて正しく生きる必要があります。外に向けた正しい生活は、内なるきよいいのちの力がなければ成り立ちません。キリスト者は、外から見ればもっとも正しい人と映るかもしれませんが、内なるきよさに支えられたものでなければその正しさには意味がありません。きよさと正しさは、言わば、一枚の硬貨の表と裏のようなもので、両方がなければ成り立ちません。私たちはきよさと正しさの両方において、主に仕えなければなりません。

正しさの問題について考えてみましょう。正しさとは、人やものごとにどう対処するかを示すものです。人は、救われるまで、間違った人生を生きてきました。自分を良いものと思い込んでいたために、そのことに気づいていませんでした。しかし、救われた時、人は神のきよいいのちを受けるのです。こうして、間違った生き方を見直し、正しい人生を始めることになります。これによって、正しさがその人の中に宿り、愛に満ちた行動がおのずと生まれるようになります。正しく、義なる者として、人との毎日を生きていくうえで、間違ったことをしたり、不正なものを受け取って手中に収めると言ったことは、はっきりと拒絶しなくてはいけません。この拒絶は、内なるきよいいのちと神の性質から生まれるものであり、神からの贈り物としていただいたものです。このような二つのつながりを、理解できているでしょうか?

古い話しです。救われた後の3年間、私は正しい人であろうと努めましたが、義とはなんであるか、はっきり掴んでいませんでした。ある日、私は、キリスト者の大きな集いで、演台の下、前の席に座っていた宣教者の話しを、新聞で読みました。立ち上がって演台に登るとき、他の席の上の歩かなくてはいけませんでした。彼はうっかり、人の外套を踏んで、汚してしまいましたが、謝ろうとはしませんでした。これを読んですぐに私は、正しくないとはどういうことなのかを悟りました。この説教者には、人のレインコートを汚す権利などなく、それは正しくない行動です。光を受けた時から、私は正しくない行いにどう対処するか悟ったのです。

人生には、多くの正しくないものごと、問題があります。正しくないことは、お金、態度、時間、所有物、などいろいろな場面で、自ずから現れてきます。正しさを追求することは、とても良い霊的な訓練となります。この意味で、御霊からいただける啓発は日光、私たちは窓ガラスに例えることができます。ガラスが何度も煤けたら、いずれは不透明になってしまいます。すなわち、問題は日が当たっているかではなく、ガラスがその光を通すかということにあるのです。まったく同じように、大切なのは、聖霊が光を当ててくれるかではなく、私たちの内側が曇りない状態に保たれているかということです。私たちが義を求めるのは、ガラスをいつもきれいに磨いて、透き通らせておくようなもので、それによって、いつでも聖霊の啓発のもと、霊的な感性を保ち、正しく生きることを可能としてくれます。

2016年9月24日土曜日

心から心への言葉[49]真実と光

[49]真実と光
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

天の真理を見るためには、神に光を当てていただくことが絶対に必要です。『どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください』(詩篇43:3前半)。神が照らし出すものとは何でしょう?神の光は、ご自身の真実を照らします。これを理解することはとても大切です。神の光を通してはじめて、その真理を知ることができるからです。真実は説教を聞いて学ぶものではなく、神の光を通して伝えられるものです。今日、兄弟姉妹に、『キリストの助けを受けたことがありますか?』と訊けば、おそらく、多くが、『私は死にましたが、なぜか真実は私のうちに働いていません、』と答えるのではないでしょうか。これは私たちが真理について聞いても、それを見ていないからです。真実を本当に見た者は、光を当てられた者であるはずです。

ある兄弟が証ししました。神がローマ書6章を読むようにと彼の目を開き、その後で彼はエペソ書6章も見たそうです。彼は、自分の死は事実であると同時にキリストの勝利でもあること、そして、自分が確かにその勝利にあずかっているという事実を見たそうです。それまでの彼は、何かを求めていましたが、今はそれを手に入れました。以前の彼は、主の勝利を願っていましたが、今はこう賛美しています、『主はすでに支配された。』それまでの人生とは、なんと言う違いでしょう。かつてはただ、あこがれ、願っていたものが、今は現実となりました。もう、それを掴もうと手を伸ばすことはしません。既に手の中にあるからです。光が来るとき、私たちは立ち上がって、それが完了したと告げます。

キリスト者は誰もがこのような啓発を経験しています。少なくとも、救われたときに一度は経験したはずです。救われたとき、そこで見たのは、救いへの期待や救いへの願望ではなく、また、いずれは救われるという希望でもなく、すべてがキリストにあって、既に成し遂げられたという事実でした。この啓発のもとではじめて、人はキリスト者となりました。すべてのキリスト者は、この光を現実の中に見たのです。実際には、あらゆる霊的な経験は、こうして真実を知らされるところから始まります。真理が広がっていくとき、そこに光が当てられなければ、単なる教義となってしまいます。しかし、神の光を受けるとき、真実は啓示へと変わり、啓示によって、私たちは真実を得るのです。啓示がなければ、人間的な論理で心を満たすことしかできません。啓示を得たものだけが、現実といのちを持っています。

神の光によって啓発されたとき、聖霊が霊的な現実へと導いてくれます。第一に、慰め主が真理の御霊と呼ばれていることから、真理の御霊が存在することは確かです(ヨハネ14:16を参照)。また、一方では真実の言葉である聖書があります。一つには事実としての真理があり、それは神がキリストにおいて成されたことです。聖書は私たちが信じるこの真理を示してくれます。それから聖霊は、私たちを真理の中へ、霊的な現実の中へと導いてくれます。主イエス様がその現実です。御霊によって、神は私たちをこの現実へと引き寄せます。そこで待っているのは、単なる教義や教えではありません。こうして、私たちは自分だけの感情や経験の中にではなく、キリストの成し遂げられた事実の中に生きることになります。

2016年9月17日土曜日

心から心への言葉[48]神に用いられるためには

[48]神に用いられるためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

救われた日から、神はご自身のいのちを私たちの中に入れ、生活の中の様々な問題を通して少しずつ訓練してくださいます。主が私たちに学んで欲しいのは、ご自身と協調して、共に働くことです。神は、ご自身の性質を私たちの中に混ぜ合わせて、御手の内に用いることを願っておられます。神の性質がどれだけ形作られているかということが、神にとってのあなたの価値を計る物差しとなります。内なる神の性質が大きくなるほど、あなたは神に用いられるものとなります。神の性質は、祈るときや、聖書を読んでいるときだけでなく、普段の行動の中でも、増し加わってゆきます。神のいのちが混じることを通してのみ、私たちは霊的に有用な者になってゆくからです。神の人格が中に溶け込むことだけが、私たちを、主の助けとなるものに変えていきます。入り込んだものは小さくても、それが私たちの霊的な価値となります。神がご自身を混ぜ入れるとき、そのいのちが神にとっての私たちの価値として現れます。

すなわち、神がその時々に行うことは、すべてが私たちの中にご自身の性質を日々、増し加えるためなのです。人としての性質があまりに強固であると、神は私たちを通して光り輝くことはできません。しばらくの時間が過ぎると、少しずつ、主は私たちから、外に現れてきます。この過程は、神のいのちが私たちから完全に現される日まで続きます。こうして、キリスト者としての全生涯を通して、神はご自身を私たちと混じり合わせ、これによって、私たちは神への助けとなることができます。

霊的に学んでいる時、心を何に集中するべきでしょうか?福音書にあるように、ペテロはおよそ3年間、主とともに歩きました。彼は何を学んだでしょう?主がペテロに教えたのは、神の御性質がどのように人の心の奥底まで入り込めるかと言うことでした。このキリストの弟子は、自分の考えを捨てて、主の考えに入ることを学びました。文字では書かれていなくても、福音の中にその様子がはっきり見て取れます。

自分の考えから抜け出すことを学ばなければ、神に用いられる者にはなれません。すべての奉仕は神から始まり、一度、私たちの中に入ってから、外に現れるべきものであると、心にとめておきましょう。神が中に入り、そして、外に現れてゆくことができなければ、人は私たちの心に触れるだけで、神の心には触れません。自分の心の中にだけ生きることは、人々の心が神にふれる道を閉ざしてしまいます。私たちを通して、人に神にふれてもらうにためは、自分自身から抜け出すことを学ばなくてはいけません。

2016年9月10日土曜日

心から心への言葉 [47]休むことは力

[47]休むことは力
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30:15後半)

霊的な生活において、人がよく陥る過ちがあります。外から見て忙しく立ち働いているときほど、内面では混乱してしまうのです。忙しさで手一杯にはなっていなくても、やはり、私たちの内なるいのちは乱されています。このような状態ですと、外の状況に対応する能力が失われてしまいます。休むことは、キリスト者の生活における力であると覚える必要があります。神ご自身がこう言われたからです、『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』興奮しやすい人は、神の前に強くありません。心の乱れている人々は主の前で力を持っていません。私たちの強さは、内なる静けさと休息から来ることを、理解しなければいけません。

渦巻く風の奥には中心があります。風は外側では高速で渦巻いていますが、中心はもっとも静かです。同じように、内面が静かな生活が、私たちに力を与えてくれます。外の世界では風が吹き荒れていても、内側は完璧な静けさを保っています。『落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』心が外の騒がしさにかき乱されて、静寂を失うことはあってはいけません。そうなれば、周りの世界に押し流されてしまいます。

海を考えてみてください。表面では、波が高く上がり、風が強く吹きつけもしますが、深い底では、何一つ動くものはありません。静寂に満ちています。海底に棲む生物を調べた人々は、その研究結果から、大洋の底ではほとんど動きがないことを証明したそうです。同じように、キリスト者としての生活においても、静寂と休息が必要です。ゆっくり休むことはできなくても、忙しく働く中に、内なる静けさを保つような者であるべきです。内なる休息があれば、敗北することはありません。どのような状況にあっても、私たちは主の前に、何一つ起こっていないかのように生きることです。主が私たちの中におられて、静穏な人生を求めることを助けてくださっています。

休むことの秘訣とは何でしょう?ひとつはピリピ書4章6~7節に見られます、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

キリスト者が休息を得るための一番の秘訣は、生きていく上で出会うすべてのこと、要求、仕事、必要、困難などを主に打ち明け、真摯にこう告白することです、『主よ、私はこれらすべてをあなたの御手にゆだねます。』こういった問題に直面したら、祈りと願いによって、感謝とともに、それを主にゆだねてください。何が起ころうと、それを神にゆだねてください。ゆだねたその時、神の平安があなたの心を守り始めます。ゆだねさえすれば、主の平安はすぐにでもやってきます。こうなれば、あなたも私も、日の出から日の入りまで、外の世界に押し流されることはなくなります。困難がどれほど大きくても、どのような問題があろうと、神の平安は私たちに留まり、良心を安らかに保ってくれます。

二つ目の秘訣はマタイ11:29に与えられています、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』一つ目の秘訣は信仰であり、二つ目は従順です。神があなたの上に次々と困難な状況を起こすとき、主から与えられた試練に抗ったり、主の御心に逆らい、また、御心とは違うことを求めれば、内なる平和はありません。休息とは献身からやってくることを、覚えてください。困難が起こったとき、ただ、あなたが主から学び、主のくびきを負いさえすれば、自分の思いを遂げることができずにいらだっていても、やはり、心には平安が生まれます。もし、主に向かって、『主よ、あなたが何をして欲しいのであれ、私は喜んでそれをします、』と言えば、間違いなく魂に安らぎを見出すでしょう。人間的な不満や期待は必ず、休息を奪ってしまいます。

2016年9月3日土曜日

心から心への言葉[46]貧しさについて

[46]貧しさについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。

霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。

多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。

貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。

2016年8月23日火曜日

心から心への言葉[45]良心の示す道に従いなさい

[45]良心の示す道に従いなさい
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

自分を欺くことはやめて、御霊に従うことを学び、また、自分の良心の命ずる声を聞きましょう。内なる声から逃げようせず、注意深く耳を傾けてください。御霊に従えば、私たちはどんな時もへりくだって、良心の正す声に耳を傾けることができます。信じる者が、自分の多くの罪をひとつひとつ見つけだして、数え上げることなどできるはずがないと考えて、あいまいで通り一遍の告白をするのは間違ったことです。このような漠然とした告白は、良心の正しい働きを殺してしまいます。このようなことをせず、御霊が良心にふれるにまかせ、自分の罪をひとつづつ、はっきりと現していただくべきです。信者が行うべきはへりくだって、静かに、そして、従順に、良心がひとつひとつの罪を現すのに任せることであり、そうすることで、良心の裁きを受け入れ、神に抗うすべてのものを吐き出したいと願うようになります。

あなたは、良心に、自分の生き方をすべて探っていただこうという考えがありますか?自分の良心に、本当の心の状態を明らかにしてもらう勇気がありますか?自分の良心に願って、あなたの生活とのすべてを、神の御心の前に広げてもらおう思う気持ちを持っていますか?自分の良心を切り開いて、すべての罪をさらけ出してみたいと思っていますか?その考えがなく、そうするつもりもなく、恐れて身を引いてしまうなら、それはあなたのいのちの中に憎むべき多くの罪があることを現しています。その罪は十字架の元へ引き出されなければなりません。それはまた、あなたが神に従順ではなかったこと、御霊にも完全に従ってこなかったことも意味しています。そこには、神との交わりを妨げる何かがあることがはっきり現れています。主に向かって、『あなたと私の間には何の関わりもありません』などと言うことはできません。

良心とは、私たちの精神の窓です。そこは天の光が差し込むところであり、信者の精神とその存在のすべてが光で満たされます。ここに私たちは天の光を見ます。その光は良心を貫いて、私たちの思い、言葉、行いを照らし、私たちの過ちを現して、罪をさらけ出します。良心が働くことを許し、主の命じるままに、自分の罪を取り除けば、その時、天の光はいっそう明るく輝きます。罪を告白せず、取り除くこともなければ、罪の傷跡が残り、良心は汚されます(テトス1:15を参照)。その結果、窓は日ごとに暗くなってゆき、光は中まで入り込むことがなくなります。こうなると信者は、不注意に罪を犯し、それが悪いと気づくこともありません。覆い隠されると良心は鈍くなり、鋭敏さを失います。一方で、信者が自分の精神を研ぎ澄ませば、それだけ、良心も鋭くなってゆきます。

信者にとって、これ以上、告白する必要もなくなるほど、霊的になれることなどありません。どれだけ深遠な知識、精一杯の働き、熱意や鉄の意志をもってしても、良心の鋭敏さの代わりになることはできません。信者が良心をながしろにして、代わりに自分で心と感情を成長させようと考えれば、その人は疑いなく、霊的な旅路において後退して行くことになります。

2016年8月12日金曜日

心から心への言葉[44]困難は私たちのパン

[44]困難は私たちのパン
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

民数記14章に、カレブがイスラエルの全会衆に向かって言ったことばが記録されています、『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼ら(背の高いアナク人たち)は私たちのえじきとなるからだ(9節前半)。』彼は、イスラエルの子供たちに、なぜすぐに出発しなければいけないか、なぜ彼らは必ず勝てるのか、そして、その地に住む人々(アナクの子孫であるネフィリム人)は彼らのえじきであり、恐れる必要がないのはなぜなのか、その理由を語りました。えじきとは、食べることで、力が増し加えるものです。アナク人たちがどれだけ立派な体格をしていても、イスラエルの民なら、彼らをたやすく打ち破ることは、カレブの目に確かでした。カレブが神の約束を信じきっていて、困難をものともしなかったからです。

本当に信じる者は、いつでも、主の約束を強く心に抱いているから、苦難にあってもくよくよと悩むことはしません。しかし、だからと言って、高ぶることがあってはいけません。私たちはまず、主の前にへりくだり、それから、主の勝利に立たなくてはなりません。

ですから、困難な状況に立たされたら、そのたびに、こう尋ねることです、『今度は、私は飢えるのですか?それとも食べるのですか?』と。もし、あなたがキリストの力を通して勝利し、そこから主の力が現れるなら、あなたは再び育まれます。あなたの力は強められ、満たされ続けるでしょう。食べなければ誰も成長できないことを、いつも心にとめておきましょう。

とは言え、私たちの食べ物はいつも、神の御言葉の中にだけあるわけではなく、神の御心を行う中でのみ見いだすものでもありません。アナク人も、やはり私たちの食べ物なのです。アナク人は人生で出会う困難の象徴です。多くの人が神の御言葉を食べ、神の御心を行うことを自分の食べ物としてきました。しかし、ネフィリム人をえじきとすることで自分を育ててきたものは多くありません。多くの人は、アナクの子孫たちを、ほんの少ししか食べていないのです。それは多く食べるほど、強くなるものです。この点において、カレブはとても良い模範となります。アナク人をえじきとした彼は、85歳になっても力に満ちていたからです。40歳の時の強さを、85歳になるまで持ち続けました。えじきとなったアナクの多くの子孫たちが、カレブの中に年を取らない人を形作ったのです。

このようなことが、霊的な面では現実に起こります。主にある兄弟姉妹の多くは、人生において大きな苦難がありません。しかし、人は苦難の中にこそ、自分の弱さを見出すものです。このような人たちは、えじきとしたアナク人があまりに少ないため、神の前に何の力もありません。一方では、苦難にぶつかっても、ものともせずに跳ね返し、また、誘惑にも打ち勝つ人も、いたるところで見ることができます。彼らが強いのは、多くのアナク人をえじきにするからです。ですから、私たちも多くの苦難と誘惑を食べることが必要です。私たちの進む道にサタンが置く苦難と誘惑が、パンとなり得るのです。神はこのようにして、私たちが成長する道を整えられます。信仰のないものは、困難にぶつかると希望を失ってしまいます。しかし、信仰を持つ者に主は、『これが私のパンです』と教えてくれます。神を讃え、感謝しましょう。私たちの行く手に置かれる困難や試練の中に、食べられないようなものはありません。食べても成長の助けとならない苦難などありません。苦難が多いほど、大きく成長できるのです。

2016年7月31日日曜日

心から心への言葉[43]神のあわれみ

[43]神のあわれみ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(ローマ9:16)熱意を持って、神を追い求めることは自分への助けとなります。とは言え、熱心であること、自分自身を探し求めること自体は、意味のないことです。長く待ちすぎることは、まったく待たないのと同じです。走るのに速すぎても、遅すぎても、どちらでもよいことです。あまりに多く聞きすぎても、少なく聞き過ぎても、違いはありません。私たちがすることはすべて、神の哀れみだけに頼っています。御霊だけが、人をまっすぐな道へと導き、その道を歩かせてくれます。少なくとも一生に一度、神のあわれみがどのようなものかを見極めることがどうしても必要です。もちろん、主の哀れみをより多く体験するほど、あなたは成長してゆきます。ある一瞬ですべてを目の当たりにするにせよ、人生全体を通して見続けるにせよ、主の哀れみにふれるときは必ず、そこに霊的な真実を見出すはずです。それはただ心に感じているだけでなく、現実であり、すべてが神のあわれみなのです。

神の哀れみは事実であって、心の中にだけあるものではありません。例として、『生まれ変わる』ことを考えてみましょう。私たちはいつも罪人にこう言います、『あなたははっきりと悔い改めて、少なくとも一度は主を信じなくてはいけません。』また、信者にはこんなふうに言います、『あなたははっきりと一度、自分を聖別しなくてはいけません。』同じように、神の哀れみを知るためには、あなたも神の哀れみにはっきりと出会うことが必要です。

神にいつも手助けしてもらえる3種類の人があります。強い意志を持った人たち、強い感情を持った人たち、そして、強い心を持つ人たちです。多くの人は、この3つの強さのうち、一つ以上に支配されています。この3つの強さのすべてを、神に砕いていただかなくてはいけません。神は、人の弱いところではなく、強いところに手を下そうと考えておられます。人の強さが、弱さよりも、霊的な成長を妨げることが多いのです。この3つの強さを変えていただかなくては、神のあわれみを認めることはできません。

神の助けを受けた後は、霊的な生活が変えられていくことを体験するでしょう。人生の多くの場面で、何かが多すぎたり、少なすぎたりすること、長く待ち過ぎること、まったく待たないことも、妨げとなります。私たちの霊的な生活の中にこのような面があれば、それは正さなければなりません。信者の中には、内なる人が十分、成長しきっておらず、外なる人のほうが強すぎるものがいます。これは、ごく普通の体型の場合、頭の長さは体全体の7分の一であることに例えることができます。もし頭の大きさが体全体の4分の一、または、16分の一であったら、どちらの場合もうまく行かないでしょう。心があまりに強すぎる人がおり、また、感情が激しすぎる人もいます。どちらの場合も、内なる人が十分、大きくありません。どちらの場合も、状況を補正してゆくことが求められます。

私たちに本物のへりくだりをさせてくれるのは、神の哀れみしかありません。小さな苦悩を難なく乗り切ったために人の心は高ぶることがあります。一方では、大きな苦悩を必死で乗り越えることが、人にヘリ下りをもたらしてくれるのです。

2016年7月19日火曜日

心から心への言葉[42]御霊に従うためには

[42]御霊に従うためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。

神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。

私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。

神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?

すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。

2016年7月10日日曜日

心から心への言葉[41]霊の敏感さについて

[41]霊の敏感さについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。

マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。

これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。

同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。

あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。

2016年6月29日水曜日

心から心への言葉[40]御霊と文字の違い

[40]御霊と文字の違い
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『文字』とは何でしょう?そして、『御霊』とは何でしょう?そしてまた、心の感覚と、霊の感覚の違いは何でしょう?聖書の中の『文字』は、決して悪いものではありません。第2コリント3章6節でパウロが語る『文字』は旧約聖書を指しています。旧約聖書は聖書の一部ではありますが、その中の霊にふれることがなければ、聖書の御言葉もただの文字でしかありません。そのため、聖書のような素晴らしいものでさえ、文字の羅列となってしまう可能性があるのです。御霊が語り、聖書に残されているその言葉に私たちがふれても、御霊にふれることができなければ、神の言葉はただの文字に変わってしまいます。これが、ここでいう『文字』という言葉の本当の意味です。人がローマ書を365日間読み続けて、そこに書かれたすべての摂理を客観的には理解したとしても、御霊の言葉や働きに心を動かされる日は一日たりともないということすらあり得るのです。こうなると、その人にとって、ローマ書は文字以外の何物でもなくなってしまいます。例えば、朝起きて、すぐに聖書を読み、おりにふれて祈っているとしましょう。しかし、これがただの生活習慣となってしまえば、私たちも神の御言葉を写した文字の中に埋もれてしまいます。そこには、外に向けたみせかけの霊性はあっても、内なる霊は動いていません。その結果は文字だけとなります。

2016年6月27日月曜日

心から心への言葉[39]みずみずしい献身を続けよう

[39]みずみずしい献身を続けよう
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

旧約聖書には、天幕の外に置かれる祭壇の火は、一度しか点けてはならないと書かれています。毎日、たきぎを次ぎ足し、いけにえを捧げ続けて、その火は昼も夜も、絶えることなく祭壇の上で燃えていなければならなかったのです(レビ記6:12を参照)。火を点けてよいのは一度だけです。燃え尽きた後で、新しい火を灯すことは許されませんでした。祭壇の火は、消えることなく燃え続けていることが求められていました。祭壇の火を保つためには、毎日、休むことなくいけにえを捧げることが必要でした。

新約聖書では、私たちは自分のからだを、生きた供え物としてささげることを求められています(再びローマ12:1を参照)。燃える火を守り続けるために、絶えることなく自分を神へのいけにえとして捧げなければいけません。生きた供え物とは、生きている限り、自分を神へのいけにえとして捧げ続けるという意味です。罪を犯したり、何かを差し出さずおけば、私たちはみずみずしさを失います。そして、そのままで捧げ続けるなら、祭壇に置かれた神の火を消してしまうことになります。

もしあなたが、自分が傷つくことはしたくないと思ったら、または、愛、思い、願い、欲求、望みや期待を大切にするあまり、自分の欲望、意思や感情が傷つけられることは避けたいと考えたら、その瞬間、あなたは、自身を生ける供え物として捧げることをやめたのです。自分を傷つけたことが、一度としてないのに、心のうちでは喜びで満たされていられると言うなら、そんな喜びは頼りないものです。自分の全てを祭壇に捧げてはじめて、あなたは供え物となるからです。あなたは傷を負い、苦しみ、大切なものを失いながらも、神には何かを差し出しています。この時、あなたは自分に逆らって生きているかのように見えるでしょう。しかし、うちなる喜びは絶えることなく沸き立つのです。

2016年6月22日水曜日

心から心への言葉[38]痛みを伴う喜びがいちばんの喜び

[38]痛みを伴う喜びがいちばんの喜び
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

ツァレファテのやもめの女が、エリヤに振る舞った食事を覚えているでしょうか?かめの中の一握りの粉と、つぼにほんの少しの油が残っていただけだったのに、預言者エリヤは、小さなパン菓子を作るように求めたのです(第一列王記17:8~16を参照)。人間的な見方をすれば、エリヤの言葉はこの上なく残酷なものでした。預言者のためにパン菓子を作っている時、やもめの女の心はどれだけつらかったでしょう。その後、どうやって食べて行けばいいかも分からなかったのです。しかし、このパン菓子が最後とはならなかったことに気を付けてください。それどころか、その後も長い間、食べ続けることができたのです。それだけでなく、よこしまなアハブ王の時代に、国全体に多くのやもめ女がいましたが、後世まで記憶されるのはこの人だけでした(ルカ4:25~26を参照)。それは、彼女が持っていたもの全てを神の預言者に捧げたからに他なりません。

全てを主に捧げるとは、情熱的な衝動から一度だけするものではなく、気の向いた時だけ行うというものでもありません。どんな時も、続けて行かなくてはいけません。捧げ続けることは、おそらく、大きな痛みをもたらすでしょう。しかし、大きな喜びも与えてくれます。痛みを伴う喜びこそが最良のものです。そんな喜びのおかげで、涙を流すことも、よくあります。喜びの涙が流れ落ちるとき、賛美が沸き上がります。この喜びは特別のものです。それはこの世の肉的なキリスト者には、経験できないものです。

2016年6月20日月曜日

心から心への言葉[37]献身は主の恵みであり、私たちの喜び

[37]献身は主の恵みであり、私たちの喜び
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神が、ご自身への献身を求められることは、私たちにとって何という大きな喜びでしょうか!パウロは、コリントの信者たちに、主が死んでよみがえったのだから、もはや彼らも自分のためにではなく、主のために生きなくてはいけないと語りました(第2コリント5:15を参照)。もし、私たちのために死んでよみがえられた主が、ご自身のために生きる機会を与えてくださらなければ、キリスト者としての生活はとても惨めなものとなるでしょう。

ある時、私は引っ越しすることになりました。その頃、私は一人暮らしで、自分だけでは重い家具を動かすことは、とてもできなかったのですが、二人の兄弟が来て、手を貸してくれ、家具を全部、運んでくれました。彼らのからだはホコリまみれになってしまいました。私は兄弟たちにお腹が空いていないか、喉が渇いていないか尋ねましたが、『そんなことはない』という答えでした。彼らはそのまま、自分の家に帰りました。その夜、私は二人の兄弟が汗まみれで、汚れたまま家に帰り、自分は何のお礼もしなかったことが気になって、いつまでも眠れませんでした。心の中でそのことを深く悔やんでいました。その日は一晩中、よく眠れなかったのです。

主イエス様は、私たちのあがないという御業を成し遂げられました。主がなされたことは、家具を動かす仕事よりはるかに大きなものです。『主よ、私たちに何をして欲しいのですか?』と訊けば、主はこう答えるでしょう、『私がすべてをなした。あなたは何もしなくてよい。』この会話が本当に行われたとしたら、誰もがとても落ち着かない気持ちになったでしょう。神が私たちをあがなわれたとき、ひとつ目の大きな恵みをくださったと、私はいつも感じます。そして、私たちが自分を捧げることを許されるとき、主は二番目の大きな恵みをくださいます。

もし、主のあがないを受けながら、主のために生きるという気持ちのなければ、その人はまったく、または、ほとんど救われていないと思わざるをえません。そのような人は、神の救いの素晴らしさをよく分かっていないからです。

2016年6月17日金曜日

心から心への言葉[36]生きた供え物の3つの特徴

[36]生きた供え物の3つの特徴
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

ローマ書の12章で、献身とは、私たちのからだを神に仕えるための聖い、生きた供え物としてささげること、とされています。このような供え物には3つの特徴があります。ここで語られるひとつ目は『聖い』こと、すなわち、神のために選び分けられていることです。私には、日本との戦争の間、中国政府の役人だった友人がいます。一度、彼を食事に招いたことがあるのですが、答えはこうでした、『すまないがそれはできない。私はこの体を国に売ったのだ。もう自分の好きなようにはできない。』私たちの体が選び分けられたというのも、これと同じ意味です。誰一人、それに触れることも、使うこともできません。神が用いるために取り分けてあるからです。これが、『聖い』、または、神のために選び分けられていると言う意味です。

供え物の二つ目の特徴は、神に『受け入れてもらえる』ことです。そして、三つ目の特徴は、そのような供え物は、なされて『当然』のものであることです。神は私たちに何かを与えて、何かを与えないということはされません。主は私たちにも何も隠さずに差し出すことを望んでおられます。主は、どれだけ与えるかではなく、この主の望みの通りに、私たちが動いているかを見ています。神はいつでも、ためらうことなく、余すところなく、与えてくださいます。私たちも、主に対して同じように与えるべきではないでしょうか?私たちの献身において、『量』を見れば、私たちが実際に神に与えるものはあまりにも僅かで、主がくださったものとは、比較にすらなりません。けれども、『質』は同じはずです。

2016年6月14日火曜日

心から心への言葉[35]キリストを地上で現す

[35]キリストを地上で現す
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

『さばいてはいけません。さばかれないためです』(マタイ7:1)。ひとりひとりの信者がこの言葉の意味を知り、実践できるように、主よ、助けてください。キリスト者は、心の中で人を裁くときも、言葉で裁く場合も、まずは、自分自身の弱さを認めるべきです。

神の言葉によって真に変えられた人は、説教者になる資格があります。キリストに変えられた者は、人々をキリストにどう導くか、悩む必要はありません。主を愛する一人ひとりが理解しておくべきことがあります。人は、自分自身の中にキリストを見ることができなければ、他のどこにも生けるまことの神を見出すことなどできません。

キリスト者とは、この地上でのキリストの現れです。彼らはキリストのいのちを生きなければいけません。聖霊に満ちているキリスト者は、『わき出る』(ヨハネ4:14)ように、また、『流れ出る』(7:38)ように生き生きとした態度で仕えます。主に真に信頼していることは、次の三つの行いに現れます。まず、自分を表に出さない、主を褒め称える、そして、心の底から主を愛することです。聖書を隅々まで真摯に読めば、主を拒むことなどできません。恵みと真実は、いつも共にあります。どちらが欠けることはありません。価値のない情熱、すなわち、神の御心のうちにない熱心さは、必ず、傷を負わせ、罪を犯す原因となります。肉の享楽に耽ることは、栄光の家を追い求める上で障害にしかなりません。

生徒が先生より、偉いことはありません。主が苦しんだのに、弟子たちが平安な暮らしを望むことなどできるでしょうか?私たちは、安らぎを求めることはせず、また、自分から苦しみを探すこともしません。気を付けるべきは、敵への恐怖に支配されることではなく、自分の中に何かの『隙』ができることです(エゼキエル26:10)。自分が主のために犠牲にしたものではなく、主が私たちのために投げ打ったものの大きさを心に留めましょう。それと同時に、主のためにまだ捨てていないものがどれだけあるかも考えてみましょう。

『御霊に従って歩む』(ローマ8:4)。『御霊によって歩みなさい』(ガラテヤ5:16前半)。『御霊に導かれて、進もうではありませんか』(ガラテヤ5:25前半)。御霊にある休息はなんと平安なことでしょう!

『隠れて話したことは何もありません』(ヨハネ18:20後半)。主のものとなった全てに、あなたのこの足跡に従っていきたいという望みを与えてください!

何をするにも、『主のために』行うようにしましょう。これが私たちの平和と喜びです。きれい好きな人なら、食器をまた使う前に、一枚一枚きれいに拭きとるでしょう。主は、これよりずっと多くのことをしてくれます!

高揚した気分に捕えられているとき、御霊が現れて、その思いを十字架にかけてくれます。同時に、主は、私たちが何かひとつのものだけに心を留めることを許してくださいます。その何かが、イエス様でもよいのです(ヘブル12:2前半を参照)。信仰があれば、不可能を可能にすることができます。また、愛のある者なら自分の重荷を軽くすることができます。私たちが日々、愛に満ち、真実への思いを増し加えることができますように。

2016年6月9日木曜日

心から心への言葉[34]私はあきらめない

[34]私はあきらめない
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

キリスト者であるのは、確かに苦しいことですが、それでも、私は決してあきらめません。十字架は、自分にとって栄光であって、決して恥としないと心に決めています。ああ、主よ、目をあげれば、あたりにはあなた以外誰も見えません。あなたは私の一番、近くにいる方です、主よ。あなたの他には、何もないし、誰一人いません。両親に聖書を隠されてしまったのですが、他に小さな新約聖書をもっています。ですから、もう飢えることはありません。近しい親戚も私を嫌っていますが、そのために主ととも歩むというこの決心が揺らぐことはありません。何があっても、私の気持ちがくじけないようにお祈りください。サタンは絶え間なく攻撃を続け、主は離れてしまった、もう祈りを聞くことはないと、私に言い続けています。しかし、主は聖書の中で、ヘブル書の一節を示してくださいました、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』(13:5後半)。

例えば、主はある方を通じて、私に小さな新約聖書を送ってくれました。ここからも、主の目が私に注がれていて、私を忘れていないことが分かります。どうして、主を離れることなどできるでしょう?主に従う私たちは、この世のものではなく、世は私たちを憎んでいます(例えばヨハネ15章18~19節を参照)。世に憎まれようとも、私は主の愛に満足しています。主の愛は、人の愛を数百万倍も超えているからです。私を狙うサタンは、心に多くの残忍な計略を秘めています。しかし、サタンが何をたくらもうと、私をキリストにある神への愛から引き離すことはできません(ローマ書8:38-39を参照)。私はすべてを投げ打って、イエス様に従いたいと願っています。人生の全てを費やすことになろうと、その気持ちは変わりません。

私は主の愛を味わいました。これからも、主の足元に座り、その甘美さを味わい続けることでしょう。以前の私は、主がいなくても平気でしたが、今は主と御言葉なしでは一瞬たりとも生きていけません。勝利の主、栄光にあふれた主、あなたは再び来られます。その時、あなたが定めた道を、私が歩いていますように!

あえて言いますが、一度、勇敢にサタンと戦ったのだから(第2テモテ4:7前半を参照)、それですべてが終わりだと信じている人が大勢います。決して、そのようなものではありません。確かに、勝利は揺るぎないものですが、その戦いが終わることは約束されていません。

キリスト者は、主と一体になった交わりを経験することが必要です。主とともに死ぬ、すなわち、主の死とより深く結び付くという、さらに深遠な経験を与えられること、それを通して、『もはや私ではなく』なることを主に願う時、主はあらゆる種類の絶望と拒絶を私たちに向けられます。そのような時も、悲しみにくれることなく、むしろ、主を讃えましょう。『もはや私ではなく』なるという、私たちの思いと願いを、主がかなえてくださるからです(ガラテヤ2:20を参照)。

2016年6月5日日曜日

心から心への言葉[33]神に知られている

[33]神に知られている
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神に仕える中に、喜びと感じることはありますが、私は満足していません。このような状態で、『わたしについて来なさい』と呼びかけられるお方が、私に向かって直接、『ついて来なさい』と語りかけておられることに気付きます(例えば、マルコ10:21を参照)。ああ、主について歩くその途上でさえ、私は何と無知な者でしょう。私は、いつも、近道をしようとして、迷ってしまいます。しかし、聖書知識を追い求めるのはよくないことなのでしょうか?それでも、今日、私はあることに気づくようになりました。それは、人生のどの局面で、何が私に降りかかろうと、私は本当に何も知らないし、知りたいとも思わないことです。『人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです』(第1コリント8:3)。