2016年6月9日木曜日

心から心への言葉[34]私はあきらめない

[34]私はあきらめない
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

キリスト者であるのは、確かに苦しいことですが、それでも、私は決してあきらめません。十字架は、自分にとって栄光であって、決して恥としないと心に決めています。ああ、主よ、目をあげれば、あたりにはあなた以外誰も見えません。あなたは私の一番、近くにいる方です、主よ。あなたの他には、何もないし、誰一人いません。両親に聖書を隠されてしまったのですが、他に小さな新約聖書をもっています。ですから、もう飢えることはありません。近しい親戚も私を嫌っていますが、そのために主ととも歩むというこの決心が揺らぐことはありません。何があっても、私の気持ちがくじけないようにお祈りください。サタンは絶え間なく攻撃を続け、主は離れてしまった、もう祈りを聞くことはないと、私に言い続けています。しかし、主は聖書の中で、ヘブル書の一節を示してくださいました、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』(13:5後半)。

例えば、主はある方を通じて、私に小さな新約聖書を送ってくれました。ここからも、主の目が私に注がれていて、私を忘れていないことが分かります。どうして、主を離れることなどできるでしょう?主に従う私たちは、この世のものではなく、世は私たちを憎んでいます(例えばヨハネ15章18~19節を参照)。世に憎まれようとも、私は主の愛に満足しています。主の愛は、人の愛を数百万倍も超えているからです。私を狙うサタンは、心に多くの残忍な計略を秘めています。しかし、サタンが何をたくらもうと、私をキリストにある神への愛から引き離すことはできません(ローマ書8:38-39を参照)。私はすべてを投げ打って、イエス様に従いたいと願っています。人生の全てを費やすことになろうと、その気持ちは変わりません。

私は主の愛を味わいました。これからも、主の足元に座り、その甘美さを味わい続けることでしょう。以前の私は、主がいなくても平気でしたが、今は主と御言葉なしでは一瞬たりとも生きていけません。勝利の主、栄光にあふれた主、あなたは再び来られます。その時、あなたが定めた道を、私が歩いていますように!

あえて言いますが、一度、勇敢にサタンと戦ったのだから(第2テモテ4:7前半を参照)、それですべてが終わりだと信じている人が大勢います。決して、そのようなものではありません。確かに、勝利は揺るぎないものですが、その戦いが終わることは約束されていません。

キリスト者は、主と一体になった交わりを経験することが必要です。主とともに死ぬ、すなわち、主の死とより深く結び付くという、さらに深遠な経験を与えられること、それを通して、『もはや私ではなく』なることを主に願う時、主はあらゆる種類の絶望と拒絶を私たちに向けられます。そのような時も、悲しみにくれることなく、むしろ、主を讃えましょう。『もはや私ではなく』なるという、私たちの思いと願いを、主がかなえてくださるからです(ガラテヤ2:20を参照)。

0 件のコメント: