[35]キリストを地上で現す
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『さばいてはいけません。さばかれないためです』(マタイ7:1)。ひとりひとりの信者がこの言葉の意味を知り、実践できるように、主よ、助けてください。キリスト者は、心の中で人を裁くときも、言葉で裁く場合も、まずは、自分自身の弱さを認めるべきです。
神の言葉によって真に変えられた人は、説教者になる資格があります。キリストに変えられた者は、人々をキリストにどう導くか、悩む必要はありません。主を愛する一人ひとりが理解しておくべきことがあります。人は、自分自身の中にキリストを見ることができなければ、他のどこにも生けるまことの神を見出すことなどできません。
キリスト者とは、この地上でのキリストの現れです。彼らはキリストのいのちを生きなければいけません。聖霊に満ちているキリスト者は、『わき出る』(ヨハネ4:14)ように、また、『流れ出る』(7:38)ように生き生きとした態度で仕えます。主に真に信頼していることは、次の三つの行いに現れます。まず、自分を表に出さない、主を褒め称える、そして、心の底から主を愛することです。聖書を隅々まで真摯に読めば、主を拒むことなどできません。恵みと真実は、いつも共にあります。どちらが欠けることはありません。価値のない情熱、すなわち、神の御心のうちにない熱心さは、必ず、傷を負わせ、罪を犯す原因となります。肉の享楽に耽ることは、栄光の家を追い求める上で障害にしかなりません。
生徒が先生より、偉いことはありません。主が苦しんだのに、弟子たちが平安な暮らしを望むことなどできるでしょうか?私たちは、安らぎを求めることはせず、また、自分から苦しみを探すこともしません。気を付けるべきは、敵への恐怖に支配されることではなく、自分の中に何かの『隙』ができることです(エゼキエル26:10)。自分が主のために犠牲にしたものではなく、主が私たちのために投げ打ったものの大きさを心に留めましょう。それと同時に、主のためにまだ捨てていないものがどれだけあるかも考えてみましょう。
『御霊に従って歩む』(ローマ8:4)。『御霊によって歩みなさい』(ガラテヤ5:16前半)。『御霊に導かれて、進もうではありませんか』(ガラテヤ5:25前半)。御霊にある休息はなんと平安なことでしょう!
『隠れて話したことは何もありません』(ヨハネ18:20後半)。主のものとなった全てに、あなたのこの足跡に従っていきたいという望みを与えてください!
何をするにも、『主のために』行うようにしましょう。これが私たちの平和と喜びです。きれい好きな人なら、食器をまた使う前に、一枚一枚きれいに拭きとるでしょう。主は、これよりずっと多くのことをしてくれます!
高揚した気分に捕えられているとき、御霊が現れて、その思いを十字架にかけてくれます。同時に、主は、私たちが何かひとつのものだけに心を留めることを許してくださいます。その何かが、イエス様でもよいのです(ヘブル12:2前半を参照)。信仰があれば、不可能を可能にすることができます。また、愛のある者なら自分の重荷を軽くすることができます。私たちが日々、愛に満ち、真実への思いを増し加えることができますように。
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