[48]神に用いられるためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
救われた日から、神はご自身のいのちを私たちの中に入れ、生活の中の様々な問題を通して少しずつ訓練してくださいます。主が私たちに学んで欲しいのは、ご自身と協調して、共に働くことです。神は、ご自身の性質を私たちの中に混ぜ合わせて、御手の内に用いることを願っておられます。神の性質がどれだけ形作られているかということが、神にとってのあなたの価値を計る物差しとなります。内なる神の性質が大きくなるほど、あなたは神に用いられるものとなります。神の性質は、祈るときや、聖書を読んでいるときだけでなく、普段の行動の中でも、増し加わってゆきます。神のいのちが混じることを通してのみ、私たちは霊的に有用な者になってゆくからです。神の人格が中に溶け込むことだけが、私たちを、主の助けとなるものに変えていきます。入り込んだものは小さくても、それが私たちの霊的な価値となります。神がご自身を混ぜ入れるとき、そのいのちが神にとっての私たちの価値として現れます。
すなわち、神がその時々に行うことは、すべてが私たちの中にご自身の性質を日々、増し加えるためなのです。人としての性質があまりに強固であると、神は私たちを通して光り輝くことはできません。しばらくの時間が過ぎると、少しずつ、主は私たちから、外に現れてきます。この過程は、神のいのちが私たちから完全に現される日まで続きます。こうして、キリスト者としての全生涯を通して、神はご自身を私たちと混じり合わせ、これによって、私たちは神への助けとなることができます。
霊的に学んでいる時、心を何に集中するべきでしょうか?福音書にあるように、ペテロはおよそ3年間、主とともに歩きました。彼は何を学んだでしょう?主がペテロに教えたのは、神の御性質がどのように人の心の奥底まで入り込めるかと言うことでした。このキリストの弟子は、自分の考えを捨てて、主の考えに入ることを学びました。文字では書かれていなくても、福音の中にその様子がはっきり見て取れます。
自分の考えから抜け出すことを学ばなければ、神に用いられる者にはなれません。すべての奉仕は神から始まり、一度、私たちの中に入ってから、外に現れるべきものであると、心にとめておきましょう。神が中に入り、そして、外に現れてゆくことができなければ、人は私たちの心に触れるだけで、神の心には触れません。自分の心の中にだけ生きることは、人々の心が神にふれる道を閉ざしてしまいます。私たちを通して、人に神にふれてもらうにためは、自分自身から抜け出すことを学ばなくてはいけません。
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