2016年9月3日土曜日

心から心への言葉[46]貧しさについて

[46]貧しさについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の子供たちにはひとつの問題があります。ラオデキアの考え方と目的(黙示録3:14以降を参照)を持っていることです。つまり、彼らは現実には貧しいのに、自分は富んでいると思っているのです。霊的なことがらにおいて、何かを持っているか、いないかという問題を解決することは容易ですが、富んでいるか、貧しいかという問題を解決するのはとても難しいことです。持たざる者はたやすく神に出会えるでしょうが、自分を富んでいると考える者が主を見出すことはありません。そのような人が、神の手助けを得るのはもっとも難しいことです。一方で、貧しいものの最大の問題は、自分の貧しさに気づくことの難しさにあります。本当に何ひとつ持たない者にとって、貧しさはあまりに明白な事実であって、容易に認めることができます。ところが、貧しさとは比較の問題であり、富んでいるのか、貧しいのか、自分の状態を定めるのは難しいことです。子供が初めてなにがしかのお金を手にした時、自分が世界一の金持ちであるかのように思いこみ、本当は貧しいことに気付きません。しかし、全く何ひとつ持っていないと想像してみると、いやでも自分の本当の貧しさに気づくでしょう。この世のものを何か少しでも持っていたら、それがいかにつまらないものか、認めることは難しくなります。

霊的な生活において、神は、何も持たない者をどうすればよいか、よくご存知ですが、貧しくてもわずかな物を持っていると、そのわずかな物が自信を持たせてしまうので、大きな問題となります。高ぶりのない貧しさは決して打ち破ることのできない壁ではありませんが、貧しいのに自分を誇る者には、ほとんど希望がありません。したがって、問題は貧しさではなく、その人がラオデキアの教会のようであるか否かというところにあります。悲しむべきことに、多くの神の子供は、ひとつの輪の上をひたすら回るだけで、先へ進むことがありません。その理由はただひとつ、現実には貧しいのに、自分は富んでいると言い切ってしまうことが、その人を殺すのです。

多くの信者が肉について語りながら、肉とはなんであるか、分かっていません。啓示についても話しますが、それが本当に意味するところを知りません。彼らはまた、従順、御国、十字架、自分との葛藤や生まれながらのいのちと言ったことについても、いろいろと語りたがりますが、ご立派な演説をぶっても、自分の貧しさを露呈するだけです。神に触れたことがないのですから、彼らは自分で体験していないものについて、語っていることになります。彼らにできるのは、自分を欺き、自分と同じような人をごまかすことだけです。霊的なことがらにおいては、自分が霊的に富んでいると信じ込んでいる限り、人に富んでいると思ってもらうことはできず、むしろ、霊的な貧しさが誰の目にも明らかになってしまうからです。

貧しいとはどういうことでしょう?霊的な貧しさとは、量の問題ではなく、質の問題です。第1コリント3章は、金、銀、宝石が木、草、わらとは違い、反対の性質を持つものであることを示しています。第2テモテ2章は、金と銀の器を、木や土の器と比較して、その違いを語っています。このふたつが、讃えられるべきものは何か、また、恥ずべきものは何かを教えてくれます。あなたの手の中にあるものが、このふたつのどちらなのかを、教えていただく必要があります。私たちの生きている世界では、大量の木、草、わらを持っていても、貧しいことに変わりはありません。一方、霊的な世界においては、器を持っているだけでは十分ではありません。手の中にあるのが金や銀の器か、それとも、木や土の器なのか、自分に訊いてみなくてはなりません。私たち信者は、自分が霊的な何かを持っているかのように思い込んで、いとも簡単に高ぶってしまいますが、実際には手の中にあるものが何なのかもよく分かっていません。これこそ、霊的に貧しいということです。

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