[52]『からだを打ちたたく』ことと、からだを痛めつけること
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
自分の体を痛めつけるとは、肉体の自然な欲求を否定することを言います。これを行う人は、霊的であるとはみなされません。冬になっても温かいお湯を使わず、冷たい水で顔を洗う兄弟がいました。彼はまた、体を痛めつけるために、冬の間も薄着で通しました。ある姉妹が、私を食事に招いてくれました。彼女が作ってくれた料理は奇妙な味がしました。理由を訊いてみると、その答えはこうでした、『霊的になるためには、自分の体を痛めつける必要があります。よい食事をすれば、肉に楽しみを与えることになります。そんな人は霊的にはなれません。だから、肉が喜びを得ないように、私はおいしい料理を作らないことにしているのです。』確かに、キリスト者は、この世の楽しみや、贅沢な食事を求めるべきではありません。しかし、だからと言って、わざと不味い料理を作ることも間違っています。
では、『自分のからだを打ちたたく』(第1コリント9:27前半)とはどういうことでしょう?これは、肉体から来る欲求が、霊的な生活の妨げとなることを許さないという意味です。この生き方を貫くキリスト者こそ、真に霊的と言えます。『からだを打ちたたく』は、肉体からの自然な欲求はあっても、主とその働きのために必要とあらば、その欲求を投げ出すことをもいとわないということです。自然な欲求をすべて満たすことに執着し続けるなら、そのキリスト者は、体を打ちたたくという霊的な教えを学んでこなかったことになります。
以前、私は一人の兄弟と旅をし、ある家に滞在しました。食卓についている間、彼は箸を休めることなく、皿に盛られた好物を口に運び続けていました。はじめの旅の後、10年以上経って、再び彼と旅することになりました。その時も、この兄弟は同じことをしていました。この人は、自分の体を打ちたたいて従わせるとはどういうことか、明らかに学んでこなかったのです。自分の体を痛めつけるというのは、体からの自然な欲求をも拒絶すること、肉体のあり方をねじ曲げることを言います。このような行動は誤りです。一方で、からだを打ちたたくことを学ばなかった人は、主の御手の内であまり役に立ちません。
あるとき、私は二人の兄弟と主の奉仕のために出かけました。彼らは、とても活発に福音を述べ伝え、また、熱心に人を助けていましたが、一日のある時間が来ると決まって、働くことをやめて、休み始めるのです。昼食の後は、午睡の時間と決めていたからです。その合間も、多くの人が交わりを持ち、助けを求めるために来たのですが、彼らは誰にも会おうとしませんでした。その時間、私も彼らに手助けを求め、無理に頼みさえしたのですが、無駄でした。これでは、自分の肉に合わせ、自己憐憫や自己愛にふけっているだけです。彼らは自分の体を打ちたたくことを学んでいなかったのです。
中国の道教、仏教は体を痛めつけると言う概念を採り入れていますが、この考え方は聖書的ではありません。『からだを打ちたたく』と言ったとき、パウロは体を自分に仕えさせることについて語っていたのです。彼は、体を自分に仕えさせることができ、自分の肉体に支配されることはありません。これは、人の霊的ないのちが、体の欲求の前に決して、くじけないことを意味します。冬に顔を洗うときは、必ず温かいお湯を使うと決めている人は、体を打ちたたいて従わせることを、身をもって学んでいません。私たちは、体の働きを壊さないように、肉体的な必要には注意を払うべきです。しかし、同時に、この体は霊に支配されていなければなりません。
悲しいことに、兄弟たちの中にも、満腹するまで食べずにいられない人がいます。空腹に耐えられないのです。眠りが足りないと生きていけないからと言って、好きなだけ寝ている人もいます。また、清潔さにこだわるあまり、部屋にホコリがあったり、散らかっていることに耐えられない兄弟がいます。そして、また、堅い木の上では眠れないと言って、やわらかい寝台しか使わない人もあります。これらはみな、その兄弟たちが体を打ちたたくことを学んでいないことを示すものです。キリスト者も、心は燃えていても、肉体が弱いうちは、体を打ちたたくことを学んでいません。このような『自分を愛する』人たちは、神の手の中で、ほとんど役に立ちません。体を打ちたたいて従わせるにはどうすればよいのか、神の深いあわれみを受けて、学ぶことができますように。
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