2024年10月24日木曜日

『神への渇き』、第九章―柔和と魂の安息

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第九章―柔和と魂の安息

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。――マタイ五・五

山上の垂訓をひっくり返しにして、「これが人類の姿だ」と言ったら、それは人類の真相をかなり正確に伝えたものと言っていいだろう。なぜなら、山上の垂訓で説かれているいろいろな徳目の正反対が、人間の生活および行為のいちじるしい特徴になっているからである。

人間の世界には、イエスがあの有名な山上の垂訓のはじめの部分で語られた幾つかの徳目に近づいているものは、一つも見つからない。心の貧しさの代りにあるのは臭気ふんぷんたる倨傲(きょごう)であり、悲しむ者の代りに快楽を追い求める人々がおり、柔和の代りに傲慢が、義に飢えかわく者の代りに、「わたしは金持で財産も増えたから何も要らぬ」という連中がいる。あわれみの代りに残酷を、心の清さの代りに腐敗した心の思いを、平和をつくり出す人たちの代りに喧嘩好きな怒りっぽい人々を、迫害を受けてよろこぶ者の代りに、手に入るかぎりの武器を使って仕返しをする人々を、私たちは到るところで見るのである。

現代の社会はこのような不道徳の上に立っているのだ。あたりの空気はそれで満ちている。われわれは一息ごとにそれを吸い、母親の乳と一緒にそれを飲みこんでいる。教養や教育はそれを多少洗練するけれども、その根本に触れることはない。たくさんの文学が創造されて、このような生活を唯一の正常な生活として正当化している。こういうことは、それらの不道徳が私たちの人生をはげしい戦にしていることを考えると、ますます不思議に思われてくる。倨傲、傲慢、怒り、悪しき思い、悪意、貪欲、これらのものは人間の身体を苦しめるあらゆる病気よりも、もっと大きい苦痛を人間に与えているのだ。

このような世界には、イエスの言葉は天来の声のように奇妙不可思議に聞える。イエスが語って下さったことは本当によいことだった。なぜなら、彼のほかにあのように語りうる人はいなかったからである。私たちは彼の言葉に耳をかたむけなければならない。彼の語る言葉は真理そのものであるからだ。彼は意見を提供しているのではない。イエスが意見を述べられたことは一度もなかった。彼は決して推測なさらなかった。彼はすべてを知っておられたからである。今もなお彼はすべてのことを知っておられるのだ。彼の言葉はソロモンの言葉のように、健全な知恵を集めたものでもなく、また鋭い観察の結果でもなかった。彼は御自身の神性の無限の富から語られたである。彼の言葉は真理そのものであった。イエスのみが全き権威をもって「幸いなるかな」と言うことができるのだ。なぜなら、御自身が、人類に幸福を与えるために天から来られた幸いなるお方であったからだ。そして彼の言葉は行為によって支えられていた。それは、この地上で他のどんな人が為したものよりも力ある行為であった。だから、イエスの言葉を聞く人は賢い人である。

イエスはこの「柔和」という言葉を短いきびきびした文の中で用いられ、しばらくたってからはじめてその意味を説明された。彼はこのようなやりかたをたびたび用いられている。同じマタイによる福音書の中で、彼は柔和ということについてもっとくわしく語るとともに、それを私たちの生活に結びつけておられる。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

ここに二つのものが対比されている。すなわち、重荷と休みである。この重荷は、直接にイエスの説教を聞いていた人たちだけが持っていたものではない。全人類が負っている重荷である。それは圧政や貧困や重労働によるものではない。それはそんなものよりずっと深いものなのだ。それは金持も貧乏人も等しく感じている重荷である。なぜなら、それは富や安楽によって私たちが解放されるような代物ではないからだ。

人類が背負っている重荷はわれわれを押しつぶすほど重いものである。イエスが使われたこの言葉は、われわれが疲れ果ててしまうほど重い荷、あるいは重労働を意味している。休みとはその重荷からの解放にほかならない。休みというのは私たちが何かをすることではなく、反対に仕事をやめたときに訪れてくるものである。イエス御自身の柔和、それが休みなのである。

私たちの重荷をしらべてみよう。それはすべて心の中にあるものである。それは心と知性を襲い、やがて身体にまで達するが、それはあくまでも内から出てくるのである。まず第一に倨傲という重荷がある。自愛というものは本当に重労働である。考えてごらんなさい。あなたの悲しみは大部分、誰かがあなたのことをちょっと悪く言ったことから来てはいませんか。あなたが自分を小さな神に仕立ててそれに忠誠を誓っているかぎり、その偶像を侮辱してよろこぶ人が必ず出てくるでしょう。それでは、どうしてあなたは心の平和を持つことができましょう。

心があらゆる侮辱から自己を護り、友達や敵の悪意から過敏な自尊心を庇おうと必死の努力をしている限り、心の休む暇はない。この戦を何年もつづけて行く中に、その重荷は耐えられないものになってくる。ところが、この世の子らはこの重荷を負いつづけ、悪口を言われるたびに挑戦し、批判されればすくみこみ、侮辱されたのではないかと勝手に想像しては心を痛め、自分をおいて他の人が選ばれたと言っては悶々として眠られぬ夜をすごすのである。

こんな重荷を負う必要はないのだ。イエスはわれわれを彼の休みに入れと招いておられる。そして、柔和が彼の方法である。柔和な人は誰が自分より偉いだろうかなどと気にすることは決してない。なぜなら、彼はとっくの昔に、この世の尊敬などは努力に値しないものときめてしまったからである。彼は自分にむかって一種のユーモア精神を持つようになり、こんなふうに言って笑うことができるようになる。「それで、お前は無視されたっていうわけだね。お前じゃなくて他の人が選ばれたというのかい?みんながお前のことを、結局あの男は人物が小さいからね、ってひそひそ話し合ってたんだって?それじゃ、世間の人がお前が言ってる通りのことを言ったからというので、お前は腹を立てているんだね?だって、つい昨日、お前は神様にむかって、わたしは無にひとしい者でございます、塵の中の虫にすぎない者でございます、と言ってたじゃないか。それじゃ、筋が通らないだろうに。おいおい、もっとへりくだらなくちゃだめだぞ。人が何と思おうと、そんなことを気にかけるのはよしなさい」

柔和な人というのは、自分の劣等感にさいなまれているネズミみたいな人間のことではない。むしろ彼は、その道徳生活においてライオンのごとく勇敢で、サムソンのように強い人間である。だが、彼はもはや自分について欺かれることはないのだ。彼は自分の生活に対する神の評価を受け入れたのだ。彼は自分が神の言われたとおり、弱い無力な者であることを知っている。しかも、それと同時に彼は、神の目からごらんになるときに自分が天使たちよりも大切なものであることを知っている。これは逆説である。「自分においては無、神においてはすべて」、これが彼のモットーである。彼は世間の人は自分を、神が見てくださるようには見てくれないことを知っている。だから世間の人がどう思おうと気にかけないのだ。彼は自分の値うちについては神にすっかりお任せして満足しきっている。彼はすべてのものに正しい値段がつけられて、真価があらわれる日を辛捧づよく待っている。そのとき、正しい人々は彼らの父のみ国で輝くのだ。彼はその日をよろこんで待っている。

その間に、彼は魂の休みを獲得したにちがいない。柔和の中に人生の歩みをつづけながら、彼は神に自分を護っていただいてよろこぶのだ。自分で自分を護ろうとした過去の苦闘はすぎ去った。柔和がもたらす平和を彼は見出したのである。

彼はまた見せかけという重荷からも解放されるだろう。私が見せかけというのは偽善のことではない。私の言うのは、人によい印象を与えようとして、自分の本当の内面的な貧しさを世間に対して隠そうとする、ごくありふれた欲望のことである。罪はわれわれをいろいろと瞞着(まんちゃく)するものであるが、その一つは私たちの心に誤った羞恥感を注ぎこんだことである。男でも女でも、印象をよくしようとつくろうことなく、ありのままの姿を人に見せる勇気のある人はほとんどない。正体がばれはしまいかという怖れはネズミのように彼らの心をかじっている。教養ある人は、いつか自分よりも教養の高い人に出遇いはしないかという恐怖につかれている。学者は自分よりも博学な人に会いはせぬかと恐れている。金持はいつか他の金持とくらべて、自分の衣服や車や家が貧弱に見えはしまいかと恐れて冷汗をかいている。いわゆる「社交界」なるものは、こんな程度の動機で人々が集っているのだ。その点では、もっと貧しい階級の人たちの場合も似たりよったりである。

これを笑ってすませてはいけない。これらの重荷は現実的なものであり、この誤った不自然な生き方の犠牲者たちを少しずつ殺して行くからだ。そのような生き方を長年つづけて来たために、本当の柔和がなにか夢のように非現実的で、星のように遠いことのように思われるのだ。この心をむしばむ病気の犠牲者たちにむかって、イエスは「あなたがたは幼な子のようにならなければいけない」と言われる。というのは、小さな子供は自分を人とくらべたりしないからだ。子供たちは自分が持っているものを他の人や他の物と比較しないで、直接に楽しむ。彼らが成長して罪が心の中で動きはじめるようになって初めて、嫉妬とか羨望とかが現われてくる。そうなると、彼らは誰かがもっと大きなものあるいはもっとよいものを持っている場合には、自分が持っているものを楽しむことが出来なくなる。そんな若さで、もうあの苦しい重荷が彼らの柔かい魂の上にのしかかってくる。それはイエスが彼らを解放するまで、彼らから離れることは決してないのだ。

もう一つの重荷は人為的ということである。大ていの人は、いつか自分がうっかりしているときに、敵か友達かが偶然自分のあわれにも空虚な魂の中を覗き込みはしないかという秘かな恐怖を抱きながら、生活しているのではないかと思う。彼らは、だから、心の休まる時がない。頭のいい人は、かまをかけられて陳腐なことや愚劣なことをうっかり言ってしまいはしないかと恐れて、たえず緊張し警戒している。旅行家は、自分が行ったことのないどこか遠いところをよく知っているマルコ・ポーロみたいな人間に会いはしまいかと心配している。

この不自然な状態はわれわれの罪の遺産の一部ではあるが、現代においてはますます悪化している。広告は主としてこの見せかけという習慣に基づいている。人々の集っているところで気のきいたことを言って皆から尊敬されたいという人間の欲望を露骨に利用して、いろいろな学問に関する「講習」が行われる。同様にいろんな本や衣服や化粧品が、自分を本当の自分でないものに見せようとする人間の欲望にたえず訴えながら、売られている。この呪うべき人為的不自然さは、われわれがイエスの足もとにひざまずいてイエスの柔和に全く従うとき、たちまちに消え失せてしまう。そのとき、私たちは神がよろこんで下さりさえすれば、世間の人々が私たちのことをどう考えようと、少しも気にしなくなる。そうなれば、本当の自分がすべてとなり、見せかけの自分などはわれわれに興味のないものになる。罪を別にすれば、われわれが持っているもので恥ずべきものは一つもない。よい印象を与えようとする悪い欲望があるから、本当の自分ではないものに見せようとしたくなるのだ。

人々の心はこの倨傲と見せかけという重荷の下で破れそうになっている。キリストの柔和のほかには、われわれをこの重荷から解放してくれるものはない。正しい鋭敏な推理は少しは助けになるかも知れないが、この悪徳はきわめて強いものであるから、ひとところを押えれば、必ず別のところから頭を出してくる。世界中の男た女にむかってイエスは、「わたしのもとにきなさい。そうすれば、あなたがたを休ませてあげよう」と言われる。彼が与えて下さる休みは柔和による休みである。それは、われわれが見せかけることをやめて本当の自分を受け入れるときに訪れてくる幸いな安心である。それには初めのうちは多少の勇気が必要だろう。しかし、われわれはこの新しい、易しいくびきを神の子御自身と一緒に負っているのだということを知るとき、必要な恩寵が来て助けてくれる。イエスはそれを「わたしのくびき」と呼んでおられる。私たちがそのくびきの片方を負うとき、彼が他方を負って一緒に歩いて下さるのである。

主よ、私を幼な子のようにして下さい。他の人々と地位や名声や身分のことで競争しようとする衝動から私を解放して下さい。私は幼な子のように単純素朴でありたいと思います。気取りや見せかけから私を救って下さい。自分のことばかり考えていた罪を赦したまえ。自分を忘れ、あなたを見つめることに本当の平和を見出しうるよう助けたまえ。あなたがこの祈りに答えて下さいますよう、私はあなたの御前にひれ伏します。私の上に自己忘却というあなたの易しいくびきをのせて下さい。それによって私が休みを見出すためであります。アーメン。

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