A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer
第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復
神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。――詩篇五七・五
自然界の秩序が正しい関係に基づいていることは明白なる事実である。つまり、万物が調和して存在するためには、おのおのの物がお互いの関係において正しい場所におかれていなければならないのである。人間の生活もやはりそうである。
私は前に、われわれの道徳が根本的に転倒していることと、神および他の人々に対するわれわれの関係が混乱してしまっていることが、人間のすべての悲惨の原因なのだと言った。人類の堕落の原因はほかにもあるかもしれないが、人間の神に対する関係が急に大きく変ったことが一番大きな原因であることは確かである。人間は神に対して前とは違った態度をとるようになった。そのために、創造主と被造物との正しい関係が破れてしまった。彼は気がつかなかったけれども、その正しい関係の中に、彼の本当の幸福があったのである。救いとは本来、人間とその創造者との正しい関係を回復すること、つまり、創造者と被造物との関係を正常に戻すことなのである。
満ち足りた霊的生活は神と罪人との関係が全く変えられるところから始まる。その変化は単に理論的なものではなく、自分のものとしてはっきり体験できるものである。そのために罪人の性質は全く変えられてしまう。イエスの血による贖いがこのような変化を理論的に可能にしてくれた。そこへ聖霊がいて感情的な満足を与えて下さるのだ。放蕩息子の話はこの後の面をよく示している。彼はりっぱな父の息子として正しい地位を捨てたために、多くのわざわいを自ら招くことになった。彼が元の身分に戻ったということは、結局、父と子の正しい関係を回復したというにすぎない。その関係は彼が生れたときからつづいていたのに、彼の罪深い返逆のために一時破られてしまったのである。この物語は贖いの律法的な面を見落しているけれども、救いの経験的な面を美しく語っている。
神との関係を決めるのには、どこかに決して動くことのない中心がなければならない。その他のものは皆この中心を規準にして測られる。そこには相対性原理は入りこむことができない。そこでは、われわれは無条件に「有る」ということができる。このような中心こそ神にほかならない。神がその御名を人類に知らせようとされたとき、「わたしは有る」という言葉よりもよい言葉を見つけられることができなかった。神が一人称で語られるとき、「わたしは有る」とおおせられる。われわれが神について語るとき、われわれは、「彼は有られる」と言い、神に向かって語るときには、「あなたは有られる」と言う。ありとあらゆる人と物は皆この不動の点を規準として測られる。神は、「わたしは、有って有る者」、「わたしは変ることがない」とおおせられる。
ちょうど船乗りが六分儀で正午の太陽の高度を測って海上の自分の位置を確かめるように、われわれも神を見ることによって、われわれの道徳的位置を知ることができる。私たちは神から始めなければならない。われわれは神との正しい関係に立っている限り正しく、神以外の場所に立っている限り、間違っている。
求道的なキリスト者としてのわれわれの問題は大てい、われわれが神をありのままに受け入れ、私たちの生活をそれに従って調整しようとしないところから起ってくる。われわれは神を適当に変えて私たち自身の姿に近づけようとする。われわれの肉性は神の仮借なき宣告のきびしさに対して泣き言を言い、アガグがしたように、僅かのお慈悲をとい、少しでよいから肉の欲にふけることを許していただきたいと叫ぶ。しかし、それではだめだ。われわれは神をありのままに受け入れ、ありのままの神を愛するようになったとき、はじめて正しい出発点に立つことができるのだ。私たちが神を一層よく知るようになるにつれて、神がありのままの神でおられることが、言いようもない喜びの源になってくる。われわれが最も大きな歓喜を感ずるのは、敬虔な思いで神をほめたたえまつる時である。そのような時には、神が変りたもうというようなことは考えるだけでも耐えられないほどの苦痛である。
こういうわけだから、私たちはまず神から出発しよう。神は万物の背後に、前に、また上におられる。神は因果の順序から言えば万物の一番初めに有られ、上下の順位から言えば栄光と御稜威(みいつ)とをもって万物の上に位しておられる。独立的存在である神は万物に存在を与えられた。万物は神から出で、神のために存在しているのだ。「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」
すべての魂は神に属し、神の御旨によって存在している。神が神であり、またわれわれがわれわれである以上、神とわれわれとの関係は神が完全に主であり、われわれは完全に従者であるというよりほかに考えることはできない。私たちが神にほまれを帰することさえ、実はその力を神からいただいたからこそできるのだ。神にほまれを帰さないでいるところにわれわれの永遠の悲しみがあるのだ。
神を探求するには、私たちの全人格を神に結びつけることが必要である。それもただ理論的にではなく、実際に結びつけるのである。私はここでキリストを信じる信仰による義認のことを言っているのではない。私が言っているのは、神が自ら御自身を高めてわれわれの上に正しく位したまい、われわれがよろこんで全身全霊をささげて神に従い、神を拝みまつるということである。これが創造主と被造物との正しい関係なのだ。
神を万物の上に高く挙げる決心をしたとき、われわれはこの世の人々の行列の外に出たのである。われわれはこの世の人々とうまく歩調を合わせることができない。聖い道を進んで行くにつれて、ますますそう感ずるようになる。われわれは新しい見方をするようになり、新しい力が湧きあふれ流れ出して、われわれを驚かせるだろう。
私たちの神に対する関係が変った直接の結果として、私たちはこの世と絶交するに至る。なぜなら、この世の堕落した人々は神を崇めようとしないからである。なるほど何百万という人がキリスト者をもって自ら任じており、ほんのおしるし程度の尊敬を神に対して払っている。しかし、神が彼らの間でどんなに僅かしか敬われていないかは簡単なテストをしてみればすぐ分かる。普通の人に「あなたの上に誰がいますか」という質問をしてみれば、彼の本当の立場はすぐにばれてしまうだろう。彼に神か金かどちらかを選ぶように強制してみるがよい。同様に、神か人か、神か野心か、神か自己か、神か人間愛か、それぞれその二つの中から一つを選ばしてみなさい。神はいつも二番目にまわされるにちがいない。神でない方のものが上に挙げられるだろう。その人が何と抗議しようと、彼が生涯を通じて毎日行っているその選択が何よりの証拠である。
「あなたが高められますように」という言葉は日々勝利を味わっている霊的経験の語る言葉である。それは恩寵の大宝庫の扉を開けるための小さな鍵である。求道している人が口先きだけでなく心から、「あなたが高められますように」といつも言えるところまで進んで来れば、数知れぬ小さな問題はたちどころに解決されてしまう。彼の信仰生活は以前のように複雑なものではなくなり、極めて単純なものになってくる。彼は自分の意志でその進路を定めたのであるが、それから後はまるで自動操縦装置によって導かれてでもいるように、その進路からそれることはない。たとい逆風を受けてちょっとそのコースから外れることがあっても、必ず再びそのコースに戻って行く。それが彼の魂の癖ででもあるかのように。聖霊がひそかに彼のために働いて下さる。また「軌道を進む星」が彼のために戦ってくれる。彼は人生問題の中心にぶつかってこれを解決したのだから、他の問題はことごとく解決するはずである。
自己のすべてを自分から進んで神に引き渡したために、人間としての尊厳を幾分か失ってしまったのではないかと考えてはならない。人はそのために人間としての品位を落すことはないどころか、創造主の像に似せて造られた者にふさわしい、大いなる光栄に輝く正しい場所を見出すのである。大きな恥辱はむしろ彼の道徳的混乱と、神の占むべき場所を不自然にも彼が横取りしていたこととの中にある。彼が盗んでいたその王座を再び神に返還することは、かえって彼の名誉なのだ。神を万物の上に高めることは、同時に自分の光栄を高めることになるのである。
自分の意志を神の意志に従わせるのはいやだと思う人は、イエスの言葉を思い出すべきだ。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」われわれは必然的に誰かの奴隷である。神の奴隷でなければ罪の奴隷である。罪人はよく自分は独立独歩だと言って自慢するが、実は、彼の肢体を支配している罪の弱い奴隷になっていることを完全に見落しているのだ。キリストに従う人は残酷な奴隷監督と、そのくびきは易く、その荷は軽いところの親切で優しい主人とを取りかえたのである。
われわれは神のかたちに造られたのだから、神を再びわれわれのすべてとして受け入れることは少しも不思議ではない。神は私たちの一番はじめの住居であった。だから、私たちの心はその美しい昔の家に再び入るとき本当の安らぎを感じるのである。
神が最高の位置を要求なさるのには、それだけのれっきとした論拠があるのだということをはっきり理解していただきたい。その位置は当然神の権利に属するものである。その神のものである位置をわれわれが奪っている間は、われわれの人生行路は混乱せざるを得ない。わたしたちの心が「神を高めよう」という大決心をするまでは、何ものも秩序を回復することはできない。
神はかつてイスラエルの祭司に、「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊ぶ」と言われた。この昔の神の国の法則は、時間の流れや御経綸の変化にもかかわらず、今日も変らない。聖書全体がそうであるばかりでなく、歴史のすべての頁がこの法則の永続性を示している。私たちの主イエスは、「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を神は重んじて下さるであろう」と言われた。この言葉によってイエスは古いものを新しいものと結びつけ、神の人間に対する態度が本質的には変らないことを示しておられる。
物を見るにはその反対の物を見ると一層よく分かることが時々ある。エリとその息子たちは生活においても奉仕においても神を尊ぶという約束のもとに祭司職についた。ところが彼らは神を尊ばなかったので、神はサムエルを遣わして、その結果を宣言せしめられた。エリの知らない中に、神と人とが互いに尊び合うというこの法則が秘かに働いていて、今や裁きが下される時が来た。堕落した祭司、ホフニとピネハスは戦死し、ホフニの妻は出産で死に、イスラエル軍は敵の前から逃げ、神の箱はペリシテびとに奪われ、そして老人エリはあおむけに倒れて首を折って死んだ。エリが神を尊ばなかったために、このような悲劇がつづいて起ったのである。
これと、聖書の中で地上にいる間一生けんめいに神を尊び讃えたどの人物とでもよいから、くらべてごらんなさい。神がいかにそのしもべたちにはかりしれぬ恩寵と祝福とを注ぎ、彼らの弱点や失敗を見逃して下さったかを見ていただきたい。アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ダニエル、エリヤ、そのほか誰でもいい。収穫が種まきにつづくように、光栄が光栄につづいたのであった。神の人は皆神を万物の上に高めようと決意した。神はその決意を事実として受け入れ、そのように行為されたのである。彼らが完全であったのではない。彼らの聖い決意がエリとの相違を生んだのである。
私たちの主イエス・キリストの中にこの法則は完成された。彼は卑しい人間の形をとられて、へりくだり、すべての栄光をよろこんで天の父に帰しまつられたのであった。彼は御自身の栄光を求めず、彼を遣わされた神の栄光を求められた。あるとき主は言われた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父である」パリサイ人たちはこの法則からひどくかけはなれていたから、自分を犠牲にしてまで神に栄光を帰する人の気持が分からなかった。イエスは彼らに言われた、「わたしはわたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている」
イエスのもう一つの言葉は質問の形で述べられている。これは聞く人の心を騒がす言葉である。「互いに誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか」私がこの言葉を正しく理解しているとすれば、キリストはここで、人々から誉を受けたいという欲望があるかぎり神を信じることはできないという驚くべき教義を説いておられるのだ。この罪が不信仰の根底にあるのだろうか。「理性的に納得できないから」神を信じられないのだとよく人は言うが、それは彼らのうしろにある本当の原因をかくすための煙幕なのだろうか。人々をパリサイ人にし、パリサイ人を神を殺す人間にしたのは、人から誉を得ようとするこの貪欲だったのだろうか。おそらくそうだったのではないかと私は思う。神があるべきところに神を置かないと、人生行路は混乱に陥ってしまう。われわれが神を高めないで、私たち自身を高めると、やがて呪いがやってくるのだ。
われわれが神を欲求するに当って常に記憶していなければならないことは、神もまた人の子たちを求めておられるということである。神はことに、万物の上に神を高めようと決定的な決断をする人の子たちを求めておられる。このような人たちは神にとってどんな地上の宝や海の宝よりも尊いのでる。そのような人たちに神はキリスト・イエスによるこよなき愛を示したもう。なぜなら、神は彼らと何ものにも妨げられることなく、共に歩むことができるし、また彼らに対しては神らしく行動することができるからである。
こうお話しながらも、一つ心配なことがある。それは神があなたがたの心をかち得る前に、私があなたがたの頭だけを納得させてしまったのではないかということである。神を万物の上におくということは決してやさしいことではない。頭がそれを承知しても、意志がそれを実行に移すことに賛成しないことがある。想像力ばかりが神に栄光を帰そうと先走って、意志がこれにともなわないでいるのに、本人は自分の心が分裂していることに気がつかない。全人格が決断するのでなければ、心は本当の満足を知ることはできない。神はわれわれのすべてを求められる。私たちのすべてを得るまで、神は休息なさらないのだ。人は自分の一部を神に献げるだけではだめなのだ。
この問題については詳細に祈る必要がある。私たちは神の足もとにわが身を投げ出し、口先だけでなく、本気で祈ろうではないか。このように誠実に祈るなら、神が受け入れて下さったというしるしは、そんなに長く待たなくても必ず与えられるのだ。神はその栄光を神のしもべの目の前にあらわし、その宝を彼の自由に委ねられるだろう。なぜなら、神はそのように潔められた人の手に、神の誉を与えても安全であることを知っておられるからである。
おお神よ、どうかあなたが私の一切の所有物の上に高められますように。あなたが私の生活によって栄光を受けられさえすれば、地上のどんな宝も私にとって大切なものとは思われないでしょう。どうかあなたが私の友情関係の上に高められますように。私はあなたを万物の上におく決心をいたしました。そのために人にすてられ、この地上に友もなくただ独りで生きなければならなくなってもかまいません。どうかあなたが私の快楽の上に高められますように。たとい肉体的な快楽を失い、重い十字架を背負わなければならなくても、私は今日あなたの御前に誓った約束を守ります。どうかあなたが私の名声の上に高められますように。たとい私が世に埋もれ、私の名前が夢のように忘れ去られてしまっても、私の心の中にあなたをよろこばせまつろうという野心を起してください。おお主よ、立ち上って当然あなたのものである栄光の地位に就きたまえ。私の野心や好き嫌いや、また私の家族、健康、いや、私の生命そのものの上にも座したまえ。あなたが栄えるように、私を衰えさせて下さい。あなたが高く昇るために、私を低く沈めて下さい。ちょうどあなたが卑しいろばの子に乗ってエルサレムの町にお入りになったように、私の上にお乗りになって下さい。そして、子供たちがあなたにむかって「いと高き所に、ホサナ」と叫ぶその声を私に聞かせて下さい。
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