2017年7月13日木曜日

神前有能[第14日]霊において祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第14日
霊において祈りなさい

私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。(第1コリント14:15)

私たちは、霊において祈るだけでなく、『知性においても祈る』(第1コリント14:15)べきです。祈る時は、この二つが一緒に働かなくてはいけません。信じる者は、自分が何について祈るべきかを霊の中に受け、受け取ったものを知性の中で理解します。霊が祈りの重荷を引き受け、知性がその重荷を祈りの言葉に整えます。このかたちになって初めて、信じる者の祈りは完成します。キリスト者であっても、霊に何の啓示も受けないまま、自分の知性の中の考えに拠って、祈ることが実に多いのです。このような人は、自分自身が祈りの源になっています。しかし、真の祈りとは神の御座から生まれるものでなければなりません。そのような祈りは、まず、人の霊の中で感じ取り、次いで知性で理解し、最後に御霊の力を通して言葉になります。人の霊と祈りは切り離せないものです。


霊において祈るためには、キリスト者はまず、霊によって歩くことを学ばなければいけません。一日中、肉によって歩いているようでは、霊によって祈ることはできません。祈りの生活のあり方は、その人の日々の歩みの状態から大きくかけ離れることはないものです。多くの人が、霊の状態がよくないために、霊によって祈る資格を失っています。人の祈りの質は、その人の生活の状態で決まります。肉的な人が、霊的な祈りを捧げることができるでしょうか。一方、霊的な人であっても、自分で気を付けていなければ、肉に落ちてしまうこともあり、必ずしも、霊的な祈りをしているとは限りません。しかし、霊的な人間が霊によって祈り続ければ、そのような祈りは、霊と知性を、いつでも神と通い合わせてくれます。祈ることが霊を鍛え、また、この鍛錬を通して霊は一層、強められます。怠惰な祈りは、内なる人を弱めます。何も祈りの代りとなることはできず、それは、キリスト者としての働きであっても同じです。多くの者が、あまりに働きで手一杯になっていて、これが祈る時間を削ってしまいます。悪霊を追い出すことができないのは、このためです。祈りは私たちに、まず、内面では敵に打ち勝ち、外面でその敵を跳ね返す力を与えてくれます。ひざまずいて祈ることを通して、この敵と闘えば、立ち上がる時には、必ず、その敵は逃げ出してゆきます。

霊の重荷と、霊にかかる足かせとは異なるものです。後者は、サタンから来るもので、信者を打ち砕き、苦しみを与えることを意図していますが、前者は、信者に対して御心を明らかにし、信者にともに働いて欲しいという神の願いの中から生まれるものです。霊にかけられる足かせには、心を押しつぶす以外の目的はなく、何の役にも立たず、また、実を結ぶこともありません。霊の重荷は、これと異なり、神から子供へと与えられ、その目的は人を働きへと召し、祈り、また、御言葉を語らせることにあります。その重荷には目的と理由があり、霊的な価値を持っています。私たちは、霊への重荷と、霊への足かせを、はっきり区別することを学ばなければなりません。

サタンは決して、キリスト者に重荷を与えることはしません。ただ、信者の霊の周りを徘徊しては、大きな足かせをそこにはめようとします。この足かせは人の霊を縛り、知性の働きを奪い去ります。神から重荷や悩みごとを受けた人はただ、それを担いますが、サタンに抑圧された人は、自分の全存在が束縛されたことに気づきます。暗闇の力が到来すると、信者は即座に自由を失います。神が与える重荷はこれとまったく逆です。神から来る苦悩が、どれだけ大きなものであろうと、あまりに重苦しくて、祈ることもできないことには、決してなりません。神から来る重荷のもとでは、祈る自由が失われることはありませんが、霊にかけられる敵の足かせは常に、人から祈る自由を奪い去ります。神に授けられた重荷は、祈ることによって引き上げられますが、敵から来る足かせは、私たちが祈りの中で抗い、戦わなければ取り去られることはありません。霊への足かせは、気づかないうちに忍びよるもので、霊の中で働く神の御霊がもたらす霊的な苦悩とは、対照的です。霊への足かせはもっとも惨めで過酷なものであるのに対し、霊の重荷は大きなよろこびを与え(当然、肉はそう感じていませんが)、私たちを神とともに歩むようにと招いています(マタイ11:30を参照)。それをつらいと感じるのは、重荷に抗い、思いが満たされないときだけです。

本物の働きはすべて、霊の中の重荷や苦悩から始まります。(もちろん、霊の中に何の苦悩もない時は、知性を用いることが必要です。)私たちが働き、語り、また、祈ることを望まれる時、まず、神は、霊の中に重荷を植え付けます。霊のこの原理を知った後では、私たちはもはや、与えられた働きを漫然と続けることはできず、増し加わっていく重荷を受け入れます。また、その重荷に背を向けて、気づかないようにふるまうこともしません。私たちは今すぐ、すべてを打ち捨てて、この重荷の意味を解明する(求める)べきです。その大きな意味が理解できたら、後は、それを踏まえて行動することができます。そして、召されたその働きが完了した時、重荷は離れてゆきます。

神からの重荷を受け入れるために、私たちの霊は、いつも自由で束縛されずに(開かれて)いなければなりません。束縛されていない霊だけが、御霊の動きを察知することができます。心配ごとでいっぱいになっている霊は、本能的な感覚の鋭さをすでに失っており、良い器とはなれません。神から受けている重荷のままに動くことができないため、この信者は、何日もの間、苦しみの中で押しつぶされそうになっています。このような時、神は新しいものを与えることができません。

この故、祈りを通し、聖霊の助けと、人の知性を用いて、重荷の意味を探し求めることは、とても大切です。

霊の中の重荷と苦悩は、祈りのために与えられていることがよくあります(コロサイ4:12)。実際のところ、私たちは、重荷を超えて祈ることはできないのです。重荷なしに祈り続けても、実を結ぶことはありません。祈りとは、私たちの知性から生じるものでなければならないからです。しかし、霊の中の祈りの重荷を、小さくできるのは祈りを通してだけです。神が、祈りや御言葉の宣教などのことで私たちを苦しめるとき、その悩みや重荷を鎮めるには、求められることを実行するしかありません。霊の中の祈りの重荷だけが、言いようもない深いうめきによって、御霊によって祈ることを可能にしてくれます。私たちの霊が、祈りの重荷に苦しめられているとき、その重荷を取り除いてくれるのは、祈りだけです。働きが完了すれば、その重荷はすぐに、取り去られます。

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