2017年7月26日水曜日

神前有能[第12日]祈りと重荷

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第12日
祈りと重荷

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55:22)

神が祈りたいという思いを注ぐときはいつも、神の御霊がまず、私たちを動かして何かの重荷を与え、その特定の問題のために祈る心を起こさせます。そのような気持ちを与えられたらすぐに、自分を祈りへと捧げるべきです。この時、祈るために求められる代価を、すべて支払わなければなりません。御霊に動かされているとき、私たちの霊は重荷を感じ取り、心が何かに押しつぶされているかのように思うからです。祈り切ったときは、重い石が取り除けられような解放感を味わうでしょう。しかし、その気持ちを祈りに注ぎ出すことをしなければ、何かをやり残したように感じるはずです。祈り尽くしていなければ、神の心と調和を持っていません。祈りの中で誠実であろうとすれば、すなわち、重荷を乗せられたらすぐに祈り始めるなら、祈りは決して負担にはならず、むしろ光であり、喜びとなるはずです。


このとき、悲しいことに、実に多くの人たちが、御霊を抑え込んでしまいます。祈りに向かわせるために、御霊が与える衝動を、彼らは抑え込んでしまうのです。この後、その衝動は去ってゆき、戻ってくることは、ほとんどなくなります。こうなると、彼らはもう、主の前に役に立つ器ではありません。彼らはもはや、祈りを通じて神の御心を吐き出すことができず、主は彼らを通して、何も成し遂げることはできません。ああ、祈る重荷が何ひとつないことになったら、私たちは神との交わりをすべて失い、主の働きに用いられることもないという、もっとも危険な状況に沈み込んでしまいます。このため、御霊が私たちに与える感情にどう向かい合うか、特に気を払わなければなりません。祈りの重荷を与えられた時は、すぐに、主にこう尋ねるべきです、『おお、神よ、私に何を祈らせたいのですか?あなたに成し遂げていただきたいと、私が祈るべきこととは何ですか?』そして、そのとおりに祈り抜けば、神は私たちに次の祈りをゆだねるでしょう。始めの重荷をまだ背負ったままなら、次の荷を担うことはできません。

主が私たちを、ともに祈る誠実な仲間としてくれるようお願いしましょう。重荷が載せられたらすぐに、祈りにすることで、その重荷を降ろすのです。もし、重荷があまりに大きくなりすぎて、祈りでは取り去ることができなかったら、断食をすべきです。祈りによっては、重荷を下ろすことができないとき、断食をしなければなりません。断食をすることで、祈りの重荷がすぐに降ろされることもあります。断食は、もっとも大きな重荷を取り去る助けとなり得るからです。

誰であれ、祈りの働きを成し続けようとするならば、神の御心を伝える管となります。主が何かをしようとするときは、まず、それをさせる者を探し出します。神の御心は、常に出て行く先を探し続けていると言ってもいいでしょう。主はいつも、御心の現れとなる人、または、人々を捕らえようとしています。多くの人が、この働きをしようと立ち上がるなら、主はその祈りによって、多くを成し遂げることができます。

祈りと言う務めを果たすためには、神の御前に、祈るための重荷がなければなりません。私たちは、法を定めようと考えているわけではなく、ただ、この原理をここで示したいと思っているのです。重荷は祈りの奥義であるという、この一点をしっかり理解しましょう。心のうちに祈るための重荷となる何かを感じていなければ、その人の祈りは決して、うまくいきません。祈り会に出る兄弟姉妹たちは、祈りの課題をたくさんあげてきます。しかし、あなたの心が動かされなければ、祈ることはできません。したがって、祈るためには、祈り会に来る一人ひとりの兄弟姉妹が、自分の祈りの重荷を持ちよることが大切です。

それと同時に、あなた自身が持っている重荷のことだけに心を奪われてはならず、祈り会に来ている他の兄弟姉妹の重荷も感じ取るべきです。例えば、ある姉妹はご主人のために悩んでいたり、また、ある兄弟は病気であるかもしれません。もし、祈り会の中で、誰かがこの姉妹の夫を救ってくれるよう神に願い、続いて、別の人がこの兄弟の病気の癒しを神に頼み、それから、他の人たちも順に、神の御前で他の何かを願うとすると、このとき、それぞれが個別の問題について祈っていることになります。これは、三回祈ると言う原則に即していません(第15日を参照)。今、あげた例で言うと、ここでは、あることについて徹底的に祈り切る前に、次の課題の祈りが既に始まっているのです。このようなことがあるので、祈り会では、集まった兄弟たちは、一つの課題に対する重荷が取り除かれたかどうかを確認しなくてはいけません。もし、全員がその姉妹のために祈り、祈りの重荷が取り除かれたら、そのとき、信者たちは病気の兄弟のために祈ってよいのです。はじめの問題に対する祈りの重荷が降ろされるまで、一緒に祈っている人たちは、二番目、三番目の祈りの課題に移るべきではありません。祈り会全体がまだ、ある課題に掛かりきりになっているとしましょう。そのとき、参加している人は、自分の個人的な気持ちから、別の祈りをそこに注ぎ込もうと試みてはいけません。

主にある兄弟たちは、祈り会全体の霊に触れるにはどうするかを学ぶべきです。集会全体の気持ちに入ることを学ばなくてはいけません。祈りの課題の中には、一度だけ祈ればよく、それでその重荷は片付いてしまうものも確かにあります。しかし、おそらく二回、祈らなければならない課題もあります。そして、また他の課題は、三回、五回と祈って、やっと、そこにある様々な重荷が取り除かれます。祈る回数には関係なく、重荷が取り去られて、はじめて、その問題に関する祈りは終わります。三回祈ると言う祈りの原則は、重荷が降ろされるまで祈るということに他なりません。

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