ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力
第23日
御霊にある一致
この人たちは、・・・みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒行伝1:14から)
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:18-20)
ここまで、なぜ、教会は神がつなぎたいと願うものをつなぎ、また、神が解きたいと願うものを解くべきなのかを見てきました。では、教会は、現実にどのようにして、つなぎ、また、解こうというのでしょうか?『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます』(十九節)。前の節(第十八節)は、地と天のどちらにも等しく重きを置いていますが、この節も同じです。十八節は、何であれ、地がつなぎ、解くものを、天もつなぎ、また、解くことを語っていますが、十九節も同じように、天におられる父が、地が願うことをなんでもかなえてくださると言っています。主イエス様がここで強調しているのは、ただ、何かひとつのことで一致して祈ることではなく、むしろ、どんな事でも、地上で心を一つにして祈ることであるところに、気を付けてください。主が言おうとしているのは、ふたりの人が何か特別の事柄について、地上で心を一つにできるなら、そのことを祈ってよいということではなく、主イエス様は、あなたがたがすべてにおいて心を一つにするなら(注1)、その中のどのことについて祈ろうと、天におられる御父が、それをかなえてくださると言われているのです。これこそ御体の一致であり、あるいは、こう言ってもいいでしょう、御霊にある一致です。
肉の思いに主が手を入れてくださるまで、人は自分を超人だと思いこみ、頭の中では、天が自分の言葉を聴くはずだとみているでしょう。そのようなことはなく、あなたが御霊の一致の中におらず、また、御霊の調和の中で祈ってもいなければ、天があなたの言葉を少しでも聞くでしょうか。あなたがいくら祈っても、天はあなたがつなぐものをつながないし、あなたが解くものを解くこともしません。これはあなたが、自分だけでできるようなものではないからです。自分ひとりで、それができると思うなら、それはただ、愚かな考えというものです。主は、『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださる』と、謳っているからです。これが意味しているのは、あなたがた二人が、あらゆることでぴったり調和していれば――息の合った音楽の演奏のようであれば――何について祈ろうとも、それは、天におられる父によって、かなえられるということです。そのような祈りを祈るためには、祈る人の内側に御霊の働きを必要とします。どういうことかと言えば、私は一人の兄弟として、神によってある場所、すなわち、そこでは、自分の願いをすべて否定し、主が望むものだけを求める(欲する)ようになる場所へと連れてこられており、そして、別の兄弟も同じように、聖霊によって、自分の願いを全て否定し、主が願うことだけを求めるその場所へと導かれています。私と彼、彼と私は、両方とも、音楽を演奏しているような調和が満ちたこの場所へと導かれます。そして、その時は、私たちが何を願おうとも、天におられる神が、私たちのために成し遂げてくれるのです。
兄弟たちよ、その時、祈っている課題について歩調を合わせさえすれば(はじめに聖霊との調和を持つことなしに)、私たちの祈りは聞かれるはずだなどと、夢を見てはいけません。そのようなことはありません。同じ考えを持つ人たちの間に、多くの食い違いが生じることはよくあります。同じ目的を持っているというだけでは、そこに不調和が生まれないという保証はありません。二人の人がともに福音を述べ伝えたいと思いながら、その間では、諍いが起こるかも知れません。二人は本心から互いの助けになりたいと願っていながら、相手の心をいら立たせてしまいます。同じ目的を持つことは、必ずしも調和を意味しません。私たちの肉の中には、調和の可能性は全くないことを認めるべきです。
私たちの生まれたままのいのちに、主が手を貸してくださり、そして、聖霊の中に生き始めることによって――キリストの中に生きている私、そして、キリストの中に生きているあなた――私たちは、調和を持つことになり、そうなってはじめて、与えられた課題について、心をひとつにして祈ることができるのです。
さて、ここにはひとつの問題の二つの面があります。ひとつは、あらゆることで調和していることで、二つ目は、どんなことについても祈ることです。私たちは、神によって、このようなところへ導いていただく必要があります。キリストの御体から離れて、キリスト者の調和を見出せる場所など、どこにもありません。調和はキリストの御体の中にあります。そこは、まったく争いがなく、調和だけが存在するところです。私たちの生まれたままのいのちを主が消し去ってくださり、キリストの御体とは何かを本当に知るところまで導かれたら、そのとき、私たちは調和の中に住まうようになり、私たちがともにする祈りもまた、調和したものとなるでしょう。調和という土台に立っている私たちは、どのような現実的な問題においても、心をひとつにすることができます。私たちが見るものすべてが調和しているので、私たちは神の御心の口金となる資格を満たしています。兄弟姉妹の皆さん、何か特定のことについて祈っている時に、自分の意見が人とかけ離れていたら、自分が思い違いをしていないか、気を付けてください。教会全体がひとつに集まって、その問題に対して心をひとつにしたとき、初めて、天がそれを行うところが見られます。だからこそ、教会を信頼するようにしましょう。
祈りは、はじめに行われるべきものではないことを心に留めてください。祈りは、人の心が一致したすぐ後を追いかけるものです。教会が、このような地上での祈りの務めを与えられたいと願うなら、そこに集う一人ひとりの兄弟姉妹が、主の前で肉のいのちを否定することを学ばなければならないのであり、それができなければ、教会がその役割を果たすことはないでしょう。主イエス様が、ここで私たちにくださる言葉は、何よりもすばらしいものです。主は、あなたが主の名前によって祈れば、天の父があなたの言うことを聞いてくださるなどとは言っていません。また、主は、御父が答えてくださるように、御自身が人々のために祈ってくださるとも言っていません。そうではなく、主が宣言されたこととはこうです、『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』ああ!私たちが本当に心をひとつにすれば、天の門が開くはずです!
『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです』(二十節)。ここに、第三の原理があり、これは、もっとも深遠な原理です。第十八節に、ひとつの原理が与えられており、十九節には他の原理が、二十節には、また、他の原理があります。第二十節に与えられている原理は、十九節にある原理よりも幅広いものです。なぜ十九節は、『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます』と言っているのでしょう?答えは二十節に与えられているように、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる』からです。なぜ、地上にこれほど大きな力が存在するのでしょう?調和をもって祈ることが、なぜこれほど大きな成果を生み出すのでしょうか?二人や三人の一致した祈りに、これほど大きな力を与えるものは何でしょう?私たちが主の御名においてひとつに集まるように召された時は、主御自身の臨在が必ずそこにあるからです。これが心をひとつにすべき理由です。第十八節は、地と天のあいだの関係について、第十九節は、地における調和した祈りのこと、二十節は、その調和が生まれる原因を語っています。
命じているのは、すべて主です。主がここにおられて、全てを指揮し、教え導き、語り、そして、自らを現わしていることによって、地でつながれるものは、何であろうと、天でもやはりつながれるし、地で解かれるものは、何であっても、天でも解かれることになります。それはただ、主がここにいて、御自身の教会とともに働いておられるがゆえなのです。
このことから考えると、私たちは、主の前に自分を否定することを学ぶ必要があります。主が、ひとつに集まるように呼びかけるたびに、私たちが主の御名に顔を向けるべきなのは、この御名が他のどのような名前より高いものだからです。すべての偶像を破壊しなければなりません。そうすれば、主は私たちを導いてくれます。
兄弟姉妹の皆さん、これは感情でも、理論でもなく、事実です。もし、教会が正常であれば、会合が終わるたびに、主がそこにいたかどうかが、明白に現れるはずです。主が臨在されるとき、教会は豊かで強くなります。そのような状態にある時、教会はつなぐことも、解くこともできます。しかし、主がその中にいなければ、教会は何ひとつできません。教会だけがこの力を得ています。一人一人の人間の中には、この力はありません。
脚注
[1]ここで言う意味は、文字通り、二人の間で、すべてが並行して行われるということではなく、その後の段落で著者が記述するような御霊にある調和のことです。(英訳者による注意書き)
0 件のコメント:
コメントを投稿