2020年2月7日金曜日

【Daily Open Windows】2月7日

二月七日

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ十一・三十)

愛する友人の皆さん、もしある事実が、あなたの心を自分だけに向けさせて、内省的にし、霊的に自分のことで精いっぱいにしてしまうなら、その事実は、間違えて理解されています。自分は人よりも霊的な位置にいると思い込んでいても、あなたの理解は全面的に間違えています。キリストが十字架で成されたこの大きな御業は、誰であれ、人を不幸にすることを目的とはしていません。これは、もちろん、言うには及ばないことです。それでも、主を信じた後も不幸なままの大勢の人たち、生きる上での罪の問題で惨めさを味合うたくさんの人たちがおり、そして、その数は、悲しいことですが、増え続けています。より完全な啓示、より深い真実(それをどう呼ぼうと――全てを完全な成長へと向かわせるところ)と、あらゆる個人的な内省のあいだには、明確な線を引いて、常にはっきりと分けておいてください。

2020年2月6日木曜日

【Daily Open Windows】2月6日

二月六日

このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず・・・(使徒十三・二十七)

読者の皆さんに念を押したいのですが、ここで語られることは、聖書をつかさどる、ある非常に大きな原理に基づいています。それは、聖書のことばよりも深いところから聞こえる声があるということ、すなわち、ことばを聞きながら、その声には気づかずにいることはあり得た――今もあり得る――ということです。ことばは、ものごとを言い表すものであり、声とはその意味です。これが、イザヤ書六章九節にも明かされている事実であることは、これまでに説明しました、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ(余白には、「いつでも」)。だが知るな。』これが、最初に引用した聖句、使徒行伝、十三章二十七節の背後にある状態なのです。

2020年2月5日水曜日

【Daily Open Windows】2月5日

二月五日

神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。(ローマ八・二十八)

主イエス様は、ご自身の人生にしっかりと結び付けられた、このご計画を知っていたことから、大きな力を受けました。私たちも、そのご計画を意識すること、私たちに与えられた神の召命を心にとめておくことによって、疑いなく、大きな力を得るようになります。だからこそ、敵はいつも、私たちの心をくじこうと試みます。この敵は、私たちの心に、本当にご計画を果たすことができるのだろうかという疑問と疑いを生じさせようと企み、私たちの働きは無駄であると語りかけます。敵が、私たちから、主のご計画に従って生きているという気持ちを奪い、私たちの証し、私たちの働き、あるいは、私たちが通らなければならない苦しみの価値について、疑いを差し挟むことに成功したら、そこで、私たちは、強さを奪われてしまい、この敵が上手を取ることになります。イエス・キリストが、その生涯の全体を通じて、神の力強さの中に守られていたのは、自分には大きな役割りが与えられているという意識に動かされ、神のご計画に常に従っていたからです。私たちも、生涯の計画をしっかり保ち、天の召しから目を離さないように心がけていれば、同じ強さの中に守られるでしょう。しかし、何か自分の欲望を満たそうとしたり、自分自身の計略に沿って行動して、何かの運動を進めようとするなら、そこに、神が私たちのために備えてくれるものは何ひとつありません。大きな力の中に守られるためには、自分は神の計画の中にいると知ることが絶対に必要です。私たちの奉仕は、常に、神の計画の結果であらねばなりません。私たちにとって、神の計画の中にこそ自分の居場所があると理解することは、非常に大切です。私たちは、自分を否定しなければなりません。神の計画の中に、個人的な利益が入り込む余地はありません。『神を愛する人々』のため、その心が神ご自身と神のご計画の実現にのみ向けられている人々のために、すなわち、『神のご計画に従って召された人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。』これは、信者たちが神の計画へと召されていることを、明確に示していることばです。自分が神の計画の中にいるということを、主イエス様がご存知だったのと同じくらい、私たちも、はっきりと知ることが必要なのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月4日火曜日

【Daily Open Windows】2月4日

二月四日

確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。(第一テモテ三・十六)

苦難のとき、試練のとき、逆境にあるとき、サタンの手がのしかかっているとき、何か意味があることとはとても思えなくても、実は、そこで神が御使いを教えているとか、天の支配と権威がそこから良いものを引き出しているなどと言われても、陳腐な慰めとしか思えないことが多いものです。そんなことばから多くの慰めを与えられることはありません。しかし、よく考えれば、そのような時、地上ではあまり大きな役割を果たしていないように思えても、そこで、私たちがしていることを通し、主の支配と権威に向けた大きな働きが成されていることに、気づくはずです。忙しく駆け回ったり、会合に出席したり、また、主のための働きをすることが、教会に属する者たちにできるただひとつの奉仕であると考えてはいけません。こうしたことが全部、行き詰まってしまい、地上での主のための働きもすべて止まって、私たちがまた、何もできない悲痛な日々にいるときも、主のための働きは同じように成し遂げられます。こんなふうに、何もできないでいるからといって、何の奉仕も行っていないとか、そのあいだ、主のためになることはすべて切り捨てられているなどと、決めつけてはいけません。み言葉を見てみましょう、『・・・今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって』――これは、未来ではなく、今のことです。このきわめて困難で苦しい経験を通して、主が導いてくださるからこそ、彼らは、主が教会で行っていることを学んでいるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月3日月曜日

【Daily Open Windows】2月3日

二月三日

もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(ガラテヤ六・一)

私たちのために、主が十字架においてなされたことの偉大さ――すなわち、私たちをご自身の豊かさへと導き、全ての敵を屈服させたこと――を、どのようなかたちであれ、本当の意味で、霊的に理解し、感謝できるようになれば、私たちは心のない者でいることはできないし、矮小で狭量であることもできず、寛容であらねばなりません。キリストの内側という大きな場所に自分がおかれておるからです。これは、このようなかたちで実現されます。すなわち、主が十字架で私たちのために成してくださったことを、より強く理解し、感謝するほど、私たちは、他の人たちにより寛大に――よりがまん強く、より寛容になり、そして、悪意に対してそのまま悪意で返す心を捨て、人の過ちを受け入れて、耐え忍ぶ気持ちを持つようにならなければなりません。相手が間違っていると感じたとき、すぐに、互いの非を攻め立てるようであれば、主の十字架の苦難を、ほとんど理解できていないことになります。大きな寛大さをもって、非常に多くのことを黙って見逃すようでなければなりませんし、霊的に高く引き上げられていれば、天にある私たちの場所のその高さのゆえに、恵みがすべてに打ち勝つはずです。天にある街々が支配し、天なる生活では、恵みがすべての上に立つものとならなければなりません。あなたがキリストにあって天的ないのちに達した時でさえ、そこでは、過ちに対する備えがされています。そこで、完璧で罪のないものになるのではありません。あなたが天的な生活に入っても、あらゆる欠点、失敗、過ち、損傷が消え去るようなことはありません。そこでも、うまく行かないことだらけで、それに堪えるために恵みが必要なことは、以前とかわりがないように思えます。このように、霊的になってその位置に達したとしてもなお、そこにも間違いはあるはずです。主は、それに対しても、恵みがあると言われます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月2日日曜日

【Daily Open Windows】2月2日

二月二日

(主は)より頼んでいるあなたがたには尊いものです。(第一ペテロ二・七)

もし、あなたや私が、自分は他の人より多くの光が当てられ、より多くの啓示を受けていると主張したらどうでしょう――もちろん、そのような主張は決してするはずもありません!――しかし、私たちが、そのことは明白で、それだけの価値があると考えていたら――人から見て、私たちの中には他の者よりキリストがいると思えるでしょうか?神は、自分が御子よりも前に出ることをしないし、神ご自身が理論や、教えや、教理や啓示と呼ばれるものへと動くことは、決してありません。神ご自身は、生ける御子の中に表される範囲にとどまっています。・・・

2020年2月1日土曜日

【Daily Open Windows】2月1日

二月一日

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ三・十六)

この、『ほどに』という小さなことばには、とても大きな重みがあります――『神は・・・ほどに、世を愛された。』ヨハネ伝の三章十六節が福音書の中心であるとよく言われますが、実は、もっと大きなものであり、それは全宇宙の中心でもあります。創造されたこの宇宙のすべてのものの後ろに、ただひとつの心があります。考えとか、意志、設計図、理由、力、布告などではなく、心です。すべてがある設計に基づいて創造されたこと、この宇宙の背後には何かの考えが働いていること、そして、ある意思が宇宙を存在に至らしめたことを証明しようとする試みが行われていることを、私たちはよく知っています。この試みがあること自体は、とても正しく、良いものですが、その創造の背後にひとつの心があること――ほかの何ものよりも大きな心があること――を、じっくり考えてみるように求められることは、そう多くありません。創造の動機、意志、設計は心から出てくるものです。すべてはまず、神の心の中に生まれます。