二月十四日
私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。(コロサイ一・二十四)
パウロは、この『キリストのからだのための苦しみ』、そして、『キリストの苦しみの欠けたところを満た』すことを、幾分なりとも知っていました。私たちも、これに立ち向かわなければなりません!神にとって大切なのは、主の苦しみを共有することです。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2020年2月14日金曜日
2020年2月13日木曜日
【Daily Open Windows】2月13日
二月十三日
この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント三・十三)
主の名前をうやうやしく掲げて、建てられているもの、また、いかにも『教会』らしく、壮麗でりっぱに見えるものは数多くありますが、この一組になったこの現実は、建てる人の中にはないし、建物の中にもありません。このどちらも、神の嵐と炎が人の全ての働きを裁くときには、崩れ去る運命にあります。良い働き、たとえば、慈善活動、もてなし、改革、教育、宗教、救済などは、『キリスト教文明』と呼ばれるものの産物、または、副産物であり、それには深く感謝すべきなのかもしれませんが、こういったものを、『新しい創造』、新生、『上から生まれる』ことと混同しないようにしましょう。教会とは、人間が、自分の中にある材料を用いて一人で、また、共同で建てられるようなものではありません。
この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント三・十三)
主の名前をうやうやしく掲げて、建てられているもの、また、いかにも『教会』らしく、壮麗でりっぱに見えるものは数多くありますが、この一組になったこの現実は、建てる人の中にはないし、建物の中にもありません。このどちらも、神の嵐と炎が人の全ての働きを裁くときには、崩れ去る運命にあります。良い働き、たとえば、慈善活動、もてなし、改革、教育、宗教、救済などは、『キリスト教文明』と呼ばれるものの産物、または、副産物であり、それには深く感謝すべきなのかもしれませんが、こういったものを、『新しい創造』、新生、『上から生まれる』ことと混同しないようにしましょう。教会とは、人間が、自分の中にある材料を用いて一人で、また、共同で建てられるようなものではありません。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年2月12日水曜日
【Daily Open Windows】2月12日
二月十二日
肉によって生まれた者は肉です。(ヨハネ三・六)
何でも分析したい気持ちに捕らわれてしまうことは、誰にでもあります。そうなると、あらゆることを議論し尽すことを好み、あらゆることを論理的に説明しようと試み、あらゆることを自分の頭脳、自分の判断力という顕微鏡で調べずにいられず、何ごともこのようなかたちで見通すことしかできません――そして、このようなかたちで理解できるまで、何ごとも受け入れようとしなくなります。こうなると、この人は、ある問題について、分析し、また、調べ上げずにいられない気持ちになり、全ての疑問に対して、あらゆる面から見て完璧な答えを見つけるまで、どんな回答も受け入れようとはしません。このような人の歩みは、とても遅いものになるでしょう。宗教的な激情が力強く波打つことによって初めて、自分は神なるものの中に入ることができると信じている人も、同じです。これは今、悪魔が仕掛ける最大の罠のひとつです。宗教的な感情は、基準とはなりません。それは、真の霊性の土台とはなりません。主の知識を得るため、本当に限られたその知識の一端を得て、その初めの一筋の光を見るためには、私たちの霊が御霊によって目覚めさせられ、照らされていることが必要です。神のことでいう前進とは、私たちの内なる人の成長のことに他ならず、真実を把握するために知的な能力を認めることとは違います。事実とつながり、事実に近づくことによって、いろいろな考え方を理解し、真実と教理を推し量る能力は、増してゆくかもしれません。たとえ、もう理解すべきことがほとんどなくなるまで、その能力が高まっていったとしても、そこに本物の霊性は、計ることもできないほどごくわずかしかないこともあるのです。・・・神の子供とは、その霊が新しくされた者であり、その存在の中心において、神との一致と交わりを持つ者のことです。この一致と交わりは、生まれたままの人間が持つことはなく、また、新しくされた霊の他にはどのような場所にも生まれないものです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
肉によって生まれた者は肉です。(ヨハネ三・六)
何でも分析したい気持ちに捕らわれてしまうことは、誰にでもあります。そうなると、あらゆることを議論し尽すことを好み、あらゆることを論理的に説明しようと試み、あらゆることを自分の頭脳、自分の判断力という顕微鏡で調べずにいられず、何ごともこのようなかたちで見通すことしかできません――そして、このようなかたちで理解できるまで、何ごとも受け入れようとしなくなります。こうなると、この人は、ある問題について、分析し、また、調べ上げずにいられない気持ちになり、全ての疑問に対して、あらゆる面から見て完璧な答えを見つけるまで、どんな回答も受け入れようとはしません。このような人の歩みは、とても遅いものになるでしょう。宗教的な激情が力強く波打つことによって初めて、自分は神なるものの中に入ることができると信じている人も、同じです。これは今、悪魔が仕掛ける最大の罠のひとつです。宗教的な感情は、基準とはなりません。それは、真の霊性の土台とはなりません。主の知識を得るため、本当に限られたその知識の一端を得て、その初めの一筋の光を見るためには、私たちの霊が御霊によって目覚めさせられ、照らされていることが必要です。神のことでいう前進とは、私たちの内なる人の成長のことに他ならず、真実を把握するために知的な能力を認めることとは違います。事実とつながり、事実に近づくことによって、いろいろな考え方を理解し、真実と教理を推し量る能力は、増してゆくかもしれません。たとえ、もう理解すべきことがほとんどなくなるまで、その能力が高まっていったとしても、そこに本物の霊性は、計ることもできないほどごくわずかしかないこともあるのです。・・・神の子供とは、その霊が新しくされた者であり、その存在の中心において、神との一致と交わりを持つ者のことです。この一致と交わりは、生まれたままの人間が持つことはなく、また、新しくされた霊の他にはどのような場所にも生まれないものです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年2月11日火曜日
【Daily Open Windows】2月11日
二月十一日
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ三・二十四、二十五)
啓示によって、それまで目の前にあったものが、一時的で、暫定的なものに過ぎなかったと示されることがあります。・・・パウロは、これを、私たちをキリストのもとへと導き、キリストに続く道を示すための『養育係』ということばで表しました。タルソのサウロにとって大きな試練となったのは、その時まで、自分は正しい人だと信じ切っていたのに、実はそれが、まったく異なる真実へと彼を導くことが目的であったという事実の光を、心に受け入れられるかということでした。主は、そのご支配の中で、ご自身の最終的で完全な目的から外れた、一時的なものの中に、私たちを入り込ませることがあります。これが、私たちをある地点まで導き、その地点まで達したところで、また、別の何かが入り込んでくるのです。そうなれば、その地点で、ある啓示が与えられて、私たちは言います、『そう、これはもう、十分に目的を果たしたし、ここで終わりにして、もっと大きな豊かさへと向かうときが来たのだ』と。そうなるかどうかは、私たち次第であり、主が自分をここに導いたのだから、ここが最終地点だと決めつけてしまって、主が、私たちをさらに先へと導こうとしていることに気づかなければ、それで終わりです。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ三・二十四、二十五)
啓示によって、それまで目の前にあったものが、一時的で、暫定的なものに過ぎなかったと示されることがあります。・・・パウロは、これを、私たちをキリストのもとへと導き、キリストに続く道を示すための『養育係』ということばで表しました。タルソのサウロにとって大きな試練となったのは、その時まで、自分は正しい人だと信じ切っていたのに、実はそれが、まったく異なる真実へと彼を導くことが目的であったという事実の光を、心に受け入れられるかということでした。主は、そのご支配の中で、ご自身の最終的で完全な目的から外れた、一時的なものの中に、私たちを入り込ませることがあります。これが、私たちをある地点まで導き、その地点まで達したところで、また、別の何かが入り込んでくるのです。そうなれば、その地点で、ある啓示が与えられて、私たちは言います、『そう、これはもう、十分に目的を果たしたし、ここで終わりにして、もっと大きな豊かさへと向かうときが来たのだ』と。そうなるかどうかは、私たち次第であり、主が自分をここに導いたのだから、ここが最終地点だと決めつけてしまって、主が、私たちをさらに先へと導こうとしていることに気づかなければ、それで終わりです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年2月10日月曜日
【Daily Open Windows】2月10日
二月十日
キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(第一ヨハネ二・二十七)
主の民、聖書を持っていて、文字としての聖書をよく知っているこの人たちは、彼らが本当の意味でキリストともに十字架につけられていたら、もし、彼らが主の死の中で自分も死んで、主とともに引き上げられ、そして、御霊を受け取っていたら、生活の中に主の光を持つことを、いつになったら、理解し、認めるようになるのでしょう?『キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるのです』(第一ヨハネ二・二十七)。いつになったら信者たちは、いつになったらキリスト者たちは、このことを理解し始めるのでしょうか?なぜ、文字としての聖書の知識を持っているはずのキリスト者たちが、あちらこちらと駆け回っては、自分の霊的な知識を大きく左右する問題で、他者の忠告を求めるのでしょう?私は、その問題で、人に相談することは間違っているとか、経験ゆたかな他の神の子供たちがどう考え、どう感じるかを知ろうとすることは間違っていると言うつもりはありません。しかし、もし、その人たちの結論に基づいて、自分の立場を決めようとするなら、私たちは大きな危険の中にいることになります。どのようなことでも、最終的な権威と決定権を持つのは神の御霊、油注ぎの御霊です。お互いから助けを得ることはかまいませんが、私があなたに望むのは、たとえば、私が何かを語ったからと言って、そのことに基づいて、自分の立場を決めようとはしないで欲しいということです。そのようなことは、しないでください。私は、そのようにして欲しくありません。あなたにそれをしてくださいとは求めません。私が言いたいことはこうです。まずは、よく聞いて、心にとめてください。それから、もし、あなたが神の子なら、あなたの中にいるはずの最終的な権威者のもとへ赴き、何かが真実であればその裏付けをし、真実でなければ、それをはっきり示していただくようお願いしてください。あなたの権利、生まれた時から持っている権利、全ての神の子供に与えられた生来の権利とは、内住の光の御霊、神の御霊の光の中にいることです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(第一ヨハネ二・二十七)
主の民、聖書を持っていて、文字としての聖書をよく知っているこの人たちは、彼らが本当の意味でキリストともに十字架につけられていたら、もし、彼らが主の死の中で自分も死んで、主とともに引き上げられ、そして、御霊を受け取っていたら、生活の中に主の光を持つことを、いつになったら、理解し、認めるようになるのでしょう?『キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるのです』(第一ヨハネ二・二十七)。いつになったら信者たちは、いつになったらキリスト者たちは、このことを理解し始めるのでしょうか?なぜ、文字としての聖書の知識を持っているはずのキリスト者たちが、あちらこちらと駆け回っては、自分の霊的な知識を大きく左右する問題で、他者の忠告を求めるのでしょう?私は、その問題で、人に相談することは間違っているとか、経験ゆたかな他の神の子供たちがどう考え、どう感じるかを知ろうとすることは間違っていると言うつもりはありません。しかし、もし、その人たちの結論に基づいて、自分の立場を決めようとするなら、私たちは大きな危険の中にいることになります。どのようなことでも、最終的な権威と決定権を持つのは神の御霊、油注ぎの御霊です。お互いから助けを得ることはかまいませんが、私があなたに望むのは、たとえば、私が何かを語ったからと言って、そのことに基づいて、自分の立場を決めようとはしないで欲しいということです。そのようなことは、しないでください。私は、そのようにして欲しくありません。あなたにそれをしてくださいとは求めません。私が言いたいことはこうです。まずは、よく聞いて、心にとめてください。それから、もし、あなたが神の子なら、あなたの中にいるはずの最終的な権威者のもとへ赴き、何かが真実であればその裏付けをし、真実でなければ、それをはっきり示していただくようお願いしてください。あなたの権利、生まれた時から持っている権利、全ての神の子供に与えられた生来の権利とは、内住の光の御霊、神の御霊の光の中にいることです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年2月9日日曜日
【Daily Open Windows】2月9日
二月九日
神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ四・六)
『私はアルファである。』神の知識の始まりを告げる音は、イエス・キリストの知識です。それは、『A』、すなわち、赤ん坊の口からはじめて出てくる音で始まります。『神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました』(ガラテヤ四・六)。キリスト者としての人生が始まって、初めに口をついて出る音も、『A』で始まります――すなわち、『父(アバ)』です。私たちが、初めて御父を知るのは、イエス・キリストを知るときであり、イエス・キリストこそ、御父を啓示された方です。御父としての神の知識は、まず第一に、イエス・キリストを通して、私たちにもたらされます。主が祈りの中で言われたのこのことばは、まことに真実です、『わたしは、・・・人々に、あなたの御名を明らかにしました』(ヨハネ十七・六)――そして、その御名とは、『父』でした。
神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ四・六)
『私はアルファである。』神の知識の始まりを告げる音は、イエス・キリストの知識です。それは、『A』、すなわち、赤ん坊の口からはじめて出てくる音で始まります。『神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました』(ガラテヤ四・六)。キリスト者としての人生が始まって、初めに口をついて出る音も、『A』で始まります――すなわち、『父(アバ)』です。私たちが、初めて御父を知るのは、イエス・キリストを知るときであり、イエス・キリストこそ、御父を啓示された方です。御父としての神の知識は、まず第一に、イエス・キリストを通して、私たちにもたらされます。主が祈りの中で言われたのこのことばは、まことに真実です、『わたしは、・・・人々に、あなたの御名を明らかにしました』(ヨハネ十七・六)――そして、その御名とは、『父』でした。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年2月8日土曜日
【Daily Open Windows】2月8日
二月八日
あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。(ヨハネ二十一・十八)
『燃える炎のような目』は、現実を探しています。それは、多くのものを見抜く目です。まず第一に、その目は、伝統的で形式的な宗教、すなわち、『キリスト教』を刺し通します。この目はこう問い質します、あなたにとっての宗教は、何らかの制度、歴史的な伝承、家族の伝統といったものに組み込まれたり、貼りついているのものですか?それとも、新しく生まれたものでしょうか――すなわち、あなたの中で誕生したものですか?あなたの身に引き起こされた何かですか?それはあなたの人生そのもの、あなたの存在そのものですか?二番目に――しばらくのあいだ、こちらの方にはなしを集中します――この目は、人の気性と性質を刺し通します。あなたが今、その場所にいる理由、あなたが今、その問題を心にかけているその理由、あなたが今、この相手とつながっている理由、そして、あなたが今、このような考え方をしているその理由について、そのようになっているのは、あなたの個人的な性向のゆえなのか、この目は、それを知りたいと求めています。例えば、あなたは、芸術嗜好で神秘的なものを好む気質を持っているため、自分の心象から、信じる宗教を選んだり、作り上げている人です。または、あなたにはいつも沈んだ気持ちでいる性向があり、そのため、より抽象的なもの、より深遠で、厳粛で、情熱的で、内省的で、そして、思弁的なものほど、あなたの心に訴え、あなたの思いも自然に応えるかもしれません。あなたは神、キリスト教、キリストや聖書を自分の心象から作り上げています。
あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。(ヨハネ二十一・十八)
『燃える炎のような目』は、現実を探しています。それは、多くのものを見抜く目です。まず第一に、その目は、伝統的で形式的な宗教、すなわち、『キリスト教』を刺し通します。この目はこう問い質します、あなたにとっての宗教は、何らかの制度、歴史的な伝承、家族の伝統といったものに組み込まれたり、貼りついているのものですか?それとも、新しく生まれたものでしょうか――すなわち、あなたの中で誕生したものですか?あなたの身に引き起こされた何かですか?それはあなたの人生そのもの、あなたの存在そのものですか?二番目に――しばらくのあいだ、こちらの方にはなしを集中します――この目は、人の気性と性質を刺し通します。あなたが今、その場所にいる理由、あなたが今、その問題を心にかけているその理由、あなたが今、この相手とつながっている理由、そして、あなたが今、このような考え方をしているその理由について、そのようになっているのは、あなたの個人的な性向のゆえなのか、この目は、それを知りたいと求めています。例えば、あなたは、芸術嗜好で神秘的なものを好む気質を持っているため、自分の心象から、信じる宗教を選んだり、作り上げている人です。または、あなたにはいつも沈んだ気持ちでいる性向があり、そのため、より抽象的なもの、より深遠で、厳粛で、情熱的で、内省的で、そして、思弁的なものほど、あなたの心に訴え、あなたの思いも自然に応えるかもしれません。あなたは神、キリスト教、キリストや聖書を自分の心象から作り上げています。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
登録:
投稿 (Atom)
