2020年4月7日火曜日

【Daily Open Windows】4月7日

四月七日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

彼(パウロ)のキリスト者としての生活と奉仕の根底に置かれていた確信と自信は、このただひとつのことから来ていますた。すなわち、彼がイエスの中にすべてを見たという事実です。全ては・・・・、イエス様の中に。それは、何と大きな自由を彼に与えたことでしょう!何という解放でしょうか!私たちがここで繰り返して語ってきたように、熱烈で狂信的なユダヤ人であったタルソのサウロをキリスト者に、ナザレのイエスを愛するものへと変えられる力は、この世界にはなかったのです。この世界のどのような力にもできなかったのですが、イエスご自身とこうして出会ったことがそれを可能とし、実際にそれが起こったのです!彼は解放され、自由になりました!

2020年4月6日月曜日

【Daily Open Windows】4月6日

四月六日

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ五・一)

他にも、奴隷の生活から逃れて、自由な空気を呼吸している者を意味することばがあります。奴隷の身分から逃れて、自由な空気を呼吸している――この言い方は、信仰の勝利者たちの姿を実によく描写しており、彼らの有りようをうまく表現しています。私はあえて、もっと踏み込んだ解釈はしません。私たちの中には、キリスト者としての生活、人生の中でも、奴隷の身分から逃れるとはどういうことかを知っている人もいます。ああ、キリスト教の制度と秩序、期待と要求、そして、数々の古びた当番表やら決まりごという古い縛り!――こういったものから完全に自由になるということです!キリストとともに復活するだけではなく、重苦しい死に装束を脱ぎ捨て、霊的な解放という自由な空気を呼吸する!これが、ここで、『残りの者』と呼ばれる者であり、これはキリスト教の外に置かれているのではありません。これこそ、まさしく、主の教会の始まりに見られるものです。

2020年4月5日日曜日

【Daily Open Windows】4月5日

四月五日

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ四・六)

神殿の幕が裂けたとき、そこでイスラエルがうち棄てられたことは、大きな意味があり、目を引く事実として、あなたの心を打たないでしょうか?イスラエルは、自分たちが特別な民であるという証しを守るように召された人たちでした。キリストが来られ、あらゆる国の民への働きを完成され、そして、全ての民の中心であった垂れ幕、すなわち、神を人から隔てていたすべてのものに、今、手が下されて、そこに道が開かれました。これで、もはや民を区別する必要はなくなりました。こうして、特定の民の管理人は、民の区分とともに消えることになります。ここにあるのは、特定の民についての摂理ではありません。現実の摂理であり、よみがえられた主との天なる一致、そして、それが意味するすべてのものについての摂理です。

2020年4月4日土曜日

【Daily Open Windows】4月4日

四月四日

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。(ピリピ三・十)

十字架とは、復活のいのちの終わりの場所でもあって、始まりの場所だけではないことを、はっきりと理解してください。他のことはすべて忘れても、これだけは覚えておいてください。主の十字架は、復活のいのちの始まりであると同時に、終わりでもあります、『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。』多くの人がピリピ書三章を持ってきてはこう尋ねてきました、『なぜ、パウロは、キリストの死を最後に持ってきたのでしょう?どう考えても、反対にしたほうがふさわしいはずです――すなわち、「私は、まず、キリストの死と同じ状態になり、それから、キリストをその復活の力の中で知り、またキリストの苦しみにあずかることも知りたいのです」のように。』しかし、これは間違いではありません。この順序は、聖霊から来るものです。主の復活の力は、まずは死があったことを前提としていますが、よみがえりのいのちはまさしく、十字架へと導くものです。よみがえりのいのちの力の中にいる御霊は、常に、あなたたちを導いて、十字架へと、キリストの死と同じ状態へと引き戻します。死に属するすべてのものを排除するのが、主のいのちの最大の特徴です。まさしく復活の力こそが、死が絶えず打ち負かされる場所へと、私たちを引き戻すものです。

2020年4月3日金曜日

【Daily Open Windows】4月3日

四月三日

わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(レビ記二十六・四)

花が落ちてしまうまで、実はつきません。花が散った後に来る季節は、夏であって、冬ではありません。もちろん、誰もが、その花がいちばん、きれいなときに見たいと思うでしょうし、夏のあいだずっと、花が咲いたままでいたら、どこか奇妙に感じるはずです。こう言いたくなるでしょう、『何かがおかしい、もう花は落ちている時季ではないか』と。近づいてよく見ると、その場所には確かに何かがあり、それは、約束に満ちて、はるかに大きな価値を持つものです。この咲きたての花は、いのちの兆候かもしれませんが、いのちそのものとは違います。新しいいのちの兆候は、春先に現れるものであり、それは冬が過ぎ去って、復活が始まっていることを示すものです。それは、兆候であって、いのちそのものではなく、それは霊的な幼年期とともに過ぎ去ってゆきます。初期に生じるこの熱情は、神との結びつきの本物の基礎にはなりませんが、私たちの中で何ごとかが起こったことを表す兆候ではあります。この熱情は私たち自身から出てくるもので、神から来るものではありません。神は、これとは別のものです。神は、全てを吹き払おうとはされません。主のいのちが働いており、それ自体をより強く、より深いかたちで表すことになります。・・・・しかし、もし、一方で、永遠のいのちが働いて、生まれたままのいのちから私たちを切り離し、それが私たちと神との関係の基本となるなら、他方では、そこで成されたのは、非の打ち所がないほどすばらしいことです。まさしく、『主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである』と言えます。主は、私たちの肉体にまで入り込んで、私たちが最善を尽くしてやっと可能となることよりもずっと多くのこと、明らかに今の可能性をはるかに超えることをさせます。主は、人間としての私たちが、最良の状態でさえ、まったく役に立たないことを知らせているのです。それを行うのは、主のいのちです。主のいのちは、ひとつの制度を力ずくで剥ぎ取り、別の制度を持ち込んで、その制度が拡がる道を開きます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月2日木曜日

【Daily Open Windows】4月2日

四月二日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍びました。(ヘブル十二・二)

十字架での受難は私たちが解放される道です。そして、自分が通ってきた霊的な経験のことを考えれば、神と歩いた経験を持つあなたなら、深く耐えがたい苦しみの時を通してこそ、自分が新たな解放、霊的な生活への新鮮な解放を見出したことをよく理解しているはずです。そうではありませんか?そうです、私たちは、霊の苦しみ、たましいの苦しみに責めさいなまれる時へと進んでいきます。私たちは、主が何をしているのか、それによって何を意図しているのか、何を求めているのかを知りませんが、自分たちが経験していることの意味を知っているし、自分が受けている苦しみとは何か、そして、それがこれから続くことを理解しています。私たちはもちろん、それをやめていただくよう、早く終わらせて、そこから解放してくださるよう、主にお願いします。主は、私たちのことを心にもとめません。そして、別の出口から逃げ出した人たちだけが、こんなふうに言います、『神が、気にもとめなかったことに感謝します。』初めのうち、私たちは、主をただ優しく、善であり、正しいことをするお方であると考えていますが、御手の下で生きていくにつれ、私たちは、主が何かに手をくだしていることに気づき、それを感じ始めます。主は、例えば、私たちの高慢、私たちの独立心、私たちの無責任さを正そうとしているのかもしれません。このような問題は必ず持ち上がってきます。そして、私たちは、自分のことで正気を失いそうになるほど問題に、次々に直面しています。私たちの中にあるこの問題がこれほど強かったことを、これまでは、まったく信じていなかったでしょう。ああ、私たちはもちろん、この問題が、広い意味で全ての人間の中に、そして、人類の一員としての私たちの中にもあると信じる気持ちは持っていました。そう、私たちには高慢さ、あるいはそれに似た性質があると言われても、腹を立てはしなかったでしょう。しかし、その性質がどれだけ深く根を下ろしており、どれだけ恐ろしく強いものかということは、火のような試練にあわされて、生活の全てが行き詰ることがなければ、とても信じられなかったはずです。そして、私たちは、生活と神への奉仕の全てが、そこで行き詰ってしまったのを見たのです。・・・・主が目指していたのは、私たちがかつて思っていたように、私たちを打ちのめすこと、全てを失わせることではなく、成長を引き起こすこと、解放を引き起こすことであると、私たちはよく知っています。そして、解放とは常に、主の十字架、主の受難から延びる道の上に置かれています。成長はいつでも、この道の先に横たわっています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年4月1日水曜日

【Daily Open Windows】4月1日

四月一日

神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)

ガラテヤ人への手紙の内容を要約すると、次のようになります。すなわち、キリスト者とは、実行する指示されたこのこと、あのことや、別の何かを行う人のことではありません。キリスト者とは、禁じられているこのこと、あのことや、別の何かを避ける人のことではありません。キリスト者とは、外から示された生き方、秩序、また、『こうしなさい』とか、『こうしてはいけません』と命じる律法制度に支配される人のことで、決してありません。キリスト者であることとは、この一文から理解できます、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた』(ガラテヤ一・十五-十六)。これは、次のことを言い換えているにすぎません、『神は私の目を開き、イエス様を見せてくださった。』この二つは同じことだからです。ダマスコへと続く道がその場所です。『主よ。あなたはどなたですか?』『わたしは、ナザレのイエスである。』『御子を私のうちに啓示することを、神はよしとされた。』これは、全て同じひとつのことです。