五月八日
主であるわたしは変わることがない。(マラキ三・六)
暗闇の権威は、私たちにとっても、はっきりした現実です。これまでも経験してきたように、この権威に屈服してしまえば、私たちはそこでおしまいです。敵は、暗闇の権威をもって、私たちの生活に入り込もうとしますが、この侵害の前に屈服し、降参して、受け入れてしまえば、私たちは敗北します。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2020年5月8日金曜日
2020年5月7日木曜日
【Daily Open Windows】5月7日
五月七日
人にはできないことが、神にはできるのです。(ルカ十八・二十七)
全てはこのひとつのことにかかっています。すなわち(見かけどうりに単純なことですが)、もしキリストが臨在すれば(それは神が臨在するということに他なりません)、その瞬間には、何でも起こり得るということです。あなたはいつか、人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか?その日が来るかどうかは、決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。主は言われます、『わたしは、同時に、時間であり、永遠でもあるから、あなたは、時間に縛られることは、何ひとつ受け入れなくてもよい。わたしを受け入れなさい。そうすればあなたは、朝には、ほとんど死人のようになっていながら、一日が終わる前には、完全に生きかえることもできるのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。」』マリアは言いました、『私は、終わりの日に、主がよみがえることを知っております。』彼女にとって、よみがえりとは、ある時間が来たら起こることでした。ああ、違います。よみがえりは、すぐそこにあったのです。・・・
人にはできないことが、神にはできるのです。(ルカ十八・二十七)
全てはこのひとつのことにかかっています。すなわち(見かけどうりに単純なことですが)、もしキリストが臨在すれば(それは神が臨在するということに他なりません)、その瞬間には、何でも起こり得るということです。あなたはいつか、人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか?その日が来るかどうかは、決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。主は言われます、『わたしは、同時に、時間であり、永遠でもあるから、あなたは、時間に縛られることは、何ひとつ受け入れなくてもよい。わたしを受け入れなさい。そうすればあなたは、朝には、ほとんど死人のようになっていながら、一日が終わる前には、完全に生きかえることもできるのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。」』マリアは言いました、『私は、終わりの日に、主がよみがえることを知っております。』彼女にとって、よみがえりとは、ある時間が来たら起こることでした。ああ、違います。よみがえりは、すぐそこにあったのです。・・・
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2020年5月6日水曜日
【Daily Open Windows】5月6日
五月六日
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ五十五・八―九)
何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。私たちはよく、神ならば決して許さないことも、許してしまいます。神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっています。神の視点に立つことが必要です。『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこと、このことには何の害もない。ああ、あのことに悪いところが何もない。誰それのこと、あれこれのことを見ていればいい』などと言っては、生きる上での標準を、他の誰かの中に求めるのではないでしょうか。私たちは、多くの人々がこうするのを見てきました。すなわち、神の働きの中にいる傑出した人物を見つけようとするのです。その人の人生には何かがあると思い込みます――それは、模範とみなして、見習ってきた何かであり、その何かをずっと続けてきたのです。『ああ、あそこには悪いものは何もない。誰それを見ていなさい。』そして、まさにこのような弁明をしたために、滅びてしまった多くの人生や奉仕の生活を、私は見てきました。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ五十五・八―九)
何に対しても、神の思いは、私たちの思いとは全く違うものです。私たちはよく、神ならば決して許さないことも、許してしまいます。神は、ものごとを、まったく違った視点から見ています。私たちがものごとを判断する基準と、神が判断される基準は異なっています。神の視点に立つことが必要です。『ああ、』人は、こんなふうに言います、『あのこと、このことには何の害もない。ああ、あのことに悪いところが何もない。誰それのこと、あれこれのことを見ていればいい』などと言っては、生きる上での標準を、他の誰かの中に求めるのではないでしょうか。私たちは、多くの人々がこうするのを見てきました。すなわち、神の働きの中にいる傑出した人物を見つけようとするのです。その人の人生には何かがあると思い込みます――それは、模範とみなして、見習ってきた何かであり、その何かをずっと続けてきたのです。『ああ、あそこには悪いものは何もない。誰それを見ていなさい。』そして、まさにこのような弁明をしたために、滅びてしまった多くの人生や奉仕の生活を、私は見てきました。
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2020年5月5日火曜日
【Daily Open Windows】5月5日
五月五日
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・十六)
人としてのキリストと同じ位置に来ることは、実に壮大なことであり、また、途方もない強さの源となります。そこでは、限りない天の備えが利用できるからです。私たちは、その場所に向かって一歩ずつ前進するしかなく、一気に到達することはできないと思います。私たちがそこに至るには、訓練という道しかありません――それは、私たちを、主だけにより頼むものに変えるという訓練ではありますが、自分を空にし、完全に砕かれるというそれ自体が目的なのではなく、そこには、神の恵み――神のあの恵み深さ――がいつもともにあり、空っぽになったときには、主の完全さで豊かに満たしてくれる、そのような訓練です。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・十六)
人としてのキリストと同じ位置に来ることは、実に壮大なことであり、また、途方もない強さの源となります。そこでは、限りない天の備えが利用できるからです。私たちは、その場所に向かって一歩ずつ前進するしかなく、一気に到達することはできないと思います。私たちがそこに至るには、訓練という道しかありません――それは、私たちを、主だけにより頼むものに変えるという訓練ではありますが、自分を空にし、完全に砕かれるというそれ自体が目的なのではなく、そこには、神の恵み――神のあの恵み深さ――がいつもともにあり、空っぽになったときには、主の完全さで豊かに満たしてくれる、そのような訓練です。
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2020年5月4日月曜日
【Daily Open Windows】5月4日
五月四日
あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ一・二十七)
私たちは、天におられるキリストと、信者の中にいるキリスト、その両方について語ることの大切さを感じています。すなわち、客観的な見方と、主観的な見方についてです。真実の適切な釣り合いを保つことは、この上もなく重要です。私たちが抱える問題の非常に多くは、真実のある一側面だけを、不釣り合いなほど誇張するために起こっています。真実を知るのはよいことであり、また、真実の中で喜ぶのもよいことであるとはいえ、真実もやはり、私たちに困難をもたらす可能性があるのです。真実へと進む方向には多くの危険が横たわっており、それは、霊的な真実でも同じです。そして、主の人々の中にも、このような危険に陥ったことのある者が少なからずいます。光がないために苦しむのではなく、適切に整えられ、釣り合いが取れたかたちで光を受け取らなかったがために、彼らは、ひどく苦しんでいるのです。このために、私たちにとって、ものごとを正しい見方で、正しい均衡の中で受け取ることが不可欠となります。ある一面だけに偏り過ぎることによって、霊的な傷を負うことになり、多くの場合、それは、霊的な災厄へとつながります。
あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ一・二十七)
私たちは、天におられるキリストと、信者の中にいるキリスト、その両方について語ることの大切さを感じています。すなわち、客観的な見方と、主観的な見方についてです。真実の適切な釣り合いを保つことは、この上もなく重要です。私たちが抱える問題の非常に多くは、真実のある一側面だけを、不釣り合いなほど誇張するために起こっています。真実を知るのはよいことであり、また、真実の中で喜ぶのもよいことであるとはいえ、真実もやはり、私たちに困難をもたらす可能性があるのです。真実へと進む方向には多くの危険が横たわっており、それは、霊的な真実でも同じです。そして、主の人々の中にも、このような危険に陥ったことのある者が少なからずいます。光がないために苦しむのではなく、適切に整えられ、釣り合いが取れたかたちで光を受け取らなかったがために、彼らは、ひどく苦しんでいるのです。このために、私たちにとって、ものごとを正しい見方で、正しい均衡の中で受け取ることが不可欠となります。ある一面だけに偏り過ぎることによって、霊的な傷を負うことになり、多くの場合、それは、霊的な災厄へとつながります。
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2020年5月3日日曜日
【Daily Open Windows】5月3日
五月三日
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ一・五)
光は透き通っています。光は清らかさです。光とは絶対的な純粋さです。光とは誠実さです。光とは、開かれた人格です。光は何も隠さず、その動作と性質は、何かを隠すことと、あらゆる面で正反対です。そこに隠すべきものは何もなく、全てをあらわにし、すべてが現れます。ことばを換えれば、光は偽ることがありません。何も覆い隠すことを望まず、また、何かを見せかけたり、実際とは違う姿と思わせることもしません。光は、ただひとつだけのものであって、二重のものではなく、光には裏表がありません。そして、光は正しいもの――それが光です!光のあるところには、『暗いところが少しもない』のです。・・・・暗闇には、どれだけの様相と側面があるでしょう!――数えきれないほどの言葉で表されます。十字架を用いて、そのすべてを終わらせるために御霊が来たのですが、そこで、すべては、主イエスという人格の中で終わりへと導かれたのです。それは、十字架の意味を私たちの人生に働かせて、この暗闇の王国に属するすべてのものが取り除かれるように、そして、最後には、私たちからも、暗闇が消え去るようにです。聖霊を持ち、聖霊を受け、聖霊によって満たされることを思うとき、私たちはこのことを本当に思っているでしょうか?ここでもまた、おそらく、自分の考え方を、少しだけ、変えることが求められています。
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ一・五)
光は透き通っています。光は清らかさです。光とは絶対的な純粋さです。光とは誠実さです。光とは、開かれた人格です。光は何も隠さず、その動作と性質は、何かを隠すことと、あらゆる面で正反対です。そこに隠すべきものは何もなく、全てをあらわにし、すべてが現れます。ことばを換えれば、光は偽ることがありません。何も覆い隠すことを望まず、また、何かを見せかけたり、実際とは違う姿と思わせることもしません。光は、ただひとつだけのものであって、二重のものではなく、光には裏表がありません。そして、光は正しいもの――それが光です!光のあるところには、『暗いところが少しもない』のです。・・・・暗闇には、どれだけの様相と側面があるでしょう!――数えきれないほどの言葉で表されます。十字架を用いて、そのすべてを終わらせるために御霊が来たのですが、そこで、すべては、主イエスという人格の中で終わりへと導かれたのです。それは、十字架の意味を私たちの人生に働かせて、この暗闇の王国に属するすべてのものが取り除かれるように、そして、最後には、私たちからも、暗闇が消え去るようにです。聖霊を持ち、聖霊を受け、聖霊によって満たされることを思うとき、私たちはこのことを本当に思っているでしょうか?ここでもまた、おそらく、自分の考え方を、少しだけ、変えることが求められています。
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2020年5月2日土曜日
【Daily Open Windows】5月2日
五月二日
・・・責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ五・二十三)
神は、私たちの意志も、私たちの考えも、私たちの心も、決して取り去ろうとしないことはご存知でしょう。中には、神が現れて、自分がすべき選択を肩代わりしてくれ、また、何を望むべきかを決めてくれ、また、すべての決断を行ってくれることを期待する人もいますが、そのような人たちは、自分を哀れで、神につまみ上げられて、神が望み、神が意図するところに放り込まれるだけの者と考えています。神は決してそのようなことをしません。主は、人間らしさというものを作り上げます。もし私たちが霊だったら、どのように振る舞っていたか、私にはわかりませんし、なにも意識しないで行動するのかもしれません。しかし、そうではありません。神が造られたのは、合理的な心を持った存在です。霊、たましい、からだという三つで一組の要素は、アダムの中にはなく、キリストにあって、初めて現れるものです。神は、キリストの心を作り上げようとしています。主と同じように考え、判断し、理解する心です。そして、主の思いを知るとき、それが自分自身の生まれままの心の思いとはまったく違うことに、私たちは気づきます。そして、生まれたままの心から出てくる思いは、あらゆる面で的外れなもので、完全に断ち切るしかありません。これが、霊的な理解、御霊の思いです。同じことが、私たちの感情、私たちの欲望にも当てはまります。こういったものが、私たちを道に迷わせることもあります。キリストの中には、私たちの心に着せる新しい衣が揃えられていますが、私たちは、主とともに立ち、主から来るもの中にいることが、常に求められています。受身であることが、もっとも大きな害となることもあります。よみがえられたキリストのすべての価値において、そのよみがえりのいのちを受け取らなければならず、これは、考え、心、意思が必要なのと同じくらい、霊、たましい、からだが必要とされるからです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
・・・責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ五・二十三)
神は、私たちの意志も、私たちの考えも、私たちの心も、決して取り去ろうとしないことはご存知でしょう。中には、神が現れて、自分がすべき選択を肩代わりしてくれ、また、何を望むべきかを決めてくれ、また、すべての決断を行ってくれることを期待する人もいますが、そのような人たちは、自分を哀れで、神につまみ上げられて、神が望み、神が意図するところに放り込まれるだけの者と考えています。神は決してそのようなことをしません。主は、人間らしさというものを作り上げます。もし私たちが霊だったら、どのように振る舞っていたか、私にはわかりませんし、なにも意識しないで行動するのかもしれません。しかし、そうではありません。神が造られたのは、合理的な心を持った存在です。霊、たましい、からだという三つで一組の要素は、アダムの中にはなく、キリストにあって、初めて現れるものです。神は、キリストの心を作り上げようとしています。主と同じように考え、判断し、理解する心です。そして、主の思いを知るとき、それが自分自身の生まれままの心の思いとはまったく違うことに、私たちは気づきます。そして、生まれたままの心から出てくる思いは、あらゆる面で的外れなもので、完全に断ち切るしかありません。これが、霊的な理解、御霊の思いです。同じことが、私たちの感情、私たちの欲望にも当てはまります。こういったものが、私たちを道に迷わせることもあります。キリストの中には、私たちの心に着せる新しい衣が揃えられていますが、私たちは、主とともに立ち、主から来るもの中にいることが、常に求められています。受身であることが、もっとも大きな害となることもあります。よみがえられたキリストのすべての価値において、そのよみがえりのいのちを受け取らなければならず、これは、考え、心、意思が必要なのと同じくらい、霊、たましい、からだが必要とされるからです。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
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