六月七日
文字は殺し、御霊は生かすからです。(第二コリント三・六)
どんなことでも、御霊の願いがどこにあるかを知りたいとおもえば、ければ、その方向へと、主のいのちによって突き動かされることから分かります。御霊が望まないものは何かを知りたければ、その方向に向かうとき、あなたの霊に死があること、その方向には、言わば、主のいのちがないことから分かります。そのとおり、これが意味するのは、あなたが主を知っていること、あなたが御霊を知っていること、キリストにあって、いのちの御霊の法の上に生きていくとはどういうことか、あなたが知っていることです。御父は、その法によって主を支配しました。私たちが主に結び付けられて、霊がひとつになるとき、主は、全く同じ法によって私たちを支配します。導き、指示は、御霊にあるいのち、御霊によるいのちが行うことです。主イエス様は、ご自身の生活を、あらゆる細部に至るまで、生かす御霊、すなわち、キリストにあるいのちの御霊による命令、支配、指示、手配にゆだねました。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2020年6月7日日曜日
2020年6月6日土曜日
【Daily Open Windows】6月6日
六月六日
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(ヘブル三・十八)
自分自身がその安息を知らない限り、私たちは、救われていない人たちに、キリストのところに来て安息を見出すように指図する権利などありません。自分自身が安息の中にいるのでなければ、私たちの証しと主への奉仕は、危険にさらされ、弱められ、限定されたものとなり、信用もされません。これこそが、敵の活動の目的です――すなわち、私たちの信用を傷つけるために、主との一致という生まれながらの権利を私たちから奪うのです。その主とは、何があっても、絶対に脅かされることなく、不安を覚えることも、疑いに捕らわれることもなく、全てを支配するただ一人のお方です。お分かりのように、安息とは、この方こそが主であるという私たちの信念から生まれる実践的な働きかけであり、神の民に安息がないことは、支配者としてキリストの地位を傷つけるものです。・・・
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(ヘブル三・十八)
自分自身がその安息を知らない限り、私たちは、救われていない人たちに、キリストのところに来て安息を見出すように指図する権利などありません。自分自身が安息の中にいるのでなければ、私たちの証しと主への奉仕は、危険にさらされ、弱められ、限定されたものとなり、信用もされません。これこそが、敵の活動の目的です――すなわち、私たちの信用を傷つけるために、主との一致という生まれながらの権利を私たちから奪うのです。その主とは、何があっても、絶対に脅かされることなく、不安を覚えることも、疑いに捕らわれることもなく、全てを支配するただ一人のお方です。お分かりのように、安息とは、この方こそが主であるという私たちの信念から生まれる実践的な働きかけであり、神の民に安息がないことは、支配者としてキリストの地位を傷つけるものです。・・・
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2020年6月5日金曜日
【Daily Open Windows】6月5日
六月五日
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ十八・二十)
世界の歴史のこの時代に、神が特別に心にかけていることはなにか、そして、それを踏まえて、主の子供たちである私たちは、いったい何へと召されたのかということを、私たちは明白に理解していなければなりません。この摂理の中で神が行っていることとは、霊的で天的なイスラエルの建設です。これを行う中で、神は古いイスラエルの律法を、霊的なかたちで繰り返しているのです。神は、古いイスラエルに対して御自身がなさった時と同じやり方に沿っているのですが、今は、地上の土台ではなく、天的な土台に則って行われています。神の取られる方法は変わることがあっても、神の原理は、決して変わらないからです。神は、旧約聖書という地上の土台を離れ、新約聖書では天にある土台へと移られました。神は、現世的なことがらから霊的なことに移られたのであり、霊的なものは、現世的なものよりはるかに大きいのです。・・・
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ十八・二十)
世界の歴史のこの時代に、神が特別に心にかけていることはなにか、そして、それを踏まえて、主の子供たちである私たちは、いったい何へと召されたのかということを、私たちは明白に理解していなければなりません。この摂理の中で神が行っていることとは、霊的で天的なイスラエルの建設です。これを行う中で、神は古いイスラエルの律法を、霊的なかたちで繰り返しているのです。神は、古いイスラエルに対して御自身がなさった時と同じやり方に沿っているのですが、今は、地上の土台ではなく、天的な土台に則って行われています。神の取られる方法は変わることがあっても、神の原理は、決して変わらないからです。神は、旧約聖書という地上の土台を離れ、新約聖書では天にある土台へと移られました。神は、現世的なことがらから霊的なことに移られたのであり、霊的なものは、現世的なものよりはるかに大きいのです。・・・
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2020年6月4日木曜日
【Daily Open Windows】6月4日
六月四日
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ四・十九)
主の御名を冒涜すること、そして、主の栄光を取り去ることは、古い創造が、行わずにはいられない習慣であり、いつも進む道筋です。古い創造から来るものが、神なるものの領域に入り込めば、そこで、遅かれ早かれ、起こることは何でしょう?その人は、自分が栄光を受け、神の名誉を貶めます。それは、悲劇的で暗い『教会』の物語ではにでしょうか?すなわち、古い創造の力といのちに生きる人間が、神なるものの中に入り込み、自分の名声を求めるようになるのです。主の教会は、人間がよい評判、地位、影響力といったものを探す絶好の狩場となってきたのです。肉は常に、そのようなことをします。これが、神の栄光を取り去り、神の御名を冒涜するのです。そうならないために、新しい創造が必要であり、そこでは、すべてのものが神から来ているのです。・・・・
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ四・十九)
主の御名を冒涜すること、そして、主の栄光を取り去ることは、古い創造が、行わずにはいられない習慣であり、いつも進む道筋です。古い創造から来るものが、神なるものの領域に入り込めば、そこで、遅かれ早かれ、起こることは何でしょう?その人は、自分が栄光を受け、神の名誉を貶めます。それは、悲劇的で暗い『教会』の物語ではにでしょうか?すなわち、古い創造の力といのちに生きる人間が、神なるものの中に入り込み、自分の名声を求めるようになるのです。主の教会は、人間がよい評判、地位、影響力といったものを探す絶好の狩場となってきたのです。肉は常に、そのようなことをします。これが、神の栄光を取り去り、神の御名を冒涜するのです。そうならないために、新しい創造が必要であり、そこでは、すべてのものが神から来ているのです。・・・・
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2020年6月3日水曜日
【Daily Open Windows】6月3日
六月三日
神のご計画に従って召された人々。(ローマ八・二十八)
選ばれた器は、神なる知恵の道具となり、その知恵は、器自体をも驚かすものです。遅かれ早かれ、選ばれた器の心は、この問いでいっぱいになります、『なぜ、神は私を選んだのだろう?なぜ、主は私をこの働きへと召したのだろう?主は、私以外の誰かを選ぶべきだったのに!私は、このような生き方、このような働きには、全く適していない。』モーセも、確かにそうでした。神がモーセをエジプトに送ろうとしたとき、彼は言いました、『ああ、誰でも、他の人がいるなら、私ではなく、どうかそのものを遣わしてください。』神がエレミヤを選んだ時も、この男は言いました、『私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません』(エレミヤ一・六)。預言者にとって、ただひとつの役割とは語ることなのに、その語るということが自分にはできないと、彼は感じたのです。神に選ばれるというのは、他にはないほど特別なことであり、神が私たちを召すことは、必ずしも、私たちが好むことでもないし、許されるなら避けたかったことかも知れません。
神のご計画に従って召された人々。(ローマ八・二十八)
選ばれた器は、神なる知恵の道具となり、その知恵は、器自体をも驚かすものです。遅かれ早かれ、選ばれた器の心は、この問いでいっぱいになります、『なぜ、神は私を選んだのだろう?なぜ、主は私をこの働きへと召したのだろう?主は、私以外の誰かを選ぶべきだったのに!私は、このような生き方、このような働きには、全く適していない。』モーセも、確かにそうでした。神がモーセをエジプトに送ろうとしたとき、彼は言いました、『ああ、誰でも、他の人がいるなら、私ではなく、どうかそのものを遣わしてください。』神がエレミヤを選んだ時も、この男は言いました、『私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません』(エレミヤ一・六)。預言者にとって、ただひとつの役割とは語ることなのに、その語るということが自分にはできないと、彼は感じたのです。神に選ばれるというのは、他にはないほど特別なことであり、神が私たちを召すことは、必ずしも、私たちが好むことでもないし、許されるなら避けたかったことかも知れません。
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2020年6月2日火曜日
【Daily Open Windows】6月2日
六月二日
あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ一・八)
神の最終的な目的を、もっとも完全に近いかたちで証ししているものであっても、そこから、よかったもの、必要だったもの、神から来たものの多くを切り落として、後から来るものに備え、真に最終的な目的だけが語られるようにしなければなりません。人を捕らえるのは、真実と受け取られているものや、心に取り込まれた教義に対してではありません。それは、啓示に続く経験によって、また、経験に対して示される啓示によって、その存在の一本一本の繊維へと組み込まれます。人に認められている何かの考え方に賛同することではありません。捕らえられることこそが、主に用いられる器が生きる人生であり、そして、器であることがその人の存在そのものであるということです。それは、なりたいとか、なりたくないという問題ではなく、他のもの、囚人以外の何者にもなり得ないのであり、これは、神の支配がそのようにされたのです。
あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ一・八)
神の最終的な目的を、もっとも完全に近いかたちで証ししているものであっても、そこから、よかったもの、必要だったもの、神から来たものの多くを切り落として、後から来るものに備え、真に最終的な目的だけが語られるようにしなければなりません。人を捕らえるのは、真実と受け取られているものや、心に取り込まれた教義に対してではありません。それは、啓示に続く経験によって、また、経験に対して示される啓示によって、その存在の一本一本の繊維へと組み込まれます。人に認められている何かの考え方に賛同することではありません。捕らえられることこそが、主に用いられる器が生きる人生であり、そして、器であることがその人の存在そのものであるということです。それは、なりたいとか、なりたくないという問題ではなく、他のもの、囚人以外の何者にもなり得ないのであり、これは、神の支配がそのようにされたのです。
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2020年6月1日月曜日
【Daily Open Windows】6月1日
六月一日
神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)
私たちは、『神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった』という、この啓示に支えられています。『神は・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた』――ガラテヤ一・十六。私たちは、どのように支えられ、一人で立つものとされて行くのでしょうか?この忍耐はどのようにして、私たちの中に育っていくのでしょう?こうして心の内側で、啓示を通して、主イエス様を知ることによってです。一人で立つようになる人々とは、この知識が、心の内側で生きる啓示となった人たちです。すなわち、『神は、私たちの心を照らしてくださった。』これがひとつの面です。別の面とは、『四方八方から苦しめられ、途方にくれて、迫害され、倒されます・・・が、行きづまることはありません』――第二コリント四・六~十。私たちは、ひどく悩み、苦しめられます・・・・なぜでしょうか?それは、『イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです』――第二コリント四・十一。これこそ、忍耐ではないでしょうか?四方八方から苦しめられますが、窮することはありません!『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました』――詩篇四・一。『苦しめられ』ることの意味はどこにあったのかといえば、それは、神が、このゆとりを与えてくださるためでした。倒されても、見事に立ち上がります。なぜ?何のために?それこそ、『私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神』のゆえであり、だからこそ、あなたがたは、すべてをくぐり抜けて、生きていけるのです。私たちを、最後まで支え続けてくれるものは、心の中への御霊による主イエス様の啓示の他にはありません。それは、内なる主の知識――信条や教義を頭で受け入れることではなく、私たちの存在の中で生きる、力強い現実です。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(第二コリント四・六)
私たちは、『神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった』という、この啓示に支えられています。『神は・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた』――ガラテヤ一・十六。私たちは、どのように支えられ、一人で立つものとされて行くのでしょうか?この忍耐はどのようにして、私たちの中に育っていくのでしょう?こうして心の内側で、啓示を通して、主イエス様を知ることによってです。一人で立つようになる人々とは、この知識が、心の内側で生きる啓示となった人たちです。すなわち、『神は、私たちの心を照らしてくださった。』これがひとつの面です。別の面とは、『四方八方から苦しめられ、途方にくれて、迫害され、倒されます・・・が、行きづまることはありません』――第二コリント四・六~十。私たちは、ひどく悩み、苦しめられます・・・・なぜでしょうか?それは、『イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです』――第二コリント四・十一。これこそ、忍耐ではないでしょうか?四方八方から苦しめられますが、窮することはありません!『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました』――詩篇四・一。『苦しめられ』ることの意味はどこにあったのかといえば、それは、神が、このゆとりを与えてくださるためでした。倒されても、見事に立ち上がります。なぜ?何のために?それこそ、『私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神』のゆえであり、だからこそ、あなたがたは、すべてをくぐり抜けて、生きていけるのです。私たちを、最後まで支え続けてくれるものは、心の中への御霊による主イエス様の啓示の他にはありません。それは、内なる主の知識――信条や教義を頭で受け入れることではなく、私たちの存在の中で生きる、力強い現実です。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
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