2020年11月14日土曜日

【Daily Open Windows】11月14日

十一月十四日

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得(ることができる、という望みがあるからです)。(ピリピ三・八)

人間は、キリスト教と真実について、自分なりの解釈を作り上げ、体系立てた考え方を取り入れてきました。そのため、全てが混乱しきってしまい、ネヘミヤのような明白な判断力を持つものでない限り、何が神から来て、何が神から来ていないのか、まったく分からなくなっています。善良で正直で誠実なキリスト者でありながら、宗教的に、何が神から来て、何が神からではないのかということになると、恐ろしく深い霧の中にいる人たちが大ぜいいます。人間の宗教体系がこの混乱を引き起こしたため、数多くの正直な人たちが、自分たちは神から来たものの中にいると、心底、思い込んでいて、そして、神から来ていない、人間の手で作られたものがあれば、自分はそれを判別できると信じています。『・・・ちりあくたは山をなして』います。

2020年11月13日金曜日

【Daily Open Windows】11月13日

十一月十三日

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(第二コリント三・十六、十七)

何からの自由でしょう?そう、前に話したように、主の方を向いて、心に主のことだけがあれば、聖霊が私たちを自由にします。あなたは今、自由を求めてもがき、奮闘し、戦い、格闘し、祈り、嘆願し、求め、渇望し、主に頼んでいるところでしょうか。それは、非難からの自由、恐怖からの自由、栄光が現れたとき、イスラエルを捕らえて麻痺させていた束縛からの自由です。恐怖から、不安から、恐れから、非難からの自由を求めていますか?自由になるために、何をしていますか?ただひとつ、簡単で直接的な方法があります。主のことだけを思い、主に立ち返ることです。神が満足されたお方としてのキリストを受け止め、自分で神を満足させようと試みるのはやめてください!キリストへの信仰だけを、神は求めています。

2020年11月12日木曜日

【Daily Open Windows】11月12日

十一月十二日

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(第二テモテ四・二)

主の祝福を受けた善良な人たち、主に好意的に見られ、また、主に大いに用いられてきた人たちでさえ、どこかで妥協する心が生まれたら、最後は霊的な悲劇に巻き込まれることがあります。その妥協は、自分で考えた方策の故に生まれたのかもしれません。方策とは、人を誘い込む罠のようなものではないでしょうか!私たちは、あれやこれをして、こんな結果、あんな結果にならないように気をつけなさいと自分に言い聞かせます。これは全て、方策であり、交渉術に過ぎません。『これをしないように気を付けなければ・・・・』――いったい何を?私たちがしないように心掛けることによって、心の全てが表れます。私たちは、人からの敬意、助け、仲間、地位、機会を失うことを怖れているのでしょうか?私たちには、このようなことが、主への絶対的な従順よりも大きな重みを持っているのでしょうか?もしそうなら、私たちの忠実さは二つに分かれています。そして、そのままにしておけば、最後には、恐ろしい悲劇、妥協の後に必ず続く悲劇に陥ることになります。・・・

2020年11月11日水曜日

【Daily Open Windows】11月11日

十一月十一日

知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ九・二十三、二十四)

私たちが、主がしてくださって当然と考えるいろいろなことが、実際には起こらないのはなぜでしょう?ここにあるのは、証拠や証明や求めるたましいの渇望にすぎません。そして、この渇望があるからこそ、キリスト者の働きの中で、何か分かり易く、大きく、目を惹くものが建て上げられたり、また、大がかりな組織が作られ、大きな運動が発足して、外からよく見えるところに集まると、そこに大ぜいのキリスト者たちが群れを成して集まるのです。また、何かの明白な証明と見える壮大なものが現れると、そこにも必ず多くの人が群がってきます。敵は、証明や証拠が求められる世界で、聖霊の働きを模倣することによって、群衆の心を奪うすべを知っています。私たちはあまりにも、外からの影響を受けやすいので、証明や証拠を手に入れずにはいられないのです。これは、世の支配者たちを操っていたのと完全に同じ原理です。彼らは、十字架の原理がこのようなかたちで用いられる備え――自分を空っぽにして、主以外のすべてを断ち切ること――ができていなかったのです。預言者たちが、いつも語っていたことは何だったでしょう?主を知ることでした。預言者たちの時代、主の民に欠けていたのは、主についての知識でした。何かをしてもらうために、主を迎え入れようという気持ちを持った人はたくさんいましたが、主ご自身を受け入れるとなると・・・ああ、これは全く別でした。主は、あなたや私に何を求めておられるのでしょう?主は、私たちが初めに何かを行うことを願っているでしょうか?今日、神から来るものは何かという問題は、まず第一に、主のために行われていること、私たちが携わっている働きといったもの――すなわち、客観的で外面的なもの――と結びつけて考えられます。しかし、主が何よりも関心をもっておられるのは、私たちがどれだけのことをするかではありません。主が、強く気にかけておられるのは、私たちの行いが多いか少ないかとは関係なく、その行いのひとつひとつが、主ご自身の知識から出ているかということです。キリスト者の働きや活動においては、その量が多いか少ないかはどうでもよく、この点では他の仕事と同じですが、その働きがあなた自身の神の深い知識から生まれていないことはあり得ます。主が、他の何にもまして、心にかけておられるのは、私たちが主を知ることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年11月10日火曜日

【Daily Open Windows】11月10日

十一月十日

・・・あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ十二・一)

あなたには、いのちが与えられており、このいのちには、大きな信頼、大きな責任が伴います。このいのちは、自分の野心、自分の関心、この世的な利害や考え方の中にとどまったり、それだけで終わってしまうこともありうるのです。あなたは、自分のいのちを神に渡すことができますか?いのちを神の手にゆだねますか?いのちを祭壇に乗せて、神に完全に捧げ、短刀で裂かれるに任せますか?そうするなら、神はあなたのいのちを何倍にも増やし、神はあなたのいのちを広げ、自分の手にとどめておいた場合に比べて、そのいのちをずっと多く用いてくれます。あなたのいのちには、キリスト者として執着している何かがあって、それは主には渡さないのですか?何のことか、あなたは知っています。それに当たるものはなにか、私が考え得るものを列挙してみて、その中には入っていないでしょう。主のところへ行かせたくない何かが、自分の中にあることも、あなたは知っているはずです。主が指をその上に置かれたのに、あなたは尻込みしています。あなたは何かを言い返し、自分ではとても良い議論をしているつもりでいます。そこに間違いなく正しい論拠があると信じて、その何かにしがみついているのです。その裏にある真実は、あなたにはそれを切り離す覚悟ができていないということです。・・・

2020年11月9日月曜日

【Daily Open Windows】11月9日

十一月九日

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ二・二十九)

十字架は、霊的な割礼の道具として、今の自分の生き方の深いところまで用い、また、これからも一層、深く用いていかなければなりません。そこには終わりがないように見えます。しかし、これは十字架の苦しい側面、暗い面です。別の面では何が起こっているのでしょう?キリストの場所が備えられているということではないでしょうか?本物の種、キリストの種は大きく育っており、これまでよりもはっきりと現れてきています。これまで大切である考えてきた性質――知性や感情や意思の強さ――の反対は柔和さです。主は言われました、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい』(マタイ十一・二十九)。この事実に最後まで従って行けば、主ご自身の存在の奥底に、他の何物とも根本的に違うものがあったことに、あなたも必ず気づくはずです。

2020年11月8日日曜日

【Daily Open Windows】11月8日

十一月八日

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ三・二十八)

この摂理の中で、神は、ユダヤ人はユダヤ人として、異邦人は異邦人として迎えているのではありませんが、多くの人が、そのように誤解しています。主がユダヤ人に向けた言葉は、『あなたは自分のユダヤ人という土台から離れて、ユダヤ人としてではなく人として、神の前に立たなければならず、あなたがそこに立つまで、神から言いたいことは何もない。自分の土台に立ったままで神の前に来ることにこだわっている限り、あなたに光は当てられない。』他のすべての人たちにも、同じことばが投げかけられます。私たちは、自分という土台から、あらゆる意味で離れなければなりません。このことは、属する国のことだけでなく、他のすべての面で当てはまります。あなたは主に、こうに言い返そうとします、『でも、私はあれこれなんです、私はこんな者なのです、』または、『でも、私はあれこれではないのです。』大切なのは、あなたが誰なのかではなく、御子とは誰かと言うことです。主の土台に立ってください。主は、あなたが誰かということに基づいて、あなたを迎えることはしません。それが良い土台でも、悪い土台でも同じことです。主は、『天上にある者』という土台であなたを迎えます。あなたは、『私はあまりに弱い!』と答えるでしょうか。神は、その土台に立ってあなたに接しようとはしません、神は御子という土台の上であなたに会われます。御霊がパウロのこの言葉を通して、語っているのはこのことです、『・・・キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい』(第二テモテ二・一)。神は、『でも、私はこんなに弱いのです、主よ!』という私たちの叫びを聞かれますが、この告白によって、私たちが伝えたいこと、すなわち、『私の弱さの土台まで降りてきて、私を引き上げてください!』と言う願いに目を留めることはありません。『その場所を捨てて、御子のいるところまで来れば、そこで力を見出す。』と、主は言われます。『主よ、私はこんなにも愚かなものです!』主の答えは、『御子のいる場所にたどり着くまで、あなたは愚かなままです。御子は、あなたたちのための神の知恵とされたのです。』