これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。・・・キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。(ヘブル九・八、二十四)
神との交わりとは、このようなでなければなりません。すなわち、集まりに行くことができても、できなくても、私たちには主がいます。たましいに心地よい音楽が聞こえても、聞こえなくても、主がいます。あなたたちは、そのようなものに左右される世界にはいません、『この山でもなく、エルサレムでもない・・・。』煉瓦と漆喰は、霊と語り合うことはできません。人間のたましいは、神とひとつになった霊という乗り物を通して初めて、神と語り合うことができます。これこそ、主の十字架がなしとげたことです。なぜ、十字架が伝える真実が受け入れられないのか、あなたにもこれで、理解できるはずです。・・・・そして、この十字架を述べ伝え、そして、十字架のために立ち上がろうとするなら、それは歴史を通して継承されてきた伝統を完全に断ち切ることになるため、あなたも宿営の外に追いやられてしまいます。しかし、それ以上に恐ろしいことがあります――すなわち、神聖と映る表現、または、典型的な地上の制度を神が拒絶すると、サタンがそれを拾い上げて、うまく利用し始め、また、神が一時的な目的のために地上にもたらしたものを、サタンは、横から捕らえて、神との本当の交わりの性質を覆い隠すために用いてきたのです。
