2021年6月7日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月7日

あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らない。【申命記10:17】

神について考えるときに考慮すべき、もっとも大切な点として、神は決して、いら立つことがありません。人間は、いら立つものであり、それには理由があります。私たちは無限ではありません。しかし、神は、何に対しても、誰に対しても、どんな時も、いら立つ理由はありません。

神がいら立つことがないのは、限りのないお方だからです。無限であるからこそ、神は、常に神で有り続け、決して、変わることがありません。神なるものは、すべてが完全な調和のうちにあります。その全てを、神は永遠の御子に授けてくださいます。

2021年6月4日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月4日

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。【ローマ5:15】

ジョン・バニヤンは自叙伝を書き、その書を『罪人のかしらに恵みが満ちる』と名付けました。バニヤンは、この題が、まさしく自分の人生を現していると思っていました。彼は、神の恵みを受けるのに、自分ほどふさわしくない者はいないと信じていました。実際には、ふさわしい人などいなかったのです。しかし、彼は、自分の罪を深く思い、自分を救い出したのは神の満ちあふれる恵みに他ならないと感じていました。

2021年6月2日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月2日

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。【箴言3:34~35】

誰であろうと、過去に何をしていようとも、すべての人は神の恵みのもとに置かれています。しかし、誰もが神の救いの恵みを経験するわけではなく、ここに、大きな違いがあります。神の恵みはすべての人に及ぶのですが、その恵みが、イエス・キリストへの信仰を通して働くときに初めて、新生が起こります。

すべての人がこの恵みを経験するわけではありません。それでも、神は、ご自身の思いやりで、誰に対しても、悔い改める機会を与えるまで、下されるべき裁きを留め置かれます。

恵みとは、神の優しさです。神の心にある思いやりであり、神の好意であり、心からの愛です。神が、どのようなお方かということを表すものです。

2021年5月30日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月31日

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。【ヘブル4:16】

神の購いは、慎重に練られ、考え抜かれた大昔からの計画に沿って、キリスト・イエスの中に実現されました。

恵みは、キリストが飼い葉桶で生まれたとき、洗礼を受けたときや聖霊を注がれたときに、もたらされたのではありません。主が十字架で死んだとき、死者の中からよみがえったときやみ父の右の座についたときに生じたものでもありません。

2021年5月27日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月27日

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。【出エジプト記15:13】

旧約聖書には、哀れみについての記載が、新訳聖書の四倍もあります。一方、奇妙で驚くべきことに、新約聖書では、旧約に比べて、恵みについて、三倍以上もふれられています。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したと書かれています(ヨハネ1:17を参照)。キリストは、恵みが流れ出る祝福された管ですが、その意味が誤解されることがあります。残念ながら、非常に多くの人が誤解しています。

よい信仰を持った人たちでさえ、ここを誤解しやすいのです。多くの人々が、これを、モーセは律法しか知らず、キリストは恵みしか知らなかったと言う意味に捉えています。私たちの父たちはそのように教えていないし、清教徒の書物、ジョン・カルビンや有名な信仰復興論者、改革者たちの著作にも、そんなことは書かれていません。

2021年5月25日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月25日

主ご自身がこう言われるのです。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。【ヘブル13:5】

世の中には、心を慰め、気持ちを和らげるための心理療法や治療がいろいろとあります。辛い思いをしている人を慰めようと試みることは何も悪くありませんが、それが行き過ぎることがあるのです。

私は、人間の立場から慰められたいとは思いません。心の中にある、不義を誰にも軽々しく扱って欲しくないのです。神の前に自分が砕かれるままにすれば、その砕かれた残骸から、神の力と臨在が生まれます。神の臨在こそ、私が日々、切望するものです。

自分を神のみ前に投げ出すその恐ろしい時間、家族も友人も私を助けることはできません。創造されたのではない存在が私のむき出しの霊に迫るとき、人からの助けは何の役にも立ちません。

2021年5月21日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月21日

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。【エゼキエル14:6】

私が、自分では乗り越えられないもの、頭を垂れて、日々、ざんげの祈りを捧げるものとは、私自身の不義です。

私は、自分が生まれ変わったことは知っています。自分が天国に向かっていることも知っています。イエス・キリストが、私の多くの罪のために十字架で死なれたことも知っています。

私の心の奥深く、自分の不義に苛立つ気持ちがあります。この聖なるお方をよりよく知るほど、私の不義は恐ろしいものになってゆきます。私が自分自身を、神が見るように見つめ、そして、主の目、その聖なる目を通して私自分を見始めるとき、私は、自分の不義を、神が感じているのと同じように感じるようになります。