2021年7月10日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月10日

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。【ヘブル12:17】

平均的なキリスト者は、ある真実について聞いたら、その真理は自分のものになったと考えます。霊性は、学問とは違います。学問では、教科書を読んで、いくつかの事柄を暗記すれば、その科目を習得したことになります。

しかし、霊的な問題は、そうではありません。

耳で聞いたことばが、あなたの霊的な性質の一部分となるような輝きを与えることができるのは、聖霊だけです。真実が私たちの一部分となるように、私たちの心を開こうと、聖霊は望んでいます。

2021年7月3日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月3日

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。【第一ペテロ2:23】

私は心の中でうんざりしています。自分自身のこと、友人たちのこと、また、今日の聖書者たちのことで嫌気が差しているのです。あまりに、自分を中心としたものになっていながら、私たちは、神を讃えることを声高に語り、自慢げに、『これこそ神の栄光だ』などと言っています。

自分が中心になっていることは、どうしたら分かるでしょうか?

2021年6月29日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月29日

しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。【ホセア13:4~5】

神の近くにいたいという願いは、事実、神のようでありたいという願いです。神と同じようになって、完全な交わりができるように――そうして、心と神が、神聖な交わりの中でひとつになれるようにという、贖い出された心の願望なのです。

人が神と似ているところがあるからこそ、神と子どもたちの交わりが、互いを結びつけ、うまくゆくのであり、生まれ変わった子どもたちの中で、もっとも貧しく弱いものであっても同じです。しかし、全く似ていない部分もあり、その違いのゆえに、あるべき交わりが持てないのです。

2021年6月27日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】 6月27日

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。【詩篇31:1~2】

ほとんどのキリスト者は、神学的なキリスト者です。彼らは、自分が救われていることを知っています。誰かがどこかで、彼らに教会名の入った新約聖書を手渡したのですが、神学を正しく理解させるためにそうするのは、悪いことではありません。問題は、彼らが神の存在を感じることなしに、幸せになろうと試みていることです。神の近くにいたい、神が自分の近くにいて欲しいというこの切実な願いは、神の民ならば誰でももっているものです。祈り、歌、賛美の中にも表れています。

2021年6月22日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月22日

私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。【詩篇18:6】

私たちが大いによろこぶべき、聖書の偉大な真理のひとつは、今日、新生したばかりの新しい改宗者であっても、いく分かは神の高潔さに近づいており、それによって、ある程度の一致が与えられているということです。天国とは、全てが完全に一致しているところです。罪が、神と罪人のあいだの不一致をもたらしたのです。

2021年6月20日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月20日

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。【ヘブル10:12~14】

義認とは、罪人を正しい者と宣告することですが、これはその人の外で行われます。義とされても、その義認がその人に起こった全てであれば、それだけで終わりです。義認は、本来、司法の場で行われるものです。誰かが法廷に立って、ある犯罪と関わりがない――無罪であると宣告されても、それで、その人の内面が変わるわけではありません。その人の体重は、前と完全に同じだし、背の高さも変わりなく、髪や目の色も変わってはいません。人間関係も前と違うところはなく、全ての面で、以前と同じ人間です。ただひとつ違うのは、この人は司法的に自由であり、法の前に無罪であると宣告されたことです。

自分が無罪と宣告されたら、誰でもその事実をよろこぶでしょう。しかし、宣告をしたのは、本人ではありません。この宣告は、陪審員の頭の中で、法律に則って行われたものです。

2021年6月18日金曜日

エイデン・W・トウザーについて

エイデン・ウィルソン・トウザー(Aiden Wilson Tozer)は、アメリカ人の牧師、説教師、著述家、雑誌編集者で、霊的指導者。1897年4月21日に生まれ、1963年5月12日に死去した。

トウザーは、ペンシルベニア州の小さな農村ラ・ホセの西部で生まれた。十代のころ、オハイオ州アクロンで仕事からの帰り道、彼は路上の説教者の言葉を耳にした、『どうすれば救われるか分からなければ、神にこう頼むだけでよい、主よ、罪人の私を憐れんでください。』家に帰ると、彼は屋根裏部屋に上り、これを実行した。これがきっかけでトウザーは、キリスト教徒に改宗した。

それから5年後の1919年、正式に神学を学んだこともないまま、トウザーは初めて行った教会の牧師になって欲しいという要請を受け入れた。これは、彼の44年に渡る聖職者としての活動の始まりであり、この後、たくさんの教会で牧師として勤めた。初めて、牧師として働いたのはウェスト・バージニア州ナッター・フォートにある道端の小さな教会だった。トウザーは、シカゴのサウスサイド・アライアンス・チャーチでも30年間、牧師として働いた。キリスト者の生き方を観察して、彼は教会が『この世的の』関心と妥協するという危険な道を歩んでいると感じていた。