2019年12月31日火曜日

【Daily Open Windows】前書き


毎日の開いた窓、セオドア・オースティン―スパークスのメッセージからの抜粋集

セオドア・オースティン-スパークス(一八八八~一九七一)は、キリストの知恵、キリストのいのち、そして、キリストの啓示に満ちた、宝の山のようなメッセージを残しました。

この本は、その多くのメッセージから、毎日、少しずつ読んでいただくための短い文章を抜き出して集めたものです。著者自身のことばを借りると、『おそらく、これは天国に向けて開かれた窓のようなものです。正しい窓を開けば、実に多くを見ることができます。実にすばらしいものが見えるし、遠くにあるものまで見通すことができます。とは言え、私が望める最善のことは、この本が窓を開けたこと、そして、その窓を通して外を見たあなたがただひとつの真理を理解することです――すなわち、イエス・キリストは他のあらゆる者に勝っており、私たちが到達した神の摂理は何よりも優れたものであり、そして、私たちが自由に使える得物は、これまで持っていたどんなものよりはるかに優れています!』

2019年12月30日月曜日

セオドア・オースティン-スパークスの生涯と伝道

セオドア・オースティン-スパークスの生涯と伝道
ランス・ランバート

このメッセージは、ランバートさんが、中国語を話す聴衆に向かって、通訳を介して行ったものです。語られた言葉は、一字一句、余さずに記録されています。メッセージは録音ページで聴くこともできます。

ピリピ人への手紙から、数節を読みたいと思います。ピリピの第一章、二十一節から始めます。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。(ピリピ一・二十一~二十四)

続けて、祈りの言葉を持つことにしましょうか。

2019年12月25日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十五日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十五日:イエス

兄弟姉妹の皆さん、説教の代わりに、私の証しをさせてください。私が見てきたこと、この耳が聞いてきたこと、私の心が味わってきたこと――キリストが御父のひとり子であるということの証しです。

世にとっては人間であろうと、私にとって主は神です。神以外の誰にもできないことを、主は私にしてくれました。主は、私の強情な意思を変え、かたくなな心を溶かし、鋼鉄の鎖を断ち切り、真ちゅうの門を開き、そして、鉄の棒を砕きました。主は、私の嘆きを笑いに、私の絶望をよろこびに変えました。主は、私をしっかりと捕えて、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる心を与えてくれました。他の人たちがどう思おうとも、私にとって、主が御父のひとり子であることは間違いありません。御名がほめたたえられますように。恵みに満ちた手を、あらためて証しします。ああ、もし主がいなかったら、私は神の栄光を見ることはなかったでしょう。私は罪であふれていました。主を信じなかった私は、罪を背負ったものでした。主は拒んでいた私を引き寄せ、必死で抗った私を導き続けました。そして、ついに私が、判決を受けた犯人のように、震えながら主の憐れみの座に着けられたとき、主は言われました、『あなたのの多くの罪は赦されています。安心して行きなさい。』

2019年12月24日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十四日:主の栄光を見る

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

『私たちはこの方の栄光を見た。』その栄光が聞こえたとか、預言書で読んだとか、他の誰かの口から聞いたのではなく、この方の栄光を見たと書かれています。これは、最初の弟子たちに与えられたすばらしい特権でした!妬ましく思ったことがないでしょうか?このお方、その中に神が住まれるこの方を見たということ。その哀れみの旅を、同行者としてともに歩いたこと。その雄弁な唇から生き生きと流れ出ることばに耳を傾けたこと。主の目を見つめて、その奥に輝く愛の深さに気づくこと。主の顔を見ること。これらはすべて肉的で、どれも視覚的なことであり、キリスト者とは、視覚に頼って生き、歩くだけのものではなく、もっと崇高な存在です。キリスト者は、信仰によって生きています。そして、今日もなお、信仰によって見えるキリストの姿があります。ですから、主を目で見る特権を持っていないことを不満に思う必要はありません。キリストの姿を目にしたからと言って、実際に見た者たち、弟子たちにさえも、大して良いことはなかったように思われます。五旬節の日に聖霊が降りて初めて、彼らはキリストを知り始め、キリストご自身から聞いたことも、ようやく理解し始めたのです。

2019年12月23日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十三日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十三日:恵みとまことに満ちて

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

ご存知のように、ユダヤ教会の最大の栄光は、神がその中に幕屋を構えたことでした。モーセの天幕ではなく、十二部族の族長たちの様々な館でもなく、神が宿るつつましやかな幕屋がイスラエルの誇りでした。彼らは王を中心として集まり、その中に神が臨在したのです。

この幕屋とは、人間が神と交わるときに入った天幕であり、神が人と交わるときに向かった場所でした。ここで、人と神は、牛や子羊を屠ることを通してお互いと出会い、両者の間には和解がありました。

2019年12月22日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十二日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十二日:恐れることはありません

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:10-14)

神の子よ、あなたはこう言います、『私は今日、とても弱々しく、神のもとに行けない。』恐れてはいけません。ベツレヘムで生まれるお方が、『彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない(イザヤ42:3)』と言われたのです。

2019年12月21日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十一日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十一日:このために生まれた

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

私たちの主イエス・キリストは、ある意味でアダムよりも人間的です。アダムは、人から生まれていません。アダムは、幼少期の危険や弱さで苦しむ必要はなかったのです。アダムは、幼少期の人間のひ弱さを知りませんでした――初めから完全な大人でした。父としてのアダムは、赤ん坊として、子供としての私に共感することはできません。しかし、イエス様はなんと人間らしいことでしょう!主は私たちと同じく飼い葉おけで揺られています。アダムのように人生の途中から生き始めたのではなく、主は幼子の痛みや弱さや無力さを私たちとともに経験し、そして、墓場までも一緒に生きてくださいます。