二月二十九日
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(ヨハネ十五・五、六)
一束の花、バラでも、何の花でもいいのですが、花束を手に取ってみてください。束の中にあるのは、同じ種類の花で、そこには、同じいのちが詰まっています。これは、ただ花がまとめられているだけで、ひとつの体とは言えません!全部が同じに見え、同じ長さだけ生きる花束と、根から生えた植物の違いは、非常に大きなものです。バラの花束と、根の付いた苗木か、低木を手に取り、二つをよく見てましょう。そう、そこには大きな違いがあって、束になった花の方には生命はあっても、その生命は、ただ過ぎ去ってゆくものです。そのいのちが尽きれば、そこで終わりです。その先には何もありません。苗木か、低木をもらえば、それは、成長してゆきます。季節が変わるときに、死の苦しみを通ることはあっても、次の年になれば、元に戻り、より多くの花が咲きます。そして、死んでは生き返るという経験が繰り返され、また、前よりも多くの花をつけ、このすべてが一本の苗木に起こります。これが、からだというもの、有機体というものであり、切り取られた花の束とは違います。そして、これこそが、ただの人の集団、キリスト教徒の群衆、組になってまとまっているだけの集団と、霊的な有機体、すなわち、その場所に表現されたキリストのみからだとの違いです。そして、これこそが、神の願いである主のみからだであって、ただの人の集まりではなく、花束でもありません。しかし、ああ、主の民は、あまりにも切り取られた花束に似ています!確かに、みな同じ種類ではあります。彼らは、キリスト教徒であり、神の子供たちであり、みな、同じ主のいのちを共有していますが、ああ、彼らは、同じ場所に置かれたひとつの有機体として成長し、その中で神も盛んになっていくことはないし、皆が共に死と復活という発作の苦しみを通ることによって、その中で霊的に大きくなってゆくこともありません。・・・
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2020年2月29日土曜日
2020年2月28日金曜日
【Daily Open Windows】2月28日
二月二十八日
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ五十三・十一)
さて、このことについては、預言者イザヤが知っていたより、私たちの方が多くを知っています!主のいのちが激しい苦しみにあるとき、私たちはゲッセマネの園で主とともにいたのであり、また、その激しい苦しみを超えて今も、主とともにいるのです。そのときから、どれだけのものがキリストの種となったでしょうか!愛する友人の皆さん、キリスト者の数はあまりに少なく、私たちは、この世界に住む何十億という人間の中の小さな一握りの集団に過ぎないという気持ちに捕らわれそうになったら――窓を開けてください!黙示録を開いてみてましょう、『だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆・・・その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。』その数はあまりに莫大で、人間のことばでは表現できないほどです――彼らは、てが、主イエス様が味わった激しい苦しみのゆえに集まった人たちです。主はまさしく、ご自分の種を見ているのです!ゲッセマネは、世界の歴史全体を通じて、最も多くの実を結んだ園です――そして、あなたも私も、主の種から生まれたものです!私たちは主の激しい苦しみの中から生まれたのであり、新しいイスラエルとのあいだに結ばれた契約の中にいます。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ五十三・十一)
さて、このことについては、預言者イザヤが知っていたより、私たちの方が多くを知っています!主のいのちが激しい苦しみにあるとき、私たちはゲッセマネの園で主とともにいたのであり、また、その激しい苦しみを超えて今も、主とともにいるのです。そのときから、どれだけのものがキリストの種となったでしょうか!愛する友人の皆さん、キリスト者の数はあまりに少なく、私たちは、この世界に住む何十億という人間の中の小さな一握りの集団に過ぎないという気持ちに捕らわれそうになったら――窓を開けてください!黙示録を開いてみてましょう、『だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆・・・その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。』その数はあまりに莫大で、人間のことばでは表現できないほどです――彼らは、てが、主イエス様が味わった激しい苦しみのゆえに集まった人たちです。主はまさしく、ご自分の種を見ているのです!ゲッセマネは、世界の歴史全体を通じて、最も多くの実を結んだ園です――そして、あなたも私も、主の種から生まれたものです!私たちは主の激しい苦しみの中から生まれたのであり、新しいイスラエルとのあいだに結ばれた契約の中にいます。
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2020年2月27日木曜日
【Daily Open Windows】2月27日
二月二十七日
主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を・・・運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒九・十五)
主は器、ダニエルの器を必要としておられ、その器とは、個人であれ、集団であれ、神ご自身の証しのために、神に向かって自ら進み出る器です。神に必要なのは、証しが途切れた民のために心を痛めるネヘミヤです。神になくてはならないのは、神の心と相容れないものとは、一瞬たりとも妥協しないエズラです。神に必要なのは、怖れをものともせずに進み、いのちの危険にひるむこともなく、民の生命を守るため、神の民を敵の脅威から解放するために、王権にすら立ち向かうエステルの器です。ああ!これらの祈りが、どれだけのものを成しとげたでしょう!そして、愛する皆さん、終わりの時の主の働きに用いられる器になろうとするならば、主が抱える重荷が、私たちの心にも等しくのしかからなければなりません。神の助けとなるために、私たちは、非常に深いところまで、用いられなければなりません。主ご自身と主の利益の助けとなるものであれば、なにごとも、ためらってはいけません。主に機会を与えたら、どれだけのことを成し遂げてくださるか、あなたも大いに驚かれるでしょう。
主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を・・・運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒九・十五)
主は器、ダニエルの器を必要としておられ、その器とは、個人であれ、集団であれ、神ご自身の証しのために、神に向かって自ら進み出る器です。神に必要なのは、証しが途切れた民のために心を痛めるネヘミヤです。神になくてはならないのは、神の心と相容れないものとは、一瞬たりとも妥協しないエズラです。神に必要なのは、怖れをものともせずに進み、いのちの危険にひるむこともなく、民の生命を守るため、神の民を敵の脅威から解放するために、王権にすら立ち向かうエステルの器です。ああ!これらの祈りが、どれだけのものを成しとげたでしょう!そして、愛する皆さん、終わりの時の主の働きに用いられる器になろうとするならば、主が抱える重荷が、私たちの心にも等しくのしかからなければなりません。神の助けとなるために、私たちは、非常に深いところまで、用いられなければなりません。主ご自身と主の利益の助けとなるものであれば、なにごとも、ためらってはいけません。主に機会を与えたら、どれだけのことを成し遂げてくださるか、あなたも大いに驚かれるでしょう。
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2020年2月26日水曜日
【Daily Open Windows】2月26日
二月二十六日
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(第一テモテ二・五)
全てに対する神の答え、全てのことの神の説明、そして、全てを実現する神の手段とは、このただひとりの人、『人としてのキリスト・イエス』です。この世界が悪に向かう道に進んだとき、私たちの住まうこの地上は、このお方の中で裁かれることになります。人間は、このただ一人のお方との内なる関係がどのようなものであるかに応じて裁かれるます。裁きの場で問われるのは、裁かれる人の中に、どれだけ良いもの、悪いものがあるか、正しいものと曲がったものが、どれだけ多いか少ないかということではなく、問いはただ、この一点に向けられます、『あなたはキリストの中にいますか?』そうでなければ、何が多く、何が少なくても、何の意味もありません。神の意図、神からの宣告とは、すべてが、神の御子の中にあるということです。あなたは主の中にいますか?なぜ、そうではないのですか?判断の基準は極めて単純です。それは全て、このただ一人のお方、私たちのために、この神の人の中にあるものに集約されるのです。これが、判断の基準です。それはすべて、非常に単純でありながら、全てを包み込む、祝福された真実へと帰着します。すなわち、それは、神を喜ばせるもの、神の目的に至るもの、そして、私たちの全ての必要を満たすものとは、キリストのあり方、そのものであるという真実です。全てが、『人としてのキリスト・イエス』という、このただ一人のお方にまとめられるのです。主は私たちの目を、この栄光に満ちた天的なるお方に向かって開き続けます。その方は、また、神なるしもべでもあります。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(第一テモテ二・五)
全てに対する神の答え、全てのことの神の説明、そして、全てを実現する神の手段とは、このただひとりの人、『人としてのキリスト・イエス』です。この世界が悪に向かう道に進んだとき、私たちの住まうこの地上は、このお方の中で裁かれることになります。人間は、このただ一人のお方との内なる関係がどのようなものであるかに応じて裁かれるます。裁きの場で問われるのは、裁かれる人の中に、どれだけ良いもの、悪いものがあるか、正しいものと曲がったものが、どれだけ多いか少ないかということではなく、問いはただ、この一点に向けられます、『あなたはキリストの中にいますか?』そうでなければ、何が多く、何が少なくても、何の意味もありません。神の意図、神からの宣告とは、すべてが、神の御子の中にあるということです。あなたは主の中にいますか?なぜ、そうではないのですか?判断の基準は極めて単純です。それは全て、このただ一人のお方、私たちのために、この神の人の中にあるものに集約されるのです。これが、判断の基準です。それはすべて、非常に単純でありながら、全てを包み込む、祝福された真実へと帰着します。すなわち、それは、神を喜ばせるもの、神の目的に至るもの、そして、私たちの全ての必要を満たすものとは、キリストのあり方、そのものであるという真実です。全てが、『人としてのキリスト・イエス』という、このただ一人のお方にまとめられるのです。主は私たちの目を、この栄光に満ちた天的なるお方に向かって開き続けます。その方は、また、神なるしもべでもあります。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
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2020年2月25日火曜日
【Daily Open Windows】2月25日
二月二十五日
わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。(ヘブル十二・二十六)
地と天において、すべてが揺り動かされようとしており、その目的は、キリストを信じるものがそこにどれだけ生きているかを確かめることです。ユダヤ教徒たちの目の前では、宮、そして、宮という制度の全体が崩れ去ろうとしていたのであり、その後で、彼らは、自分がどれだけのものをキリストから受けていたのか、あるいは、彼らの生活のどれほど多くが、地上のものに縛られていたかに気づくことになります。すべてが消え去ったとき、そこに残されているものが何かが分かります。神はユダヤ教だけではなく、この天的なものをも、揺り動かそうとしています。神は、天と地を揺り動かそうとされており、そして、この揺り動かしによって、自分たちが置き去ったものが何か、私たちが気付くことになるのは、地上の制度が消えていくとき、キリスト教における天的なものの表現さえもが試されるときになります(ユダヤ教がそうしてきたように、キリスト教も天的なものの表現方法を発展させてきたからです)。人間たちは、新約聖書に啓示された教会、聖職、そして、司祭職のこの世的な表現を作り出しました。この全てが試されることになります。このことが今、多くの者たちに対して、完全に正されようとしています。問題は天と地が揺り動かされることです。私たちに残されるものは何でしょうか?問われているのはキリストです。私たちが述べてきたことを、あなたが好むか、あるいは、それに賛同できるか、否かは、私にはどうでもよいことです。しかし、私にとって大切なのは、私たちはキリストのもとに来たのであり、それは、天におられるキリストが私たちのいのちであり、天におられるキリストが私たちの全てであり、これは、神によってそのように定められたのであって、そして、地上にある何ものもキリストの代わりにはなり得ない示すためであることです。神は本来、キリストがいるべき場所を占めているすべてのものに終わりを来たらせます。神が永遠の昔から定めておられるように、すべてのものにおいて、キリストがすべてを超えた存在でなければならず、すべてのものにキリストが満ちていなければならず、そして、なにものも、主の前に誉れを受けることも、主の代わりとなることもあり得ません。主は、私たちをキリストのより大きな計りへと導かれ、キリストのより大きな計りを私たちの中にもたらしてくれます。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。(ヘブル十二・二十六)
地と天において、すべてが揺り動かされようとしており、その目的は、キリストを信じるものがそこにどれだけ生きているかを確かめることです。ユダヤ教徒たちの目の前では、宮、そして、宮という制度の全体が崩れ去ろうとしていたのであり、その後で、彼らは、自分がどれだけのものをキリストから受けていたのか、あるいは、彼らの生活のどれほど多くが、地上のものに縛られていたかに気づくことになります。すべてが消え去ったとき、そこに残されているものが何かが分かります。神はユダヤ教だけではなく、この天的なものをも、揺り動かそうとしています。神は、天と地を揺り動かそうとされており、そして、この揺り動かしによって、自分たちが置き去ったものが何か、私たちが気付くことになるのは、地上の制度が消えていくとき、キリスト教における天的なものの表現さえもが試されるときになります(ユダヤ教がそうしてきたように、キリスト教も天的なものの表現方法を発展させてきたからです)。人間たちは、新約聖書に啓示された教会、聖職、そして、司祭職のこの世的な表現を作り出しました。この全てが試されることになります。このことが今、多くの者たちに対して、完全に正されようとしています。問題は天と地が揺り動かされることです。私たちに残されるものは何でしょうか?問われているのはキリストです。私たちが述べてきたことを、あなたが好むか、あるいは、それに賛同できるか、否かは、私にはどうでもよいことです。しかし、私にとって大切なのは、私たちはキリストのもとに来たのであり、それは、天におられるキリストが私たちのいのちであり、天におられるキリストが私たちの全てであり、これは、神によってそのように定められたのであって、そして、地上にある何ものもキリストの代わりにはなり得ない示すためであることです。神は本来、キリストがいるべき場所を占めているすべてのものに終わりを来たらせます。神が永遠の昔から定めておられるように、すべてのものにおいて、キリストがすべてを超えた存在でなければならず、すべてのものにキリストが満ちていなければならず、そして、なにものも、主の前に誉れを受けることも、主の代わりとなることもあり得ません。主は、私たちをキリストのより大きな計りへと導かれ、キリストのより大きな計りを私たちの中にもたらしてくれます。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
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2020年2月24日月曜日
【Daily Open Windows】2月24日
二月二十四日
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ三・五)
これまで、神の国に、『自分の意志の力で入った』人は、一人もいません。すなわち、自分の意志で御国に入ろうと決断し、神の国に住まうという覚悟を持った上で、その決意の強さのゆえに、そう決断したとおりに御国に達した人など誰もいないのです。そのようなことは、誰にもできません。このことに関連して、実に多くの過ちが繰り返され、また、完全に誤った考え方が、大勢の人々に植えつけられてきました。これは、この間違った考えに沿った努力が行われてきたためであり、多くの人々が、この誤った考えに沿って、自分自身の理性、自身の感性、そして、自身の意思を働かせるようにうながされ、それによって生まれかわることができるかのように思わされてきたのです。キリスト教にはこのような関心と行動が見られますが、これは御国に入ることとは、何の関係もないはなしです。大勢の善意にあふれた人々が、キリスト教に関心を持ち、キリスト教の活動に参加します。彼らは、キリスト教徒の標準を満たす生活と、キリスト教の教えに大きな価値があると考え、それを実践しさえすれば、世界はまったく違うものになるはずだと信じてきました。そのために、彼らはキリスト教の中で、忙しく動き回るようになり、そうすることで、自分が神の国にいると思い込むようになりました。大きな間違いです!キリスト教だけに心を傾けていながらも、御国の中にはいないこともありえるのです。これこそ、主イエス様が実質的に、ニコデモに少し違う言葉で、もっと簡潔に語ったことでした。御国に入るただひとつの道とは、神が与えるいのちを、イエス・キリストへの信仰を通して、贈り物として受け取ることであり、それが新しい創造の新しい土台、すなわち、その上ですべてが始まり、すべてが成し遂げられる土台、神なるいのちの土台となります。この主にあるいのちは、その中に、新しい創造のすべての質と活力を備えています。このいのちが、神の国と呼ばれる場所に、私たちの存在を作り上げます。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ三・五)
これまで、神の国に、『自分の意志の力で入った』人は、一人もいません。すなわち、自分の意志で御国に入ろうと決断し、神の国に住まうという覚悟を持った上で、その決意の強さのゆえに、そう決断したとおりに御国に達した人など誰もいないのです。そのようなことは、誰にもできません。このことに関連して、実に多くの過ちが繰り返され、また、完全に誤った考え方が、大勢の人々に植えつけられてきました。これは、この間違った考えに沿った努力が行われてきたためであり、多くの人々が、この誤った考えに沿って、自分自身の理性、自身の感性、そして、自身の意思を働かせるようにうながされ、それによって生まれかわることができるかのように思わされてきたのです。キリスト教にはこのような関心と行動が見られますが、これは御国に入ることとは、何の関係もないはなしです。大勢の善意にあふれた人々が、キリスト教に関心を持ち、キリスト教の活動に参加します。彼らは、キリスト教徒の標準を満たす生活と、キリスト教の教えに大きな価値があると考え、それを実践しさえすれば、世界はまったく違うものになるはずだと信じてきました。そのために、彼らはキリスト教の中で、忙しく動き回るようになり、そうすることで、自分が神の国にいると思い込むようになりました。大きな間違いです!キリスト教だけに心を傾けていながらも、御国の中にはいないこともありえるのです。これこそ、主イエス様が実質的に、ニコデモに少し違う言葉で、もっと簡潔に語ったことでした。御国に入るただひとつの道とは、神が与えるいのちを、イエス・キリストへの信仰を通して、贈り物として受け取ることであり、それが新しい創造の新しい土台、すなわち、その上ですべてが始まり、すべてが成し遂げられる土台、神なるいのちの土台となります。この主にあるいのちは、その中に、新しい創造のすべての質と活力を備えています。このいのちが、神の国と呼ばれる場所に、私たちの存在を作り上げます。
Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス
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2020年2月23日日曜日
【Daily Open Windows】2月23日
二月二十三日
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ三・二十八)
本当に、『キリストにある』とき、パウロの言い方を借りれば、私たちは、何千マイル離れていようと、いつでも、一つになっているものとみなされます。主イエス様は、私たちを、この国にいるとか、あの国にいいるとか、また別の国にいるといったふうには見られません。主ご自身がこの宇宙でただ一つの国家であり、だからこそ、私たちは自分の国を離れ、自身の国籍を捨てて、キリストに入るのです。・・・排他的だったユダヤ人たちは、こう言い続けてきました、『私たちだけが本物の民であり、私たちの国がただひとつの国だ。』イエスさまは、この国境線から出て、外の世界にふれられたのです。・・・
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ三・二十八)
本当に、『キリストにある』とき、パウロの言い方を借りれば、私たちは、何千マイル離れていようと、いつでも、一つになっているものとみなされます。主イエス様は、私たちを、この国にいるとか、あの国にいいるとか、また別の国にいるといったふうには見られません。主ご自身がこの宇宙でただ一つの国家であり、だからこそ、私たちは自分の国を離れ、自身の国籍を捨てて、キリストに入るのです。・・・排他的だったユダヤ人たちは、こう言い続けてきました、『私たちだけが本物の民であり、私たちの国がただひとつの国だ。』イエスさまは、この国境線から出て、外の世界にふれられたのです。・・・
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