三月三十一日
永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召されました。(第一テモテ六・十二)
主のよみがえりは、神の力の最上の証明です。主イエス様のよみがえりについては、私から多くを語る必要はないでしょう。主が、あの十字架につけられていたとき、主の死を確かめるために、あらゆる手だてが取られました。主の両手、両足を十字架に釘付けた後、主が死んだことを確認するために、彼らは、主の心臓を槍で突き刺しました。主が十字架から降ろされ、墓に入れられたとき、祭司長が、『番兵たちにしっかり墓の番をさせる』ように命じたので、大きな石を転がして、墓穴をふさぎ、その石には封印がされました。それから、多くの番兵たちにも墓の番をさせました。主が間違いなく死んだと確かめるために、これ以上のことができたでしょうか?そう、人と悪魔にできることは、全て行われました――そして、この全てをこえて、この言葉があるのです、『神はこのイエスをよみがえらせました』(使徒行伝二・三十二)。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2020年3月31日火曜日
2020年3月30日月曜日
【Daily Open Windows】3月30日
三月三十日
子は、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・十九)
これこそが十字架の原理です。主は、自分からは何事も行うことができないという立場を受け入れました。すべては、神から来るのでなければなりません。そうでなければ、何も成しとげることはできません。・・・三十年前、私の人生に革命が起こったのですが、それは、この十字架の原理が私の聖職者としての務めの前に立ちふさがったときでした――それまで、何年にも渡って私が執り行ってきた務めです――この原理は、たくさんの書物を読んで学びながら遅くまで過ごした日々、聖職者としての務めのために積み上げてきながら、いつしか、私自身の中でとても耐えられない重荷となっていたものの前に立ちはだかりました。他の人たちは、おそらく、それを非常に良いことと思ったでしょうが、実は大きな転機でした――男性も、女性も、聖職についている人、また、そうしたいと考えている人は、よく聞いてください――この原理、この十字架の原理を認めるべきときが来たのであり、それは、私が扉を閉めて、主にこう言ったときでした、『聖職者としての務めを、もう私はやりません。あなたが今、何かをしてくださらるのでなければ、私は説教もしません。私は、この務めを何年にも渡って続けてきたし、自分で仕事を整えてきましたが、もう、終わりにします。あなたこそ、それをやるべき方です。』ここで、私はあの原理、すなわち、十字架の原理を認めたのであり、そこではっきりと決断しました。
子は、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・十九)
これこそが十字架の原理です。主は、自分からは何事も行うことができないという立場を受け入れました。すべては、神から来るのでなければなりません。そうでなければ、何も成しとげることはできません。・・・三十年前、私の人生に革命が起こったのですが、それは、この十字架の原理が私の聖職者としての務めの前に立ちふさがったときでした――それまで、何年にも渡って私が執り行ってきた務めです――この原理は、たくさんの書物を読んで学びながら遅くまで過ごした日々、聖職者としての務めのために積み上げてきながら、いつしか、私自身の中でとても耐えられない重荷となっていたものの前に立ちはだかりました。他の人たちは、おそらく、それを非常に良いことと思ったでしょうが、実は大きな転機でした――男性も、女性も、聖職についている人、また、そうしたいと考えている人は、よく聞いてください――この原理、この十字架の原理を認めるべきときが来たのであり、それは、私が扉を閉めて、主にこう言ったときでした、『聖職者としての務めを、もう私はやりません。あなたが今、何かをしてくださらるのでなければ、私は説教もしません。私は、この務めを何年にも渡って続けてきたし、自分で仕事を整えてきましたが、もう、終わりにします。あなたこそ、それをやるべき方です。』ここで、私はあの原理、すなわち、十字架の原理を認めたのであり、そこではっきりと決断しました。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年3月29日日曜日
【Daily Open Windows】3月29日
三月二十九日
あなたがたは、手でさわれる山、燃える火・・・に近づいているのではありません。(ヘブル十二・十八、十九)
あの古い摂理から、新しく導入された摂理への変革はなんと壮大なものでしょう。あなたたちの新約聖書には、福音書の中でキリストが導き入れ、使徒たちへと引き継がれた、ただひとつのことが書かれています。そして、このヘブル人への手紙を見ると、この手紙全体の明白な目的とは、ひとつの摂理から、主にある別の摂理への移行です。ああ、もう一度、読んで、このことを褒め称えてください。ヘブル人への手紙をもう一度、読んでみてください。これを誉れとしてください、『これはすごい、私たちは、なんと言うものの中へと導き入れてもらったのだろう。』幕屋でしょうか?そのとおりだと、手紙の著者は言います。かつて、この地上に幕屋が置かれていた時代もありました・・・・それも、この時で終わりとなりました。著者は続けて言います、この古い幕屋はすっかり消え去り、そして私たちは今、手で作られたのではない本物の幕屋へ、神が作られた天国の幕屋へと入ってきたのだと。これはなんとすばらしい移り変わりではないでしょうか!――ひとつの摂理から、別の摂理へと移動したのです。
あなたがたは、手でさわれる山、燃える火・・・に近づいているのではありません。(ヘブル十二・十八、十九)
あの古い摂理から、新しく導入された摂理への変革はなんと壮大なものでしょう。あなたたちの新約聖書には、福音書の中でキリストが導き入れ、使徒たちへと引き継がれた、ただひとつのことが書かれています。そして、このヘブル人への手紙を見ると、この手紙全体の明白な目的とは、ひとつの摂理から、主にある別の摂理への移行です。ああ、もう一度、読んで、このことを褒め称えてください。ヘブル人への手紙をもう一度、読んでみてください。これを誉れとしてください、『これはすごい、私たちは、なんと言うものの中へと導き入れてもらったのだろう。』幕屋でしょうか?そのとおりだと、手紙の著者は言います。かつて、この地上に幕屋が置かれていた時代もありました・・・・それも、この時で終わりとなりました。著者は続けて言います、この古い幕屋はすっかり消え去り、そして私たちは今、手で作られたのではない本物の幕屋へ、神が作られた天国の幕屋へと入ってきたのだと。これはなんとすばらしい移り変わりではないでしょうか!――ひとつの摂理から、別の摂理へと移動したのです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年3月28日土曜日
【Daily Open Windows】3月28日
三月二十八日
御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十五、十六)
もし、キリスト、神の御子の愛が、信じる者の心の中心であり、最上のものであれば、それ以外のものの多くは屈服していきます。屈服するしかないのです。神と論争しようとするところには分裂が生じますが、人の手で作られたもの、人間の活動から、また、自分自身を神の役に立つものと見なしたり、そう人に思わせることから生じたものは、心の内側に主イエス様の適切な啓示があれば、いずれは消えてゆき、その心の中に留まることはできません。私たちにはふたつの道があります。ひとつは、心の中にイエス・キリストが啓示されて、主に対する情熱を持つようになります。別の道とは、心の中へのキリストの十分な啓示が欠けているため、私たちは、まったく別のことを追求し始め、それこそ主の利益になり、主の役に立つはずだと主張しますが、神の心を喜ばせることは絶対に、決して、ありません。願っているのは、御父の心が満足することです。
御子を私のうちに啓示することをよしとされた。(ガラテヤ一・十五、十六)
もし、キリスト、神の御子の愛が、信じる者の心の中心であり、最上のものであれば、それ以外のものの多くは屈服していきます。屈服するしかないのです。神と論争しようとするところには分裂が生じますが、人の手で作られたもの、人間の活動から、また、自分自身を神の役に立つものと見なしたり、そう人に思わせることから生じたものは、心の内側に主イエス様の適切な啓示があれば、いずれは消えてゆき、その心の中に留まることはできません。私たちにはふたつの道があります。ひとつは、心の中にイエス・キリストが啓示されて、主に対する情熱を持つようになります。別の道とは、心の中へのキリストの十分な啓示が欠けているため、私たちは、まったく別のことを追求し始め、それこそ主の利益になり、主の役に立つはずだと主張しますが、神の心を喜ばせることは絶対に、決して、ありません。願っているのは、御父の心が満足することです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年3月27日金曜日
【Daily Open Windows】3月27日
三月二十七日
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二十五)
キリスト教と呼ばれるものは、本質的には霊的なものであって、この世の秩序とか制度をさすのではなく、そして、その構成要素はひとつひとつが霊的な経路から、主にあるいのちと啓示という道を通って入ってこなければなりません。偽物と、主のいのちは、あらゆる面で完全に違っています。ああ、何かを外から客観的な気持ちで見ることと、主のいのちにあってその中に入ることの違いは、あまりに大きなものです!本物の驚異、栄光、生命力、活力、力が見られるのは、このいのちの中だけです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二十五)
キリスト教と呼ばれるものは、本質的には霊的なものであって、この世の秩序とか制度をさすのではなく、そして、その構成要素はひとつひとつが霊的な経路から、主にあるいのちと啓示という道を通って入ってこなければなりません。偽物と、主のいのちは、あらゆる面で完全に違っています。ああ、何かを外から客観的な気持ちで見ることと、主のいのちにあってその中に入ることの違いは、あまりに大きなものです!本物の驚異、栄光、生命力、活力、力が見られるのは、このいのちの中だけです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年3月26日木曜日
【Daily Open Windows】3月26日
三月二十六日
わたしはまことのぶどうの木です。(ヨハネ十五・一)
まことのぶどうの木は、それが存在するただひとつの目的を果たします。イエス様は、ここで、ぶどうの木を使った説明をご自身と教会との関係に重ね合わせており、主イエス様の性質がどのようなものかは、ここで完全に明らかにされています。主は、すべての人に手を差し伸べ、全世界を受け入れてくれます。主は、あらゆる国の人々に、ご自身の心に入るよう求めています。主は、あらゆる国の人間を心にとめておられるのであって、ひとつの国だけではありません。主は、弟子たちに言われました、『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』(マタイ二十八・十九)と。こうされることこそ、イエス様の本質です。排他的であったり、小さく狭い心を持ち、自分のことしか頭にないという性質は、主の中にはまったくありません。・・・しかし、この事実を客観的に捉えておくことは、非常に良いことです。この性質が、私たち一人ひとりの中に下って来なければなりません。あなたや私の中に、キリストがいることの証拠は何でしょう?キリストが私たちの中にいることは、どうすれば分かるでしょうか?それを知る道はただひとつです――他の人たちが私たちを通じて主のいのちを受け取っていること、私たちが主のいのちを他の人たちに与えていること、飢えた貧しい人たちが私たちと触れ合うとき、主のいのちの感触を感じることです。表現の仕方は、いろいろありますが、結局はこういうことです、『あの男、あの女には、私が持ったことがない何かがあり、それこそ、私が求めているものだ。彼らについて、私には強く感じるところがあり、これこそ、私が本当に必要なものではないか。』一人ひとりのキリスト者がこうでなければならないというのは、私たちの中にキリストがおられて、私たちを通してご自身を拡げ、また、私たちを通してご自身のいのちを与えておられるからこそです。
わたしはまことのぶどうの木です。(ヨハネ十五・一)
まことのぶどうの木は、それが存在するただひとつの目的を果たします。イエス様は、ここで、ぶどうの木を使った説明をご自身と教会との関係に重ね合わせており、主イエス様の性質がどのようなものかは、ここで完全に明らかにされています。主は、すべての人に手を差し伸べ、全世界を受け入れてくれます。主は、あらゆる国の人々に、ご自身の心に入るよう求めています。主は、あらゆる国の人間を心にとめておられるのであって、ひとつの国だけではありません。主は、弟子たちに言われました、『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』(マタイ二十八・十九)と。こうされることこそ、イエス様の本質です。排他的であったり、小さく狭い心を持ち、自分のことしか頭にないという性質は、主の中にはまったくありません。・・・しかし、この事実を客観的に捉えておくことは、非常に良いことです。この性質が、私たち一人ひとりの中に下って来なければなりません。あなたや私の中に、キリストがいることの証拠は何でしょう?キリストが私たちの中にいることは、どうすれば分かるでしょうか?それを知る道はただひとつです――他の人たちが私たちを通じて主のいのちを受け取っていること、私たちが主のいのちを他の人たちに与えていること、飢えた貧しい人たちが私たちと触れ合うとき、主のいのちの感触を感じることです。表現の仕方は、いろいろありますが、結局はこういうことです、『あの男、あの女には、私が持ったことがない何かがあり、それこそ、私が求めているものだ。彼らについて、私には強く感じるところがあり、これこそ、私が本当に必要なものではないか。』一人ひとりのキリスト者がこうでなければならないというのは、私たちの中にキリストがおられて、私たちを通してご自身を拡げ、また、私たちを通してご自身のいのちを与えておられるからこそです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
2020年3月25日水曜日
【Daily Open Windows】3月25日

三月二十五日
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ十五・五)
十字架は語ります、すなわち、この世の秩序は、たとえ、どれだけ宗教的で、正しい動機から生まれ、よい願いから出たものであっても、それが、生まれたままの状態にある人間から発せられたもの(必ずしも、神と対立することであったり、主への反逆を意図していなくても、ありのままの人間の自然の状態から表れたもの)であれば、やはり、その秩序全体は打ち捨てられると、十字架は言います。神は、法に照らし合わせて、このような秩序を裁き、それを禁じました。主イエス様の十字架で、神はこう言い渡しました、『生まれたままの状態にあるあなたがたは、わたしに仕えることはできないし、私の栄光となる実を結ぶこともできない!外に出て行って働き、骨を折ることはできるし、何とか私に仕えようとして、その重圧から死ぬことはあっても、あなた自身のままで、生来の資質によって何かを行う限り、それがわたしのための実を結ぶことはできない。この事実に変わりはない。』神の目的に届き、主のいのち――永遠で神にある天的ないのち――に入ることができるのは、聖霊から生まれ出るものだけです。
Labels:
Daily Open Windows,
オースチン-スパークス
登録:
投稿 (Atom)
