2020年11月30日月曜日

【Daily Open Windows】11月30日

十一月三十日

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ十一・十二)

天の御国とは、人の改心よりも、ずっと大きなものです。もちろん、あなたに救われたいという気持ちがあるなら――初めて、救いを受け入れたいなら――真剣にそれに向かい合わなくてはなりません。これは、必死で取り組むべき問題です。あなたをとどめようとする者が、至るところに現れるからです。しかし、天の御国とは、ただそこに入ることよりずっと大きな何か、回心よりもはるかに大きなものを意味します。私たちの人生に対する神の目的には、私たちが想像して来たことより、ずっと多くのものがあり、私たちがそこに踏み込もうとすれば、激しく攻める力が私たちの特徴となります。私たちは、必死の気持ちで取り組んで、こう言える境地に達しなければなりません、『主よ、私はあなたがキリストにおいて成そうとしている全てに対する備えができています。私には、それを受け入れる決意があり、偏見、疑い、批判がどれだけ強くても、気持ちは変わりません。人間が作ったどのような制度も自分が進む道を妨げません。私は主であるあなたの目的を果たすために、ともに進みます。行く手をふさぐどのような相手も、私は激しく攻めます。』そこには、激しく攻めることが求められます。そして、神が望むことをすべて為すためには、何度も激しく攻めなければなりません。

2020年11月29日日曜日

【Daily Open Windows】11月29日

十一月二十九日

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・十六)

主が祝福し、栄えさせたとき、そこで自分も大きな者になってやろうと思った人が多くいたのではないでしょうか?この動きは必ず大きくなる!私にとっても、大きな機会だ!働きに手をつけると、すぐにそれを、個人的な行動に変えようとする人がいます。歴史の中で、このようなことが行われてきました。神の働きにとって、もっとも危険なのは、祝福の時間です。祝福があるところ、いつも、人々が集まってくるのですが、彼らは、神の目的を見据えているわけではなく、祝福のあるところに個人的な幸福を見ているのです。・・・

2020年11月28日土曜日

【Daily Open Windows】11月28日

十一月二十八日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ九・二十三)

十字架は、それぞれの人となりに合わせて用いられます。私にとって十字架とは何かということが、そのまま、あなたにとっての十字架とはなりませんし、十字架は一人一人に対して、まったく違う何かを意味しているかもしれません。それでいて、十字架とは普遍的なものです。これが大切な点です――中心であり、普遍的です。十字架はそろぞれに異なったかたちで触れ、また、一人一人に独自の疑問と問題を生じさせます。ここが十字架の難しいところであって、あるがままの私たちの姿で、十字架のもとに来て、十字架の働きかけを受け入れることが問われます。誰かのことで、『この人はどうするのがいいだろう?』などと言っても意味はなく、主は直ちに答えられます、『それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』十字架は、私たち一人一人に、個人的に、独自に、更に言えば、私的に働きかけるのであり、霊的な成長のために必要なのはただ、十字架が私たちの中で働きを行うこと、そして、私たちが個人的にそれに応えることです。

2020年11月27日金曜日

【Daily Open Windows】11月27日

十一月二十七日

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。(使徒三・九)

『ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい、』すると、彼はおどり上がった。ことばにすると簡単ですが、その行動は、まことにすべてを完全に一変させるものでした。この男はすぐに、自分に神の栄光が現れたことを知りました。彼は、おどり上がって神を賛美し、その栄光をたたえました。自分の心、自分のたましいに、この気持ちが起こったのです。彼は自分が変わったことを知り、神の安息の中に憩うようになりました。・・・・

2020年11月26日木曜日

【Daily Open Windows】11月26日

十一月二十六日

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ七・十八)

あなたも私も、いつの日か、神と対面することになります。私たちは、永遠の時の中で、文字通り、正面から神と顔を合わせるわけですが、そこで、神が私たちを失望させたことがあっただろうかという疑問が浮かんできます。私たちは、どんな小さなことでも、『主よ、あなたは私を失望させました、御自分のことばに正直ではなかったですね』などと言えるでしょうか?誰であろうと、このような非難を神の扉に投げかけて、神の真実、現実、誠実さに疑念を挟むことなどできません。そのような立場は考えられないことです。聖霊が、私たちをすべての真実に導くための真理の御霊として遣わされたので、主の絶対的な誠実さ、主のご自身に対する真実、そして、みことばのことで、神と私たち自身のあいだに影が射すことなどあり得ません。これが、聖霊が来た目的です。これが真実であれば、聖霊がすべての弟子たちをキリストの学校で訓練し、真実ではないこと、純粋ではないことを全て切り落として、その弟子の一人一人を固い土台の上に立たせ、主の絶対的で完全な正義の日にも、そのまま御前に留まる者としてくれます。しかし、それが現実となるためには、あなたと私は、聖霊の教えの下で、誠実にこの助けを受け入れて、神の前で自分を変えることができ、聖霊が成すすべてを受け入れ、私たちの中には聖霊に抵抗や拒絶するものは何もなく、その一方、人生の中で、手助けと手直しが必要なものに聖霊が指をかけるときは、その大きな変化にも、心を開いて、受け入れる備えができている、そのような境地に到達しなければなりません。聖霊が来ているのはそのためなのです。

2020年11月25日水曜日

【Daily Open Windows】11月25日

十一月二十五日

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、・・・・神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせました。(エペソ一・十八~二十)

復活とは、至上の奇蹟です。死は、神の働き、神の似姿、神の目的に対立するもっとも強い力です。死は、この宇宙で人間に対抗する最大の力であり、人間の働き、人間の希望、人間の幸福に対立するものです。死とは、造られたままの被造物の最後を告げることばです。神の外に、死よりも強い力は、この宇宙にありません。死が入り込み、働きを完了したら、何ものであろうと、それを元に戻し、滅ぼすことはできません。悪が支配する世界では、死を越える力はどこにもありません。だからこそ、キリストの死からのよみがえりを語るとき、『神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか』(エペソ一・十九)ということばが使われます。他のあらゆる悪の力――罪、苦しみ、悲しみ、滅び――を死が超えたとき、神の答えだけが、ただひとつの希望、ただひとつの解決となります。

2020年11月24日火曜日

【Daily Open Windows】11月24日

十一月二十四日

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ一・三、四)

この御言葉で、世界が造られる前から選ばれていた者、イエス・キリストを通して子供として迎え入れられるよう、あらかじめ定められていた者が、天にあるすべての霊的祝福を受けました。これは、ご自身の民への神の豊かな思い、完全で、すべてを包み込む、あふれるばかりの思いです。私たちはまだ、この祝福のすべてを受けるに至っていませんが、それは、神がまだ、与えていないからではなく、私たちがそれを受けるだけ、十分に成長していないからです。私たちは、あらゆる面で、主に達するほどに、成長してはいません。これが、上のみことばの大切な点、すなわち、神の思い、キリストのはかりに達したいと言う強い願いです。