ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。
第4日
祈る時は、偽善者や異邦人たちのようであってはいけません
『私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。』詩篇19:14
主はこう言われています、『また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです』(マタイ6:5~8)。祈りとは、まず何よりも、神の栄光を現すために行う神との交わりです。しかし、この偽善者たちは、神を讃えるべき祈りを利用して、自分を讃えています。そのために、彼らは、会堂や通りの四つ角で祈ることを好むのです。こうするのは、人に見られるためであり、会堂や通りの四つ角は人々が行きかう公共の場所だからです。彼らは神に聞いてもらうために祈るのではなく、人に見られたくて祈るのです。彼らの目的は自分自身が注目を浴びることです。こういった祈りは、あまりに表面的です。神に向かって祈っているとも、神と交わっているともみなすことはできません。この種類の祈りをする動機は、人からの賞賛を受けることにあるので、神とは全く結び付いておらず、そこに神から何かを受け取ることはありません。彼らは、人からの賞賛をほうびとして受け取ってきた者たちであり、やがて来る御国で覚えられることはありません。
では、どのように祈るべきでしょうか?主のことばは続きます、『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』ここで『奥まった部屋』という言葉は、象徴的に使われています。『会堂』や『通りの四つ角』という言葉が、人目にさらされる場所の典型として使われているように、『奥まった部屋』とは人目にふれない場所を象徴しています。兄弟姉妹の皆さん、実は通りの四つ角や会堂にいても、また、大通り(高速道路)や自動車の中にいる時でさえ、奥まった部屋を見出すことはできるのです。何故でしょう?それは、あなたが隠れて神と交わりを持つところ、人には見えないように祈りをするところなら、どこでも奥まった部屋だからです。『自分の奥まった部屋にはいり、戸をしめて、』とは、この世のものを締め出して、自分の中に閉じこもることを意味しています。言葉を変えれば、外のすべての声に耳をふさぎ、静かに、そして、ひとりだけで(純粋に)神に祈ることです。
『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』この御言葉は、大きな慰めではありませんか!隠れた所におられる父に祈るためには、信仰が求められます。外に現れるものを何も感じなくても、あなたは自分が内に隠れた父に祈っていることを信じています。神は隠れた場所、人の目には見えないところではあっても、間違いなくそこにおられます。神は決して、あなたの祈りをさげすむことなく、祈るところを見ておられます。神がどれだけ、あなたの祈りを心に止めているか、ここに示されています。神は見ておられるだけではなく、あなたに報いようとさえしています。この言葉を信じられますか?
主が、『報いる』と言われる時、主は報いてくださいます。主はここにおられ、あなたの隠れた祈りが無駄にならないと保証してくれます。本当に祈るなら、主は必ずあなたに報いてくださいます。今日は何の報いもないように思えたとしても、あなたが褒賞を得る日が来るはずです。兄弟姉妹たちよ、隠れたところでするあなたの祈りは、隠れた所におられる父の厳しい目に耐えることができますか?隠れたところにおられる父が、あなたに報いてくださると信じていますか?
主は私たちに、人前に現われないように教えるだけでなく、こう、諭してくれます、『祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』ギリシャ語で、『同じことばをただくり返す』とは、吃音者が話すときのように、繰り返し、単調に言葉を出し続けることを意味しています。祈るとき、異邦人は同じ言葉を単調に繰り返します。このような祈りは、何の意味もない、ただの音にすぎません。彼らの横に立って祈りを聞けば、流れる川のほとりで、岩に打ち付ける水の音を聞き続けるか、小石を敷きつめた道端で、通り過ぎる車輪の回る音をいつまでも聞いているような気持ちになるでしょう。異邦人たちは、同じ言葉を何度となく唄いあげます。彼らは、多くの言葉を出せば、それだけ聞いてもらえると思っています。しかし、そのような祈りはむなしく、効果がありません。私たちは、そのように祈ってはいけません。
ですから、祈り会の中で捧げる祈りの言葉も、意味のないものとならないようにしましょう。誰かが祈っても、アーメンを言わないと、相手はあなたの心がひとつになっていないと、非難するでしょう。しかし、あなたが祈りにアーメンを唱えると、相手はその言葉を繰り返して使います。この人の祈りは、求める心の大きさではなく、聞く人がどれだけ賛同してくれるか、その度合いに影響されています。この人が祈るのは、心の重荷を吐き出すためではなく、自分の発言を全部、聞いて欲しいからです。その多くは人に影響された祈りであり、多くはまったく心のない声にすぎません。もう一度言いますが、そのような祈りは、岩に打ち付ける水音や、砂利道の上を途切れることなく行きかう車輪の音のようなものです。その祈りは、ただの音に過ぎず、意味はありません。私たちはそのように祈るべきではありません。
『だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。』祈りが神に聞かれるかどうかは、主の前における態度に加えて、私たちが本当に必要なものによって決まると、この節は示しています。言葉が多いか、少ないかは、まったく関係がありません。祈っているものが、私たちにとって本当に必要でなければ、どれだけ多くを言葉に出そうと、祈りは答えられることはありません。必要もないのに望むことは、貪欲さの現われであり、間違った願いです。神は進んで、必要なものをすべて与えてくれますが、人の利己的な欲望を満たすことは望んでいません。神は必要なものをすべてご存知だから、自分で祈らなくてもよいなどという人がいますが、まったく愚かなことです。祈る目的とは、私たちの信頼、私たちの信仰、私たちの期待、そして、私たちの心の願いを、神に知らせることではなく、言葉に表すことにあるからです。このためにこそ、祈るべきなのです。それでも、祈る中で、私たちの心の願いは唇から出る言葉よりも多く、信仰は言葉より強くあるべきです。
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