T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964
会合1 - 神の道は、私たちの道と異なる
Meeting 1 - God's Ways Are Different From Our Ways
第1回会合
(1964年1月30日午後)
始めに妻が今、言ったことを繰り返さずにいられません。あなた方とまた、ここで会えたのはなんという喜びでしょう!過去2回の訪問で共に過ごしたすばらしい時間は、楽しかった思い出として、今も心に残っています。敬愛する皆さま、私たちをまた、これほど暖かく迎えてくださったことに、感謝したいと思います。マニラはいつも暖かく私たちを迎えてくれます。そして、どうしても言いたいのですが、たった二日前、冷たい雨の降るロンドンを発って飛行機に乗ったとき、私たちは真冬用の衣類を身に着けていました。マニラに着いた時、あらゆる意味で、とても温かい歓迎を受けました。昨日、空港で飛行機から窓の外を見て、幸せそうな顔の一団を見つけ、幸せな声を聴き、幸せな手を握りしめた時に受けた歓迎の方が、この土地の熱気より、ずっと暖かなものです。この暖かい歓迎を本当にどれだけ感謝しているか、理解してもらうためには、私たちと同じ経験するしかないでしょう。これが私からあなたたちに言いたい第一のことです。私たちがここを離れるとき、あなたたちが少しも冷たくなっていないと言いのですが。
ここで、私たちがどのようにして、また、何故、ここまで来たのかについて、少し話させてください。この2年近い間、私は、マニラに来て欲しいと言う、実に多くの熱心な手紙を受け取りました。その間、私たちを招く声は強くなってゆくばかりでした。あなたたちはおそらく、私たちが何故、二年近くも待ったのか、不思議に思っているでしょう。これを説明しておくのは大切なことで、これからしばらくの時を一緒に過ごすにあたって、どうしても話しておかなければいけません。こんなに遅くなってしまったのは、あなたたちに会いたくなかったからでも、あなたたちを助けに来るのが億劫だったからでもありません。しかし、愛する皆さま、ご存知のように私たちは皆イエス・キリストの囚人なのです。行きたいところに好き勝手に行くことはできません。自分で思い立った時に、行動を起こせるわけでもありません。イエス様を、『主』としたとき、私たちはイエス様を、自分たちが行うすべての行動の『主』、私たちの全ての時間をつかさどる『主』と定めたのであります。使徒パウロがある方角に向かおうと試みたことが2回あったことを思い出してください。彼は、ビテニヤに行くのはよいことに違いないと思いました。ビテニヤでは真摯に求めている人たちがいて、パウロに来て欲しいと強く願っていたのですが、彼は、イエスの御霊がそれをお許しにならないと、言ったのです(使徒16:7)。彼はアジヤについても、同じように感じていました。パウロはアジヤに続く方角に足を踏み出そうとしましたし、世界の中でアジヤは、もっとも助けを必要としている場所でした。アジヤの教会は7つになろうとしていて、黙示録の中にその教会に宛てた手紙があります。しかしその時、彼はアジヤの教会で言葉を伝えることを許されませんでした。欲求の大きさが、何かを決めるわけではないのです。人が何かをすべきだと感じる時が、それを行うべき時なのではありません。それを行うのはよいことだと、私たちが考える時でもありません。
主の時はとても大切なものです。主の時から外れたら、すべてがダメになってしまうかもしれません。主は、必要なものを全てご存知です。主は、呼びかけている人の声をすべて聞かれています。しかし、主は言われます、『今はまだその時ではない。私が自分で時を定める。』主はパウロに、なぜビテニヤとアジヤに行けないのか、教えていません。今は行かないよう伝えただけです。主はただ、『いや、今ではない』と言われました。そしてパウロは、イエス・キリストの囚人として、主が動くまで、自分も動けないことを知っていました。主に関わる全てにおいて、これが非常に大切な原理であることを、ご理解いただきたいと思います。どれだけ良いこと、どれだけ正しいことであろうと、また、実際に主が成そうとしていることであっても、それは主の時に行われなければならないのです。さて、もし私が1年か、2年前に来ていたら、大切な何かが2年間、失われたままだったかもしれません。そうなれば、私はこう言って去っていたでしょう、『いや、私たちはまだ、そこに至っていない。』明らかに、まだ、時は来ていなかったのです。しかし、話はそれで終わりではありません。
私たちはここにいます。ついに、ここに来ました。そして、これは熱心に招待を受けたためではなく、主に仕え続けている中で、主が『今がそのときだ』と、言われていると感じたからです。御承知の通り、ある場所から地球の反対側へ旅するともなれば、実に多くのことが必要になりますし、私ほどの高齢ともなれば、一層、おおごとになってきます。私たちはもはや若くはありません。かつては、世界中を旅したものでした。若いころは、それは大したことではありませんでした。しかし、昨今は容易ではありません。私たちは老いています。そのために、主とともに進むことが一層、大切になってきています。そして、主の時が来たことを感じると、それを確信させてくれる様々な兆候が、主から示されるようになりました。細かいことまで逐一話して、あなたがたを困らせるつもりはありませんが、主が妻に何を語ったのか、私も今夜、初めて知りました。もし、彼女が主の言葉を教えてくれても、忘れてしまっていたでしょう。しかし、私は主のところに行って、自分にも言葉をくださるようにお願いしました。私はこう言いました、主よ、今、前に進むためには、あなたが言葉をかけてくださることが必要です。ある朝、聖書を読んでいたときのことです。よく知っている章を読んでいたのですが、それはイザヤの予言の書の52章でした。この章の中に、祈りに対する主の答えがあるとは思ってはいませんでした。しかし、この節まで読み進めたとき、主がこう言われているように感じました、『これがマニラのことであなたに送る言葉だ。』その御言葉とはこれです、『主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:12)
つまり、主はこう言われたのです。私たちが行くところ、主がその先に立っていることを、必ず見出すはずだ、と。私たちは、主が先に進まれていたことを見つけるでしょう。出発するときは、残していくものがたくさんありました。私たちが対処しなければいけないことがいろいろあって、多くの責任を負っていたのです。しかし、御言葉に、こうあります、『イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられる。』主はあなたの前におり、また、主はあなたの後ろにおられます。これよりも良いことなど、望むべくもないと思いませんか。さて、御言葉の力について語るところまで来ました。私たちは日々、目の前に主を見いだすことを願っています。
さて、これからこの場所で過ごす時間のことで、私の心にあるものは何でしょうか?これから、言うことを、ぜひ、しっかりとご理解いただきたい。これを聞いて、がっかりしないでください。私は、主が私をここに遣わされたのは、より多くのことをあなたがたに教えるためだとは思っていません。つまり、私は、自分が神のことばから学んだ知識をあなたたちに伝えるためとか、何かの題目で講演を行うために自分がここにいるとは考えていないのです。他の誰かから、また、書物や人から学んだものではなく、経験から語ることを主は望んでおられると、私は感じています。経験とは大きな価値のあるものです。聖書からすばらしい御言葉を引用してみせる人は大勢います。しかし、経験はそれより、はるかに大切なものです。そして、お分かりのように、私たちは主との長い経験を経てきたのです。
個人的には、私は主の働きに50年をかなり超える年月、身をおいてきました。主の学校では、50年間に及ぶ、とても広く、とても深い霊的な経験がありました。私の人生の中で、主は多くのことを教えようと務めてこられました。主が私に教えてくださることのかなめは、主が土台として働かれる原理です。このことでは、あなたたちに話したいことはたくさんあります。しかし、ここで強調させてください。あなたたちにお伝えしたいのは、理論ではありません。会合で話すために、学んできたことではありません。それは、主の御手の下での実践的な経験から出てくるものです。従って、とても実践的な話となります。
あなた方は確かに、多くの理論を学んでこられたと思います。実にたくさんのことを、習ってこられた。おそらく、あなた方が知っていることに、私が付け加えることなど、多くはないでしょう。しかし、この白髪だらけの頭が何かを物語ってくれます。この頭が、神の学校で深い経験をしてきたことを示していると思います。あなたがたに、伝えなければいけないのは、神が私の中で成されたことです。あなたがたは安楽な暮らしを送ることはできないのです、愛する皆さん。あなたたちはこれから、きわめて現実的問題と向かい合うことになります。今、あなたがたが主と真摯に向かい合う気持ちがないなら、これからの会合にも来ないでいただきたい。来られる方は、神と真剣に向かい合う気持ちのある方だと理解しています。
あなたがたは神の目的について、実に多くを教わってきました。あなた方の誰でも、求められれば、自分が神の目的だと思うものを、紙の上にびっしり、書き連ねることができるのではないでしょうか。しかし、神の目的よりも大切なことがひとつあります。それは、神がどのようにご自身の目的を実現されるかということです。神がどのようにして目的を満たされるかを知ることは、何が主の目的なのかを知ることより、大切である言えます。神には、目的地だけではなく、そこに至る道があります。そして、神の目的地を知るのと同じように、神の道を知ることはとても大切です。神の学校で、他の何よりも深く学んだことがひとつあるとすれば、これです。神の道は、私たちの道とまったく異なっています。私たちがなにごとかを、ある方法で行い、それに対して、主がこう言われることがよくあります、『それは私の道ではない。わたしの道は、あなたがたの道と異なる。わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる。私は、自分の行いたいことは自分のやり方でする。』人はこんなふうに言うことはできません、『主が、これこれをやりたいことは間違いない。だから、私はそれをすることにしよう!』主はこう言われます、『ちょっと待ちなさい、私はそれを自分のやり方でやるし、私のやり方は、私の目的と同じくらい大切なものだ。』そして、主は今、私たちが共に、主の道について何かを学ぶこと、神の目的を定める霊的な法を学ぶことを望んでおられると、私は思っています。
最後にあと一言、とくに若い人々に、もちろん、他の人たちにも言わせてください。神の道の学びは、一生続きます。私も全ては知りません。まだ全てを学びきってなどいません。私も、神の道について学ぶべきことが、たくさんあります。主は今も、『いや、そのやり方はいけない』とか、『いや、今はその時ではない』などと言い続けなければいけません。これは、一生かけて学ぶことです。しかし、主は私たちにとても誠実なお方です。本当に主の御手の中にあれば、主はその道を教えてくださいます。イスラエルに向けられたこの言葉をご存知でしょう、『イスラエルには主は自分の働きを示されたが、モーセとアーロンには道を示された。』そしてその道とは、働きよりはるかに、大切なものです。モーセとアーロンは主の栄えあるしもべであり、主は彼らに道を示されました。他の全ての人々に対しては、主は働きのみを示されました。あなたは主の働きを見るだけで満足するのでしょうか?それとも、主の奥義の中にありたいと思いますか?主の奥義は、主を怖れる者とともにあり、主は彼らに道を示されます(詩篇25:14、103:7)。他の人たちには、主の働きしか見えません。
今のこの時代に、主の道を知ることに心を傾けていただくよう、ぜひお願いしたいと思います。それが、本当に何よりも大切なことだからです。今日は、再会のあいさつをし、歓迎していただいたことに感謝し、そして、ロンドンでたくさんの人たちが、『彼の地の友人たちによろしく』と言っていたことをお伝えするだけのつもりでした。しかし、こうしてもっと多くのことを話してしまいました。皆様が、お疲れにならなかったらいいのですが。
【訳注】T・オースティン・スパークスの1964年のメッセージ集、『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』より、第1回の翻訳です。原文は下のリンクで読むことができます。
Meeting 1 - God's Ways Are Different From Our Ways
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964
会合1 - 神の道は、私たちの道と異なる
Meeting 1 - God's Ways Are Different From Our Ways
(1964年1月30日午後)
始めに妻が今、言ったことを繰り返さずにいられません。あなた方とまた、ここで会えたのはなんという喜びでしょう!過去2回の訪問で共に過ごしたすばらしい時間は、楽しかった思い出として、今も心に残っています。敬愛する皆さま、私たちをまた、これほど暖かく迎えてくださったことに、感謝したいと思います。マニラはいつも暖かく私たちを迎えてくれます。そして、どうしても言いたいのですが、たった二日前、冷たい雨の降るロンドンを発って飛行機に乗ったとき、私たちは真冬用の衣類を身に着けていました。マニラに着いた時、あらゆる意味で、とても温かい歓迎を受けました。昨日、空港で飛行機から窓の外を見て、幸せそうな顔の一団を見つけ、幸せな声を聴き、幸せな手を握りしめた時に受けた歓迎の方が、この土地の熱気より、ずっと暖かなものです。この暖かい歓迎を本当にどれだけ感謝しているか、理解してもらうためには、私たちと同じ経験するしかないでしょう。これが私からあなたたちに言いたい第一のことです。私たちがここを離れるとき、あなたたちが少しも冷たくなっていないと言いのですが。
ここで、私たちがどのようにして、また、何故、ここまで来たのかについて、少し話させてください。この2年近い間、私は、マニラに来て欲しいと言う、実に多くの熱心な手紙を受け取りました。その間、私たちを招く声は強くなってゆくばかりでした。あなたたちはおそらく、私たちが何故、二年近くも待ったのか、不思議に思っているでしょう。これを説明しておくのは大切なことで、これからしばらくの時を一緒に過ごすにあたって、どうしても話しておかなければいけません。こんなに遅くなってしまったのは、あなたたちに会いたくなかったからでも、あなたたちを助けに来るのが億劫だったからでもありません。しかし、愛する皆さま、ご存知のように私たちは皆イエス・キリストの囚人なのです。行きたいところに好き勝手に行くことはできません。自分で思い立った時に、行動を起こせるわけでもありません。イエス様を、『主』としたとき、私たちはイエス様を、自分たちが行うすべての行動の『主』、私たちの全ての時間をつかさどる『主』と定めたのであります。使徒パウロがある方角に向かおうと試みたことが2回あったことを思い出してください。彼は、ビテニヤに行くのはよいことに違いないと思いました。ビテニヤでは真摯に求めている人たちがいて、パウロに来て欲しいと強く願っていたのですが、彼は、イエスの御霊がそれをお許しにならないと、言ったのです(使徒16:7)。彼はアジヤについても、同じように感じていました。パウロはアジヤに続く方角に足を踏み出そうとしましたし、世界の中でアジヤは、もっとも助けを必要としている場所でした。アジヤの教会は7つになろうとしていて、黙示録の中にその教会に宛てた手紙があります。しかしその時、彼はアジヤの教会で言葉を伝えることを許されませんでした。欲求の大きさが、何かを決めるわけではないのです。人が何かをすべきだと感じる時が、それを行うべき時なのではありません。それを行うのはよいことだと、私たちが考える時でもありません。
主の時はとても大切なものです。主の時から外れたら、すべてがダメになってしまうかもしれません。主は、必要なものを全てご存知です。主は、呼びかけている人の声をすべて聞かれています。しかし、主は言われます、『今はまだその時ではない。私が自分で時を定める。』主はパウロに、なぜビテニヤとアジヤに行けないのか、教えていません。今は行かないよう伝えただけです。主はただ、『いや、今ではない』と言われました。そしてパウロは、イエス・キリストの囚人として、主が動くまで、自分も動けないことを知っていました。主に関わる全てにおいて、これが非常に大切な原理であることを、ご理解いただきたいと思います。どれだけ良いこと、どれだけ正しいことであろうと、また、実際に主が成そうとしていることであっても、それは主の時に行われなければならないのです。さて、もし私が1年か、2年前に来ていたら、大切な何かが2年間、失われたままだったかもしれません。そうなれば、私はこう言って去っていたでしょう、『いや、私たちはまだ、そこに至っていない。』明らかに、まだ、時は来ていなかったのです。しかし、話はそれで終わりではありません。
私たちはここにいます。ついに、ここに来ました。そして、これは熱心に招待を受けたためではなく、主に仕え続けている中で、主が『今がそのときだ』と、言われていると感じたからです。御承知の通り、ある場所から地球の反対側へ旅するともなれば、実に多くのことが必要になりますし、私ほどの高齢ともなれば、一層、おおごとになってきます。私たちはもはや若くはありません。かつては、世界中を旅したものでした。若いころは、それは大したことではありませんでした。しかし、昨今は容易ではありません。私たちは老いています。そのために、主とともに進むことが一層、大切になってきています。そして、主の時が来たことを感じると、それを確信させてくれる様々な兆候が、主から示されるようになりました。細かいことまで逐一話して、あなたがたを困らせるつもりはありませんが、主が妻に何を語ったのか、私も今夜、初めて知りました。もし、彼女が主の言葉を教えてくれても、忘れてしまっていたでしょう。しかし、私は主のところに行って、自分にも言葉をくださるようにお願いしました。私はこう言いました、主よ、今、前に進むためには、あなたが言葉をかけてくださることが必要です。ある朝、聖書を読んでいたときのことです。よく知っている章を読んでいたのですが、それはイザヤの予言の書の52章でした。この章の中に、祈りに対する主の答えがあるとは思ってはいませんでした。しかし、この節まで読み進めたとき、主がこう言われているように感じました、『これがマニラのことであなたに送る言葉だ。』その御言葉とはこれです、『主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:12)
つまり、主はこう言われたのです。私たちが行くところ、主がその先に立っていることを、必ず見出すはずだ、と。私たちは、主が先に進まれていたことを見つけるでしょう。出発するときは、残していくものがたくさんありました。私たちが対処しなければいけないことがいろいろあって、多くの責任を負っていたのです。しかし、御言葉に、こうあります、『イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられる。』主はあなたの前におり、また、主はあなたの後ろにおられます。これよりも良いことなど、望むべくもないと思いませんか。さて、御言葉の力について語るところまで来ました。私たちは日々、目の前に主を見いだすことを願っています。
さて、これからこの場所で過ごす時間のことで、私の心にあるものは何でしょうか?これから、言うことを、ぜひ、しっかりとご理解いただきたい。これを聞いて、がっかりしないでください。私は、主が私をここに遣わされたのは、より多くのことをあなたがたに教えるためだとは思っていません。つまり、私は、自分が神のことばから学んだ知識をあなたたちに伝えるためとか、何かの題目で講演を行うために自分がここにいるとは考えていないのです。他の誰かから、また、書物や人から学んだものではなく、経験から語ることを主は望んでおられると、私は感じています。経験とは大きな価値のあるものです。聖書からすばらしい御言葉を引用してみせる人は大勢います。しかし、経験はそれより、はるかに大切なものです。そして、お分かりのように、私たちは主との長い経験を経てきたのです。
個人的には、私は主の働きに50年をかなり超える年月、身をおいてきました。主の学校では、50年間に及ぶ、とても広く、とても深い霊的な経験がありました。私の人生の中で、主は多くのことを教えようと務めてこられました。主が私に教えてくださることのかなめは、主が土台として働かれる原理です。このことでは、あなたたちに話したいことはたくさんあります。しかし、ここで強調させてください。あなたたちにお伝えしたいのは、理論ではありません。会合で話すために、学んできたことではありません。それは、主の御手の下での実践的な経験から出てくるものです。従って、とても実践的な話となります。
あなた方は確かに、多くの理論を学んでこられたと思います。実にたくさんのことを、習ってこられた。おそらく、あなた方が知っていることに、私が付け加えることなど、多くはないでしょう。しかし、この白髪だらけの頭が何かを物語ってくれます。この頭が、神の学校で深い経験をしてきたことを示していると思います。あなたがたに、伝えなければいけないのは、神が私の中で成されたことです。あなたがたは安楽な暮らしを送ることはできないのです、愛する皆さん。あなたたちはこれから、きわめて現実的問題と向かい合うことになります。今、あなたがたが主と真摯に向かい合う気持ちがないなら、これからの会合にも来ないでいただきたい。来られる方は、神と真剣に向かい合う気持ちのある方だと理解しています。
あなたがたは神の目的について、実に多くを教わってきました。あなた方の誰でも、求められれば、自分が神の目的だと思うものを、紙の上にびっしり、書き連ねることができるのではないでしょうか。しかし、神の目的よりも大切なことがひとつあります。それは、神がどのようにご自身の目的を実現されるかということです。神がどのようにして目的を満たされるかを知ることは、何が主の目的なのかを知ることより、大切である言えます。神には、目的地だけではなく、そこに至る道があります。そして、神の目的地を知るのと同じように、神の道を知ることはとても大切です。神の学校で、他の何よりも深く学んだことがひとつあるとすれば、これです。神の道は、私たちの道とまったく異なっています。私たちがなにごとかを、ある方法で行い、それに対して、主がこう言われることがよくあります、『それは私の道ではない。わたしの道は、あなたがたの道と異なる。わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる。私は、自分の行いたいことは自分のやり方でする。』人はこんなふうに言うことはできません、『主が、これこれをやりたいことは間違いない。だから、私はそれをすることにしよう!』主はこう言われます、『ちょっと待ちなさい、私はそれを自分のやり方でやるし、私のやり方は、私の目的と同じくらい大切なものだ。』そして、主は今、私たちが共に、主の道について何かを学ぶこと、神の目的を定める霊的な法を学ぶことを望んでおられると、私は思っています。
最後にあと一言、とくに若い人々に、もちろん、他の人たちにも言わせてください。神の道の学びは、一生続きます。私も全ては知りません。まだ全てを学びきってなどいません。私も、神の道について学ぶべきことが、たくさんあります。主は今も、『いや、そのやり方はいけない』とか、『いや、今はその時ではない』などと言い続けなければいけません。これは、一生かけて学ぶことです。しかし、主は私たちにとても誠実なお方です。本当に主の御手の中にあれば、主はその道を教えてくださいます。イスラエルに向けられたこの言葉をご存知でしょう、『イスラエルには主は自分の働きを示されたが、モーセとアーロンには道を示された。』そしてその道とは、働きよりはるかに、大切なものです。モーセとアーロンは主の栄えあるしもべであり、主は彼らに道を示されました。他の全ての人々に対しては、主は働きのみを示されました。あなたは主の働きを見るだけで満足するのでしょうか?それとも、主の奥義の中にありたいと思いますか?主の奥義は、主を怖れる者とともにあり、主は彼らに道を示されます(詩篇25:14、103:7)。他の人たちには、主の働きしか見えません。
今のこの時代に、主の道を知ることに心を傾けていただくよう、ぜひお願いしたいと思います。それが、本当に何よりも大切なことだからです。今日は、再会のあいさつをし、歓迎していただいたことに感謝し、そして、ロンドンでたくさんの人たちが、『彼の地の友人たちによろしく』と言っていたことをお伝えするだけのつもりでした。しかし、こうしてもっと多くのことを話してしまいました。皆様が、お疲れにならなかったらいいのですが。
【訳注】T・オースティン・スパークスの1964年のメッセージ集、『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』より、第1回の翻訳です。原文は下のリンクで読むことができます。
Meeting 1 - God's Ways Are Different From Our Ways
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