ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。
第16日
涙とともに祈りなさい
どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇56:8後半)
『私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです』(詩篇39:12)。神の前で涙とともに捧げる祈りは、声を聞いていただく最良の道です。祈りに涙が加われば、そこにはすぐに答えがあります。多くの祈りに、心が欠けているのは、そこに涙がないからです。心があるなら、なぜ、そこに涙を加えないのですか?そうすれば、あなたも、詩篇の作者のように、神にこう語ることができます、『旅人であり、寄留の者にすぎない私は、この地上に長くはいません。この世にいるだけで、十分みじめな者なのですから、私の声をどうか聞いてください。』そうすれば、神は必ず私たちの祈りを聞かれます。それ自体には何の効力もないとは言え、涙は、あなたの心の中にあるものを現します。すなわち、あなたが本当に、心からの願いを持っているということです。ですから、私たちも、祈りにもっと多くの涙を加え、主に聞いてもらえますように。
『引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。』(第二列王記20:5)。なんと、優しい言葉ではありませんか!神は、私たちの涙を見られるのです!ヒゼキヤは、もっと生きたいと神に、涙ながらに祈りました。そして、神は彼に答えました。ここから、主が涙とともに捧げる祈りをどれだけ、喜ばれるかが分かります。そのような祈りは、主の心を動かすのです。こう考えてみると、あなたの心を涙へと突き動かすことができないものは、何であろうと、神の心を動かすことなどありません。だから、私たちは主の前に涙を流すことが求められるのです。人の前で泣くことは弱さの現れであり、そのとき、あなたは人間らしい振る舞い(尊厳)を失っています。しかし、神の前に泣かないのは、あなたが木や石のように心を持っていないことの現れです。
私は、個人的に第二列王記20:5のこの言葉を、いつも心にとめています、『わたしはあなたの涙を見た。』私たちが、困難な状況に直面して、心が砕かれ、耐え難いほど苦しみ、押しつぶされそうになって、出口が見つからないように思える時は、いつでも、頭を上に向けて、数粒の涙を神の前に流せば、それは必ず神の目にとまります。しかし、はっきりさせておくべきは、神の前に流すのでなければ、涙には価値がないことです。この世には、すぐに泣く人がたくさんいるのは確かです。人がただ泣くのは、自分の悲しみや苦しみを表すためで、それ自体は前向きな結果を、何ひとつ生みません。これに対し、祈りとともに流す涙には価値があります。苦しみのあまり、涙を流す時は、いつも、そこに祈りを付け加えてみましょう。祈りを通して、自分の悲しみ、苦しみを神に伝えることができます。聖書には、ヒゼキヤが涙とともに捧げた祈りだけではなく、私たちの主の祈りと願いが、大きな叫び声と涙とをもって捧げられたことも書かれています(ヘブル5:7を参照)。
人がお互いを向いて泣いても、役に立たないことが多いのですが、神に向かって泣くことには意味があります。神は人の涙を見られ、また、人の祈りを聞かれるからです。まさしく、神の前に流された涙の一粒一粒は数えられます、『あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。』(詩篇56:8)神のこれこそが、前で流す涙の価値であると、心に留めてください。ああ、悲しみにあふれた心よ、人生が苦しみに満ちていて、今にも押しつぶされそうになり、惨めさの中で日々を過ごし、多くの問題に直面して疲れ切っているなら、神の御前で泣いてみてください。それが何もならないことなど決してありません。あなたが涙を流すたびに、神はそれを心に留めてくださいます。主は、涙を皮袋にたくわえ、あなたのすべての苦しみを覚えてくださいます。神に感謝しましょう、私たちの涙は、地に落ちて、泥にまみれることは決してなく、むしろ、神の記憶の皮袋に蓄えられるのです。神の記録簿にとどめられない涙などあるでしょか。神は忘れることなく、私たちの涙をいつまでも覚えています。
ひとつ、質問させてください。どのような泣き方がもっとも大きな慰めと満足を与えるか、知っていますか。子供が一番、大きな声で激しく泣くのはどんなときだと思いますか。それは、ぶたれた時でも、お腹が空いた時でもなく、その子が始めて、外で人にからかわれたり、いじめられたりした後で、家に帰って、大好きなお母さんを見たときなのです。その時、子供はとても大きな声で、いつまでも泣き続けます。ああ、愛する誰かの前で泣くことが、最大の慰めとなるものです。知らない人の前で泣いても、何の意味も効き目もありません。では、私たちはどこで、いつ、泣けばいいのでしょう。それは疑いなく、誰よりも私たちのことを気にかけてくださり、私たちが誰よりも愛する神の御前です。私たちを大切にしてくださる、主の前で心から泣き叫びましょう。すべてを聞いてくださり、すべてを見ていてくださる主の前で泣くことが、一番の慰めになります。主は、私たちが求めることをしてくださいます。ああ、神の前で涙を流せば、間違いなく、最良の収穫を手にすることができます。
さらに、マルコ伝9章の父と息子の話を見ながら、涙とともにする祈りの効力を考えてみましょう。『するとすぐに、その子の父は叫んで言った。信じます。不信仰な私をお助けください』(24節)。この時、父親の心は大きな苦しみの中にあり、自らの不信仰にゆえに自分を責めていました。この父親は、自分の子供がひどく苦しむさまを目の当たりにしながら、息子を助けるために何もできませんでした。そして、この父親は、主の弟子たちに助けを求めたのですが、それも役にはたちませんでした。もはや彼は、本当に絶望的な気持ちでした。これほどの苦悩と不安の下で、彼はもはや、主に向かって泣き叫ぶしかなかったのです。その結果は、どうだったでしょう。主は、この父親の祈りを聞かれ、子供は癒されました。多くの祈りに、結果が現れないのは、そこに涙がないという単純な理由のせいであることを、私たちは認める必要があります。
『私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしています。私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています』(第2テモテ1:3-4)。なぜ、パウロはこれほど、テモテに会いたかったのでしょう。テモテが流した涙のためです。聖書の中で主に仕えるものは、泣くことを知っている人ではないでしょうか。ですから、主によく仕えるものは誰でも、涙を流すことと無縁ではいられないのではないかと、私は思います。涙は仕える者には必需品のようです。ですから、涙が祈りに加えられることは、神にとって、それを覚え、聞くために最良であると言えます。
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