ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力
第20日
祈りの三つの側面
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)
私たちの祈りには三つの側面があります。(1)私たち自身、(2)私たちが祈る神、そして、(3)私たちの敵、サタンです。本物の祈りは必ずこの三つの側面、全てに関わっています。祈り始めるときは、まず自分自身の幸せを祈るのは普通のことです。私たちには、必要なものがあり、欲求と望みがあって、そのために祈るのです。人はまず、自分の要求を満たさんがために祈ります。とは言え、本物の祈りの中では、自分の幸せに直接、結びついたことだけを願うべきではなく、神の栄光、天による地上の支配についても、祈らなくてはなりません。祈りが答えられるにあたって、私たち、祈る者は直接的な受益者として、恩恵を受けるのですが、霊的な世界の現実を見ると、主も同じように栄光を受け、そこに、主の御心もなされることが分かります。祈りへの答えは、主御自身にも大きな栄光をもたらしますが、それは、主の子供たちの願いを満たす中で、主の愛と力の並々ならぬ偉大さが現れるからです。それはまた、御心がなされたことの現われでもあります。なぜなら、主は御心に沿っていない祈りに、応えることはないからです。
請願を出すのは私たちであり、その請願を受けるのは神です。価値ある祈りにおいては、この請願を出す者と、請願を受ける者、双方が益を受けます。請願者は心に願うものを受け、請願を受けた方は、その御心が成し遂げられます。私たちはこのことに関しては、悩む必要はまったくありません。少しでも祈った経験がある神の誠実な子供たちなら、誰でも、祈りにおけるこの二つの面の関係を知っているからです。しかし、今の信者たちに覚えていただきたいのは、もし祈りの中で、神と人というこのふたつの面にしか注意を向けていなければ、私たちの祈りはまだ、不完全であると言う事実です。その祈りには大きな効果があるかもしれませんが、それでも、その成功の中には失敗があります。それは、私たちがまだ、祈りの本当の意味を習得していないからです。霊的な信者であれば誰もが、祈りと、神の栄光、御心の間にある絶対的な関係を、知っているはずです。祈りとは、自分の利益のためにのみ行うものではありません。しかし、これを知っているだけでは十分ではありません。第3の側面にも気づかなければなりません。それは、主に向かって祈るとき、私たちが求めることと、神が約束することは、主の敵に、確実に、傷を負わせるということです。
この宇宙の支配者が神であることを、私たちは知っています。それでも、サタンは、『この世を支配する者』(ヨハネ14:30)と呼ばれており、それは、『全世界は悪い者の支配下にある』(第1ヨハネ5:19)からです。このため、この世には二つの真っ向から対立する力があって、それぞれが上に行こうと求めているのを、私たちは見ることになります。最終的な勝利を得るのは、真実にある神です。しかし、千年王国が来る前のこの私たちの時代においては、サタンがこの世の力を奪い続け、神の働き、御心、願いに対抗しようとします。神の子供たちである私たちは、神に属するものです。私たちが神の御手の下で何か得ることは、そのまま、主の敵が何かを失うことを意味します。私たち得るものの大きさは、成される神の御心の大きさです。そして、成される神の御心の大きさは、逆に言えば、サタンが被る損失の大きさでもあります。
神に属している私たちを、サタンはいらだたせ、苦しめ、また、抑え付けようと試み、足がかりを与えまいとします。これがサタンの目的ですが、この目的がかなえられることがないのは、主イエスが流されたかけがえのない血の故に、私たちは恵みの王座に近づいて、神の守りと保護を求めることが許されているからです。神が私たちの祈りを聞くとき、サタンの計画は必ず破られます。私たちの祈りに答える中で、神が、サタンの邪悪な望みを食い止めてくださるので、サタンは自分の思うままに私たちを苦しめることができません。私たちが祈りの中で獲得するものは何であれ、敵の損失となります。ですから、私たちが得るものと主の栄光は、サタンの受ける損失と反比例します。誰かが何かを得る時、他の誰かが何かを失います。誰かが失う時、他の誰かが得ます。このことを考えると、私たちは、祈りの中で、自分の幸福、また、神の栄光や御心だけを思うべきではなく、3番目の側面にも着目しなくてはいけません―それは、私たちの敵であるサタンに関係するものです。この三つの全てを考えに入れていない祈りは表面的で、そこには、大した価値はなく、成し遂げられるものも大きくありません。
それなのに、祈りの中で、この3番目の側面―サタンのこと―を考えに入れているキリスト者は、非常に少ないのです。真の祈りの目的は、個人的に得るものだけではなく(この側面を考えすらしないこともあります)、もっと大切なこととして、神の栄光と敵の損失にもふれるものです。彼らは、自分自身の幸福が、もっとも大切なことであるとは考えません。彼らはむしろ、サタンに損害を与え、神に栄光をもたらすときこそ、自分の祈りが大きな成果を収めたと考えます。彼らが祈りの中で求めるのは、敵の損失です。彼らの視界は、目の前の環境に限定されることはなく、彼らは、神の働きと御心こそ、自分が見渡す全世界であると捕えています。しかし、付け加えておきますが、ここで私は、彼らの考えの中には神とサタンしかなく、祈りの個人的な側面は完全に忘れ去られていると言おうとしているのでありません。実際のところ、神の御心がなされ、サタンが損失を被る時、彼ら自身も利益を受けることには疑問の余地がありません。したがって、祈りの中で何に力を入れているかによって、聖徒の霊的な成長を見極めることができます。
ルカ伝の18章1~8節に収められたたとえ話の中で、主イエスは、ここまでに話してきた祈りの3つの特徴の全てについて触れています。この3つに対応するかたちで、このたとえ話には3人の人が登場することに注意してください。すなわち、(1)裁判官、(2)やもめ、そして、(3)やもめが訴える相手です。裁判官は(悪い意味で)神を表し、やもめは現代の教会、または、信仰を持った個々のキリスト者の代表であり、そして、やもめが訴える相手は私たちの敵である悪魔です。このたとえ話を語るとき、私たちは、裁判官とやもめの関係だけに注目することが多いと思います。神を恐れず、人を人とも思わない裁判官が、ひっきりなしにやってくるこのやもめにうんざりして、結局は裁判をすることにしたのはなぜだろうと、私たちは考え、そして、神は決してこの裁判官のような徳のない者とは全く違うのだから、祈れば主は間違いなく、直ちに報いてくれるはずだという結論に達するのではないでしょうか?確かにこれが、このたとえ話から読み取れることのほとんどすべてではあります。
しかし、このたとえ話には、もう一人の重要な登場人物がいることに気づいていない人は非常に多いのです。考えてみましょう。訴える相手がいなかったら、このやもめは裁判官のところに行く必要があったでしょうか?しかし、彼女は裁判官との面会を求めずにいられなかったのであり、それは、このやもめが相手から不当な扱いを受けてきたためです。特に、やもめが裁判官に語る言葉をじっくり吟味すれば、この物語における、この相手の存在の重要性を必ず理解できるはずです。はなしを簡潔にするために、聖書にはただ次の短い言葉が記されています、『私の相手をさばいてください』―しかし、この短い文の中に、どれだけ多くのことが含まれていることでしょう!ここに、深い苦悩に満ちた状況が現れているのではないでしょうか?相手を裁くよう求めるのは、そこに何らかの不正があることの現われです。この不正と苦しみはどこから来るのでしょう?被告人、すなわち、訴える相手の攻撃に他なりません。そして、ここに、この相手とやもめの間に存在する深い敵意があらわになります。そこには、また、このやもめが、この相手のせいで、ひどく煩わされてきたことも語られています。やもめが裁判官の前で、繰り返し訴えているのは、これまでに受けてきた苦しみと、今の状況であることは間違いありません。彼女が求めているのは、この裁判官が、自分の受けてきた不当な扱いの報いを受けさせるべく、この相手を裁きの座に引き出すことです。
ある意味、裁かれる相手がこのたとえ話の中心人物ともいえます。この相手がいなければ、この裁判官の法的な権威のもとで争いが起こることもなかったし、もちろん、やもめが悩まされることもなかったでしょう。彼女は、平安な生活を送ることができたはずです。この裁かれる相手がいなければ、何の物語もたとえ話も生まれなったことには疑問の余地がありません。すべての問題を引き起こしているのがこの相手だからです。彼こそが、すべての混乱と苦悩を生み出すものです。
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