2017年12月31日日曜日

最後の7つの言葉(作者不詳)

第1の言葉

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)

十字架の上から発せられた最初の言葉は、恐ろしい釘の痛みのことでも、呪われた死の屈辱のことでも、主が受けた不当な裁きへの恨み言でもなく、いのちの主、神のひとり子、罪のない方を十字架にかけた者たちのための祈りでした。まさしく、彼らは、何をしているのか分かっていなかったのです。

第2の言葉

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ23:43)

イエス様は、失われたものを探し、救うために来ました。探し出して救うために、主は全人生を費やしてきました。死を迎えようとする、この最後の時間にさえ、主は、隣の十字架で、『私を思い出してください!』と泣く盗賊の訴えに応えます。イエス様が覚えるのは、この盗賊を十字架から解放することではなく、ずっと大きなこと、すなわち、天国です!まさしく、この日です!盗賊までも、救ってくださるのです。そう、救い主のもとに来るもの全てです。


第3の言葉

女の方。そこに、あなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます(ヨハネ19:26-27)

人と人のあいだの関係は優しいものです。イエス様が母マリアを十字架の下に見たとき、主は母のこれから生活の備えをしました。ヨハネに向き直り、母の世話をするように求めたのです。これは、今日も変わりません。国家間の問題も、為政者たちの考えもすべて主の支配の下にありますが、主の目はこの雀に、そして、あなたが求めるもっとも小さなものに注がれています。

第4の言葉

わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)

死とは別れです。永遠の死とは、永遠に神から切り離されて、恐ろしい地獄に取り残されることです。私たちの身代わりとなられた主が、神に見捨てられて、地獄の苦しみを味わったのは、それによって、私たちが見捨てられないようにするためでした。これは、誰一人耐えたことのない苦しみです。どれだけの肉体と心の痛みも、神から、主御自身の神からの別れと比べれば、消えてしまうほど小さなものです。主を拒むものは、同じ罰を永遠に背負うことになります。

第5の言葉

わたしは渇く(ヨハネ19:28)

苦しみを受けている救い主は、神であると同時に、人間でした。本物の人間だったのです。生まれたとき、主には私たちと等しい人としての性質を与えられたのですが、それは、全ての人類に課せられるべき懲罰が、同じ人間の一人に負わされるためでした。喉の渇きによる耐え難い苦痛は、主の肉体に加えられた苦しみが本物だったことの表れです。神が人間にならなければならないとは、不思議なことです。私たちの罪、咎が主に課せられることも、また不思議です。しかし、私たちは信じ、救われています!

第6の言葉

完了した(ヨハネ19:30)

三位一体の神の御怒りは、主の人生全体を通して、イエス様の上に注がれてきましたが、最後の数時間には、特別に大きなものとなりました。そして、ようやく、この恐ろしい苦しみが終わりました。代価が支払われたのです。人類の救いが成し遂げられました。罪は消し去られています。和解は完了しました。永遠の義が、世界にもたらされました。ハレルヤ!

第7の言葉

父よ。わが霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)

死がイエス様に降りかかったのではありません。救い主が、自らの命を捧げたのです。罪から来る報酬は死であり、罪を担うお方が来られて、私たちと同じいのちを生き、私たちと同じ死を死んだことによって、この報酬は支払われました。大胆に、イエスはこの人類の敵に立ち向かいます。ご自身がこの敵を克服し、三日後によみがえることを知りながら。




『すべて道行く人よ、あなたがたはなんとも思わないのか。』何千人もの人々が、十字架にかけられていたイエス様の傍らを通り過ぎ、主をあざけりました。それ以来、何百万と言う人たちが、主の御言葉を聞きながら、信じることなく、通り過ぎてゆきました。しかし、あなたの救いは、神の御子が、あなたの罪のために、十字架にかけられたからこそ可能となったのです。この7つの御言葉を聴いてください。十字架にかけられ、よみがえった救い主が、あなたの身代わりとして死なれたことを受け入れてください。信じて、生きてください!

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