2018年2月25日日曜日

神前有能[第27日]敵に対抗する祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第27日
敵に対抗する祈り

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

今の私たちの前に最も大切なことは、だれが敵なのかを見極めることです。敵対しているのは誰なのか、私たちに多くの苦しみを与える者が誰なのかを、確実に知ることが必要です。


私たちは、自分の苦しみが人から来ていると思い込むことが、あまりに多くあります。しかし、聖書はこう言っています、『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです』(エペソ6:12)。ですから、人の手から苦しみを受けるときはいつも、肉と血の背後には、サタンとその暗闇の力が潜んでいて、すべてを巧みに操っていることを覚えなければいけません。私たちは霊的な洞察力をもって、神の働きを、すべての後ろにあるサタンのたくらみから識別することが大切です。何が自然のもので、何が超自然のものであるかも、明確に区別すべきです。私たちは、内面的な訓練を積んで、霊的な面での知識をたくわえ、それによって、サタンの隠れた働きがあれば、ひとつも漏らさずに気づくようにならなければなりません。

そうすることで、私たちは、普通ならば偶発的で自然なものと考えてしまう出来事であっても、実は、その背後に敵の働きが隠れていることに気付くのではないでしょうか?サタンが本当に、いたるところで私たちの心を乱し、また、あらゆることで私たちを苦しめようと試みていることがわかるはずです。これまで私たちが、悪魔からこれほどひどく苦しみを受けながら、その苦しみを与えていたのが誰かを知らずにいたのは、何と悲しいことでしょう。さて、今日、もっとも火急に求められている課題のひとつは、悪魔の残虐さに対して憎しみの心を生み出すことです。サタンに対して、あまりに深い憎悪を抱きすぎているのではないかと恐れる必要などありません。敵を倒す力を持とうと思えば、まず、心の中に、悪魔と断固として対抗して、これ以上、悪魔の抑圧の的とは決してならない覚悟を持ち続けなければなりません。これまで、サタンの手の中で受けてきた苦しみは、完全に不当なものであり、報いを受けさせなければならないことを、私たちは理解すべきです。悪魔は私たちを苦しめる権利などないのに、あらゆる手を尽くして、それを行います。これは、許しがたい悪であり、裁かずに捨て置くことなどありえない、不当な苦しみです。

やもめは大きな苦難を味わった後、裁判官のところに来て、裁きを求めました(ルカ18:1~8を参照)。これは、私たちも学ぶべき姿勢です。私たちは、この世の裁判官のところに来て、何とかして欲しいと願い出ることはしません。そうではなく、私たちが頼む裁判官とは、天におられる父なる神に他なりません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではない(第2コリント10:4)のですから、サタンが手にする肉と血の道具に、この世的、また、肉的な手段を用いて対抗することはしません。全く反対に、相手に対して示すべきは、短気や怒り、敵意ですらなく、あわれみの心です。彼らは、サタンに用いられている道具に過ぎないからです。霊的な戦いの中では、肉という武器は全く役に立たないことに気づいてください。この武器は役に立たないだけではなく、この武器を用いるものは誰でも、例外なく、サタンに支配されます。

霊的な武器にはいろいろな種類のものがあり、それは、エペソ書6章に記されています。その武器の中で最も効果があるのは、18節で述べられているように、祈りです。確かに、私たちには十分な力がなく、敵対するものを自分で撃ち返すことはできません。その代わり、私たちは神に祈り、相手に報いを与えるようお願いすることが許されています。祈りとは、私たちの敵に対抗する最も強力な武器となります。祈りを通して、私たちは防御の最前線を無傷のまま守ることができます。また、祈りを通して、私たちは敵を攻撃し、敵の計画、働き、そして、力に大きな損害を与えることもできます。このやもめは、自分だけで相手と戦っても、絶対に勝つことはできないことに気づきました。弱いやもめに過ぎない自分には、これほど強いならず者(悪者)に太刀打ちする力などないことを知っていたからです。同じように、もし、神の子供たちが、自分の力だけに頼って努力し、祈りという手段を通して神の力により頼むことせず、また、敵を責め立てて、自分の正しさを認めてくださるよう、神にお願いすることもしなければ、彼らも、火矢に当たって傷を負います。このたとえ話の中で主イエス様は、私たちに敵に打ち勝つ最善の道を教えてくれますが、それは、昼も夜も、神に祈ること、私たちの敵を裁いて、報いを与えるように主に願うことです。

サタンに対抗して祈るという面で、聖書は、多くの助けを与えてくれます。ここで、聖書から数か所を詳しく見て、そのような祈りをささげていくにはどうすればよいか、学ぶことにします。

創世記3章で、初めて悪魔がよこしまな働きをした後で、神がどのように罰し、呪ったかを思い出してみましょう。この神聖な呪いの中で、神は、悪魔の頭が、主イエスによって十字架で踏み砕かれるだろうと、はっきりと予言しました。この故に、悪魔の手のもとで苦しみを受けるとき、私たちは、こう祈ることによって、悪魔に下された罰を自分のために利用することもできるのです、『ああ、神よ、あらためてサタンを呪い、自分のやりたいようにはできないようにしてください。あなたは、エデンの園で、悪魔を踏み砕きました。ここにあらためて、悪魔をのろい、十字架の力の元に、その動きを止めてくださるようお願いします。』悪魔が、何よりも恐れるものは神ののろいです。神の呪いを受けると、サタンはすぐに、私たちを傷づけようと試みることをやめます。

マルコ伝1章に記録されているように、主イエス様が悪霊を追い出した時、悪霊たちに語ることを許しませんでした。ですから、サタンが人々をあやつって、誤解と暴力に満ちた言葉を吐かせるときは、その口を閉じさせ、サタンが人を通して語ることを許さないように、主にお願いすればよいのです。福音を述べ伝えたり、人々に何かを教えているとき、私たちは、悪魔が聴衆に語りかけて、神の御言葉を疑ったり、反抗する気持ちを起こすことを許さないよう、主にお願いすることもできます。獅子の穴にいる時のダニエルを思い出してください。私たちの祈りは本当に、とても大きな効果があるものです。『ああ、主よ、獅子の口を閉じてください、あなたを信じるものたちを傷つけさせないでください。』

マタイ伝12章は、祈りについて主が語られる、また別の良い言葉を、私たちに与えてくれます、『強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです(29節)。』ここで、主が言われる強い人とはサタンであることを、私たちは知っています。サタンに打ち勝つためには、はじめに縛り上げて、動きを封じなければなりません。私たち自身には、強い人を縛り上げて、働きに抵抗できないように、その自由を奪う力は、もちろんありません。しかし、祈ることはできます。祈りの中で、神にサタンを縛りあげて、力を失わせるよう頼むことはできます。働きを始めるときは、まず始めに、祈りの中でサタンを縛れば、勝利は確かなものになります。私たちはいつもこう祈るべきです、『ああ、主よ、この強い人を縛ってください。』

『神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです(第1ヨハネ3:8)。』悪魔の働きがどこにあるかを見極めたら、次のように祈ることができます、『ああ、神よ、あなたの御子が悪魔の働きを打ち壊すために遣わされました。御子が十字架で悪魔の働きを破壊したことを、あなたにどれだけ感謝しても足りません。しかし、悪魔は今、また、動き始めています。どうか、私たちの中の悪魔の働きを砕いてください。私たちの働きをあやつろうとする悪魔の企てを砕いてください。私たちの住む場所に隠された悪魔の道具を砕いてください。そして、悪魔のすべての働きを砕いてください。』祈るときは、自分たちが今、置かれている状況に沿って祈ることができます。サタンが私たち、家族、職場、学校や国の中で何かを企てていることに気づいたら、神に、その場所で、その働きを砕いてくださいとお願いすることも許されています。

ユダは、御使いのかしらミカエルが、サタンに申し述べた言葉を記しています、『主があなたを戒めてくださるように(9節)。』このことばが述べられた後、サタンはもはや、抵抗しようとはしませんでした。ですから、私たちも、同じ言葉を、祈りの中で悪魔に対して使えばよいだけです。主に敵を戒めてくださるようにお願いしましょう。主がこのような祈りに耳を傾けてくださることを、私たちは覚えておくべきです。戒めてくださいとお願いすれば、主は戒めてくださいます。私たちはまた、主が一度、サタンを戒めたら、この敵は主の戒めを恐れるあまり、その後、対抗する気力を失うことも信じなければなりません。主が風と湖を叱りつけたとき、この風と波は主のいうことを聞き、風はすぐにやみ、湖は静まりました。主がサタンを叱りつけるときも、同じことが起こります。

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