2020年5月10日日曜日

【Daily Open Windows】5月10日

五月十日

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ二・十)

主の十字架には、多くの側面があるとはいえ、完全で完結した原理です。この十字架は、原理として完全であり、完結しています。私たちがこれから学ぶのは、主の十字架は、この完全で最終的に完結した状態のままで、聖書の始まりのときから、ずっとそこにあったことです。そのとき既に、十字架は原理として、絶対的なものでした。私たちは、一日の中のその時々における生活を、十字架にあって、神の満ち満ちたさまへと引き戻すことではじめて、前に向けた歩みと、主のいのちの広がりを知るようになります――これまでになかったほどにです。


主の十字架は、大きな分断点です。十字架は、人間を三種類に分けます。第一に、十字架は、主のいのちに決して入らない人たちと、入る人たちを明白に分離します。男も女も、主のいのちに完全に入るかどうかは、ただ、彼らが主の十字架を受け入れることで決まります。しかし、その先へいくと、さらに細かく分かれます。十字架は、主にあるいのちに入るだけの者たちと、そこから主のいのちの完全さへとまっすぐに向かっていく者たちを分け、そのふたつのあいだは、実にはっきりと分断されることになります。この考え方が好きか、嫌いかにかかわらず、これは事実なのです。主のいのちの途上にいるキリスト者が数多くいます。すなわち、主のいのちに向かう道に入ったものの、そのいのちの完全な状態に向かって進んではいない者たちです。これこそ、新約聖書が書かれた目的です――すなわち、主のいのちに入ったキリスト者たちを、そのいのちの完全さへと向かわせることです。主の十字架は、キリスト者たちをこのように分けるものです。私たちは、十字架によって、主のいのちの道へと入りますが、同時に、主のいのちの完全さに入ることも、十字架のみによるからです。後者は、まったく、別のはなしです――そこでは、より完全で、より深い目的のために十字架が用いられます。すなわち、十字架は人を三種類に分けます。主のいのちにはない者たち、主のいのちにある者たち、そして、主のいのちの中にあって、そのいのちの完全さに向かって進んでいく者たちです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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