2020年9月22日火曜日

【Daily Open Windows】9月22日

九月二十二日

私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。(ネヘミヤ一・六)

愛するみなさん、私たちが何かで世間からの注目を集めて、人々の前で大きな声で主張し始めること、宣伝すること、実演すること、そこに声明、努力、組織を加えて公けの形式を与えること、自分が何か大きな目的に参加すること、あるいは、何かの理念を自分に与えること、そして、その理念の中で何か大きな行動を取ること、こういったことは、確かにあり得ます。そこには、あらゆる種類の要素があっても、主の立場からすれば、本質的に必要不可欠なものが欠けているのです。外からある状況に加えられて、自発的に関わりを持ち、手を染めて、そして、これを生涯をかける仕事、生涯の関心事とするようなこともあるでしょう。しかし、主が私たちの心の中に、密かに、ほとんど負いきれないほど、耐えられないほどの重荷、主ご自身の心の重荷を負わせること、そして、私たちがまずは、神の御前でその重荷を密かに自分の心に負いながら、深い苦悩の祈りを注ぎ出すこととは、これとは全く別のはなしなのです。つまり、このようにして、主の助けとなることは、始めに言ったこととは完全に違うことです。


あなたの求めに応じて心を動かしてくれる人々、助けが必要な大きな働きに加わってくれる人たちは、大勢いるでしょう。しかし、上のように、神との霊的な交わりを持つことによって、あなたのたましいの中に、神がご自分の労苦を注がれることは、これとは別のはなしです。その違いを説明すると、ある場合には、客観的なものであり、つまり、私たちがある状態に陥って、そこに何らかの関心を持ち、それを取り上げますが、心は離れています。私たちは、そのことに関心を抱き、活力を注ぎ、持てるものを費やしはしますが、私たち自身にとっては客観的なものに過ぎません。そこにあるものは、それなりの働き、活動、証しではあります――ここで、証しということばは、形式的な意味で使っています。これとは、まったく別のものがあり、それは、私たちが、主の前で責任を負うということです。一章六節にある、『私たち』ということばに気が付いたでしょうか?ネヘミヤは、明白に、この出来事の一部であり、この出来事はネヘミヤの一部なのです。この状況のために働く中で、ネヘミヤが一貫して、『私たち』という言葉を使っていることに注意してください。ネヘミヤ自身は、この出来事から離れたところにいる、つまり、この状況を受け入れていません。このような状況になってしまったことに対して、彼には責任がありません。ネヘミヤは、明らかに、この全てを否認しているし、一瞬たりとも、こうなることに賛同していないのに、それでいて、ネヘミヤは、あたかも自分に責任があるかのようにこの状況の中に身を置いています。神がその全てを彼の扉の前に投げ出して行ったかのようにです。このことが、その心に強く迫っているため、ネヘミヤは、自分がこの状況とまったく関わりがないかのように外から眺めていることをせず、自分がこの状況と一体になっていると見なしています。それは、ネヘミヤ自身の重荷であり、彼は、神の御前に、この出来事を、祈りの中で、自分の責任としてその肩に背負い、この状況のために、身代わりの祈りを祈っています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: