[18]神とふたり
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
神の子供たちも、群衆の中で、主との交わりを失うことがよくあります。私たちの日々の暮らしは、心をかき乱すもので囲まれています!霊的な生活に、悪い影響を与えるものが、生活の中に満ち満ちています。いつも人と接していると、信者の霊的ないのちに悪い影響が及び、神との対話が損なわれることすらあります。
よく人に聞かれます。神の臨在をより強く感じ、神の御心をよりよく知るにはどうしたらいいのですか、と。私の答えは、もっと多く、神との交わりを持つこと、神と二人きりになり、神のみ言葉をじっくり、かみ締めることです。主のなさったことを思い、また、主の考えをよく理解しましょう。主に、あなたの悲しみと喜びを語ってください。主の前に静まり、天を見上げ、主のかすかな声を聞き、そして、愛する主の顔を見上げましょう。一日に、少なくとも30分(できればもっと長く)、主と二人だけの時間を過ごすべきです。家族や友人から離れ、聖書だけを持って、一人で荒れ野に向かい、岩の裂け目に一人で座るか、または、自分の部屋に閉じこもってください。主の前にひざまずき、静まって、父なる神と御子である主イエス・キリストとの交わりを持ってください。そうすれば、神の全能の力が、あなたの生活の中に現れます。主の臨在、主の栄光、主の愛、そして、主の喜びを、毎日のように経験することになるでしょう。
私の見るところ、今日の信者たちに大きく欠けているのは、神と二人だけで過ごす時間です。信者は、人間どおしの交わりは、とても大切にします。人としゃべることは好きですが、神と交わることを忘れています。エレミアが言ったこの言葉のようになれたら、その方がずっと良いことではないでしょうか、『私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました(15:17後半)。』空高く、昇ってゆく鳥は、他の鳥たちと群れていません。いつも、一羽だけで、はるか遠い空へと舞い上がってゆく鷲を見れば分かります。信者の霊的な生活が健康であるほど、付き合う仲間の数も少なくなるものです。その信者は、他の人たちと働き続けることは、もうできそうにありません。主だけが、その人の仲間となったのです。他の人たちとは、うまくやってゆけません。これが聖なるものの、孤高です!そんな神の聖者のことを、詩篇の作者はこう歌っています、『屋根の上のひとりぼっちの鳥のよう(詩篇102:7)。』その生活の中には、世に知られていない、ある種の静けさ、安定と平安があります。このような兄弟の中には、主の臨在が、はっきり現れています。この人たちの言葉、行動、考えの中には、『天なるもの』があります。彼らがこの世ではなく、天のものであることが、そこから分かるのです。この人たちは汚されていない、天の空気を吸っているようです。
世から離れている彼らには、清らかな空気が漂っています。これが人々の心を動かします。まさしく、『静寂が声に勝る』のです!とは言え、これを見て、古い時代の僧侶のごとく、人との関わりを断ち切るよう召されていると考えるのは間違っています。それが意味するのはただ、彼らが霊において世から離れていることです。事実、彼らは神とその御心を知り尽くしているからこそ、人を深く愛することができ、自分自身も愛されるのです。この人たちは、根本的に考えが違っているのではなく、むしろ、霊においては天の人でありながら、肉においては、主の愛とやさしさに満ち溢れています。それでいて、彼らは毎日、人との関わりから遠ざる時間を求めて、主との静かな時を持つことを大切にします。これこそ、真に祝福された生活と言えます!
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)
2016年3月23日水曜日
2016年3月21日月曜日
心から心への言葉[17]何をするにも、主に対してするように
[17]何をするにも、主に対してするように
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
信者は誰もが福音を伝える働きをするべきです。とは言え、すべての人が説教師となるよう召されているわけではありません。キリスト者の日々の働きは、何であれ、すべてが、神の働きであるべきです。ほとんどの信者は、外に出て働き、自分と家族を食べさせなくてはいけません。神のために働くものは、主に仕えており、その労働に対する報酬を受け取ります。彼らは、仕えるほどに、その働きとの関わりも深まり、喜びを持って打ち込むことになります。これに対して、一般の信者の状況は、ずっと込み入っています。彼らは、この世の仕事で手一杯になっています。仕事の虚しさから解き放たれる道があっても、自分と家族が生きて行くためには、そんな生活をやめるわけにはいきません。こうなると、そこに喜びなどありません。
これに加え、福音を伝える働きの中で、自分の行いに神の臨在を感じ取ると、人は、それが神の御業だと信じます。今日、子供の頼みごとを聞いたり、人の話しを聞いたり、職場に静かに座っていたり、台所で忙しく立ち回ったりと、この世の雑事に振り回される中で、姉妹たちには、神の臨在を感じることなど、とてもできそうに思えません。それでも、主は、私たち信じるもの、すべての父ではないでしょうか?『御父』と言う呼び名には、愛に満ちた思いやりと、優しい哀れみが込められています。神はどれだけ、私たちのことを気にかけていてくださるでしょう!
福音のために汗を流すものは、誰でも神の子供です。この世の問題に対処する人たちも同じです。主は、福音を伝えるものを助けてくださいますが、生活のことで精いっぱいのものにも、同じように、気を配ってくださいます。全てのはたらきの中で、神に会い、神の臨在を体験したいと望むなら、この言葉を覚えておいてください、『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3:23)。』これが、信じるものたちへの福音です!神を讃えましょう!神は、私たちが直接、おこなった労苦だけでなく、間接的な貢献も等しく、受け入れてくださいます。『何をするにも』という言葉は、私たちが神に仕えたいと願って行う、罪の混っていないすべての労働をさしています。したがって、子供の世話をする母親たちも、主のために働いていると考えてよいのです。家事をする妻たちも、同じように神のための労働を行っています。会社で働いて生計を立てている人、仕事で誰かを支えている人たちも、やはり、主のために働いていると考えることができます。何をするにも、主に対してするようにする。このことを、忘れないようにしましょう。
何をするにも、『おお、主よ、これはあなたのためにします!これをしているのは、あなたのためです、』と、主に向かって言えますように。こうすれば、この地上で行うすべてを、主に対してするものとして、聖化し、清らかに行うことになります。私たちは、あらゆることにおいて、主に仕えることが可能です。そして、はっきりと、なにか特別の働きに召されたときは、その中でも同じように、主に従順でありましょう。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
信者は誰もが福音を伝える働きをするべきです。とは言え、すべての人が説教師となるよう召されているわけではありません。キリスト者の日々の働きは、何であれ、すべてが、神の働きであるべきです。ほとんどの信者は、外に出て働き、自分と家族を食べさせなくてはいけません。神のために働くものは、主に仕えており、その労働に対する報酬を受け取ります。彼らは、仕えるほどに、その働きとの関わりも深まり、喜びを持って打ち込むことになります。これに対して、一般の信者の状況は、ずっと込み入っています。彼らは、この世の仕事で手一杯になっています。仕事の虚しさから解き放たれる道があっても、自分と家族が生きて行くためには、そんな生活をやめるわけにはいきません。こうなると、そこに喜びなどありません。
これは、主にある姉妹にとくに、よくあることです。主を愛する多くの姉妹は、仕えたい気持ちを持ってはいますが、家族がある以上、妻であり、母親でもあるのです。みな、掃除、料理、子供の教育と世話といったこの世の義務に時間を割かざるを得ません。このような仕事でほとんどの時間を取られてしまうので、思うように主に仕えることができない自分を見出すのです。こうして、女性たちは心に悲しみを抱えることになります。
福音のために汗を流すものは、誰でも神の子供です。この世の問題に対処する人たちも同じです。主は、福音を伝えるものを助けてくださいますが、生活のことで精いっぱいのものにも、同じように、気を配ってくださいます。全てのはたらきの中で、神に会い、神の臨在を体験したいと望むなら、この言葉を覚えておいてください、『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3:23)。』これが、信じるものたちへの福音です!神を讃えましょう!神は、私たちが直接、おこなった労苦だけでなく、間接的な貢献も等しく、受け入れてくださいます。『何をするにも』という言葉は、私たちが神に仕えたいと願って行う、罪の混っていないすべての労働をさしています。したがって、子供の世話をする母親たちも、主のために働いていると考えてよいのです。家事をする妻たちも、同じように神のための労働を行っています。会社で働いて生計を立てている人、仕事で誰かを支えている人たちも、やはり、主のために働いていると考えることができます。何をするにも、主に対してするようにする。このことを、忘れないようにしましょう。
何をするにも、『おお、主よ、これはあなたのためにします!これをしているのは、あなたのためです、』と、主に向かって言えますように。こうすれば、この地上で行うすべてを、主に対してするものとして、聖化し、清らかに行うことになります。私たちは、あらゆることにおいて、主に仕えることが可能です。そして、はっきりと、なにか特別の働きに召されたときは、その中でも同じように、主に従順でありましょう。
2016年3月15日火曜日
心から心への言葉[16]忙しい
[16]忙しい
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『忙しい』とは、よく使われる言葉で、誰でも知っています。しかし、主がくださる重荷は、軽く、荷いやすいものです。主は決して、かつげないほど大きな重荷を、人に背負わせることはありません。これは、私たちが霊的な理解を進めて行く上で、最も大切な真理です。この事実こそが、大きな慰めをくれるからです。キリスト者の中には、『私はとても忙しい、』とか、『私は忙しすぎる』、といった言い訳がすぐに口を突いて出る人がいます。彼らは、夜明けから日没まで働きづめで、休む時間もありません。彼らの重荷は、とても大きいように見えます。ここで言っているのは、いわゆる世俗の信者の日常生活のことだけではありません。主の『働き』に直接、参加している人たちにも、同じことが言えます。神の子供たちは、一日中、忙しくしていて、一人、静かに神と向かい合う時間がありません。これは、決して神の望むことではありません。主のために働く人たちは、朝から晩まで、魚を獲る網を投げています。網を繕う時間すらありません。これが、神の御心であるはずはないのです。
率直に言わせてください。このような忙しさのほとんどは、まったく不必要であり、何の役にも立ちません!神の子供たちには、忙しく立ち回ることをやめて、じっくり考えてもらいましょう。そんなに必死で働かなければ、仕事をやり残してしまうでしょうか?私が、少しでも手を休めたら、誰かの生活に支障をきたすでしょうか?こんなに忙しくしていることはないと思うのですが、私たちはいつでも、何かに忙殺されています。これは、サタンがそうさせているか、または、周囲の状況に求められているのではないでしょうか?周囲の状況とサタン、どちらも、過酷なものです!サタンは、ある時は引き、また、あるときは押すと言うふたつの戦略を使います。サタンは、霊的な成長を求める想いから、人を引き離そうとしたかと思えば、別の時には、過剰なまでに時間に追われる状態へと追い込みます。私たちの忙しさの多くは、実は、サタンの戦略かもしれないのです。周囲の状況に関して言えば、片時たりとも、その要求が止まることがあるでしょうか?一時間ごと、一秒ごとに、私たちに何かを求めてきます。周囲の状況が、私たちが働く上での尺度であると、考えることすら間違っています。
私たちの忙しさは、周りの状況が引き起こすものであって、まったく不必要です。キリスト者が働くとき、神の御心が完全な尺度となります。一日中、働きづめになっても、終わらないこの仕事は、神に頼まれたものですか?そうでなければ、なぜ、そんなにかかり切りになっているのでしょう?実は、私たちを手一杯にしているものの多くは、この世の瑣末で、意味もなく、必要もないことです。一日中、そんなことをさせるために、神は私たちを召したのでしょうか?日々、働くさまをじっくり、見直してみれば、時間配分を単純にし、自分が直接、関わる用件を減らすことができるはずです。よく言われるように、あまりに忙しすぎると、人の心は混乱し、内なる静けさを失うことになります。
『マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだしていた(ルカ10:40前半)。』主は、私たちが、ご自身の内なる静けさの中にあることを望んでいます。主は、マルタの妹、マリアが選んだ、良いほうのものを失って欲しくないのです(42節参照)。主の報償を受けるのは、多く働くものではなく、神の御心を誠実に行う者たちであると、心に留めておくべきです。主の御心にはないことで、たくさん働いても、何の益があるでしょう?『接待のことで忙がしくて心をとりみだす』のは良くないと言っても、それは、与えられた働きをしないということではありません。それが意味するのは、主の喜びのほうをより多く求めること、そして、主と交わる時間をもっと多く持つことです。簡単に言えば、日常のことではなく、祈りで忙しくありましょう。生活の細々したことではなく、代わりに祈りで精一杯の暮らしをすれば、ずっと多くのことを成し遂げられるでしょう。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『忙しい』とは、よく使われる言葉で、誰でも知っています。しかし、主がくださる重荷は、軽く、荷いやすいものです。主は決して、かつげないほど大きな重荷を、人に背負わせることはありません。これは、私たちが霊的な理解を進めて行く上で、最も大切な真理です。この事実こそが、大きな慰めをくれるからです。キリスト者の中には、『私はとても忙しい、』とか、『私は忙しすぎる』、といった言い訳がすぐに口を突いて出る人がいます。彼らは、夜明けから日没まで働きづめで、休む時間もありません。彼らの重荷は、とても大きいように見えます。ここで言っているのは、いわゆる世俗の信者の日常生活のことだけではありません。主の『働き』に直接、参加している人たちにも、同じことが言えます。神の子供たちは、一日中、忙しくしていて、一人、静かに神と向かい合う時間がありません。これは、決して神の望むことではありません。主のために働く人たちは、朝から晩まで、魚を獲る網を投げています。網を繕う時間すらありません。これが、神の御心であるはずはないのです。
率直に言わせてください。このような忙しさのほとんどは、まったく不必要であり、何の役にも立ちません!神の子供たちには、忙しく立ち回ることをやめて、じっくり考えてもらいましょう。そんなに必死で働かなければ、仕事をやり残してしまうでしょうか?私が、少しでも手を休めたら、誰かの生活に支障をきたすでしょうか?こんなに忙しくしていることはないと思うのですが、私たちはいつでも、何かに忙殺されています。これは、サタンがそうさせているか、または、周囲の状況に求められているのではないでしょうか?周囲の状況とサタン、どちらも、過酷なものです!サタンは、ある時は引き、また、あるときは押すと言うふたつの戦略を使います。サタンは、霊的な成長を求める想いから、人を引き離そうとしたかと思えば、別の時には、過剰なまでに時間に追われる状態へと追い込みます。私たちの忙しさの多くは、実は、サタンの戦略かもしれないのです。周囲の状況に関して言えば、片時たりとも、その要求が止まることがあるでしょうか?一時間ごと、一秒ごとに、私たちに何かを求めてきます。周囲の状況が、私たちが働く上での尺度であると、考えることすら間違っています。
私たちの忙しさは、周りの状況が引き起こすものであって、まったく不必要です。キリスト者が働くとき、神の御心が完全な尺度となります。一日中、働きづめになっても、終わらないこの仕事は、神に頼まれたものですか?そうでなければ、なぜ、そんなにかかり切りになっているのでしょう?実は、私たちを手一杯にしているものの多くは、この世の瑣末で、意味もなく、必要もないことです。一日中、そんなことをさせるために、神は私たちを召したのでしょうか?日々、働くさまをじっくり、見直してみれば、時間配分を単純にし、自分が直接、関わる用件を減らすことができるはずです。よく言われるように、あまりに忙しすぎると、人の心は混乱し、内なる静けさを失うことになります。
『マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだしていた(ルカ10:40前半)。』主は、私たちが、ご自身の内なる静けさの中にあることを望んでいます。主は、マルタの妹、マリアが選んだ、良いほうのものを失って欲しくないのです(42節参照)。主の報償を受けるのは、多く働くものではなく、神の御心を誠実に行う者たちであると、心に留めておくべきです。主の御心にはないことで、たくさん働いても、何の益があるでしょう?『接待のことで忙がしくて心をとりみだす』のは良くないと言っても、それは、与えられた働きをしないということではありません。それが意味するのは、主の喜びのほうをより多く求めること、そして、主と交わる時間をもっと多く持つことです。簡単に言えば、日常のことではなく、祈りで忙しくありましょう。生活の細々したことではなく、代わりに祈りで精一杯の暮らしをすれば、ずっと多くのことを成し遂げられるでしょう。
2016年3月5日土曜日
心から心への言葉[15]信じる者を助ける手
[15]信じる者を助ける手
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない(エステル4:13-14)。』
この一節を読む度に、私は大きな警告が発せられているのを感じます。エステルから見て、異邦人の兄弟であったユダヤ人たちは、この時代、大きな危機に直面していました。いずれ、絶滅させられる運命にあったからです。女王エステルの他に、彼らを救うことのできる人がいないのは明らかでした。モルデカイがエステルに伝えたことばは、まことに神の警告、兄弟を救う手立てを持ちながら、尻込みしているすべての人に向けられた警告と読み解くことができます。
神の御心は、ユダヤ人たちを救い出すことにありました。神はすでに、ユダヤ人たちを虐殺から救うことを決意されていました。神は、エステルに女王の位を賜り、ユダヤ人たちを救う手立てとして働くことを求めました。エステルが御心にかなわなければ、民を救い出すために、神は他の手だてを探すしかなかったでしょう。しかし、エステルは神の栄光を体験し、人を救う喜びを学びます。
今日、神の子供たちは多くのものを必要としています。霊的な欲求だけではなく、たくさんの肉体的な必要も抱えています。神に仕える多くのものが、全てを主のために捨てています。『彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません(第3ヨハネ7節)。』なんと、貧しい人たちだったでしょう。しかし、神は彼らの必要をすべて満たすと、約束されました(ピリピ4:19を参照)。神は、ご自身を信じる者に、辱めを受けさせることはないからです。これが、神の御心であり、決心です。
主は、用いる器をご自身で選ばれます。それは、主のために生きる、通りよき管です。神は、あなたや私に誉れをたまわり、ご自身が器として用いる人間を安全に守る力を、私たちに与えてくださいます。神の子供たちを助けるために何かを差し出すことは損失ではないし、また、誇りとすべきことでもないと、しっかり理解しなくてはなりません。事実、神は私たちを知っておられ、認めてくれています。主が、私たちを用いたいと望んでおられることは、大きな誉れです。神からこの栄誉を受ける機会を、見過ごすことがありませんように。それでも、私たちが応えることができなければ、『別の所から、助けと救いが起こる』ことになるでしょう。
主があなたを用いたいと思われているのに、あなたは尻込みしています。主には、他の手立てがないと思いますか?主には、いつでも、『別の所からの助けと救い』があるのです。しかし、主が他の助け手を探すことになれば、あなたは王に語りかける機会を失ってしまうのです。そうなれば、あなたが神の良い御心を敬っていないこと、主の好意を無にしたことが現れてしまいます。あなたは、自分が神の御心に応えられなかっただけでなく、御心を果たすために他の手立てを探すという、ご自身の望まない立場に、主を追いやることになります。
それでも、神は尽きることなく、支えてくださいます。主の御心とは、主の奇跡をともに行い、主の働きに加わる仲間として、私たちを迎え入れることにあります。しかし、私たちがすべて、失敗したとしても、主は天からマナを降らせ、預言者の食べ物を烏に運ばせてくださるのではないでしょうか(申命記 8:2~3、第一列王記17:4~6)?主ご自身が、『別の所から、助けと救いを起こす(エステル4:14後半)』ことができるのです。哀れなのは、私たちの方に、神と共に働く喜びと栄光を求める気持ちがないことです。主との間に秘めた交わりを守ってきたものは誰でも、主とともに働く大切さを知っており、報酬を受けています。主の心を知る者は誰でも、主の悲しみも知っています。
もし主が本当に、私たちの霊とたましいを分けるために、ご自身の言葉を使われ(ヘブル4:12を参照)て、霊の支配を経験させてくださるなら、私たちは確実に主の御心と一致することになります。主に取ってよいことは、私たちにとっても良いことだからです。神の子供たちがこの地上で行うことから、私たちが離れることはなく、気持ちはそこに向けられています。最後に、いつでもこの厳しい御言葉を心に留めておきましょう、『あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。』あなたの今の豊かさは、人に今日、与えよという、召しなのです。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない(エステル4:13-14)。』
この一節を読む度に、私は大きな警告が発せられているのを感じます。エステルから見て、異邦人の兄弟であったユダヤ人たちは、この時代、大きな危機に直面していました。いずれ、絶滅させられる運命にあったからです。女王エステルの他に、彼らを救うことのできる人がいないのは明らかでした。モルデカイがエステルに伝えたことばは、まことに神の警告、兄弟を救う手立てを持ちながら、尻込みしているすべての人に向けられた警告と読み解くことができます。
神の御心は、ユダヤ人たちを救い出すことにありました。神はすでに、ユダヤ人たちを虐殺から救うことを決意されていました。神は、エステルに女王の位を賜り、ユダヤ人たちを救う手立てとして働くことを求めました。エステルが御心にかなわなければ、民を救い出すために、神は他の手だてを探すしかなかったでしょう。しかし、エステルは神の栄光を体験し、人を救う喜びを学びます。
主は、用いる器をご自身で選ばれます。それは、主のために生きる、通りよき管です。神は、あなたや私に誉れをたまわり、ご自身が器として用いる人間を安全に守る力を、私たちに与えてくださいます。神の子供たちを助けるために何かを差し出すことは損失ではないし、また、誇りとすべきことでもないと、しっかり理解しなくてはなりません。事実、神は私たちを知っておられ、認めてくれています。主が、私たちを用いたいと望んでおられることは、大きな誉れです。神からこの栄誉を受ける機会を、見過ごすことがありませんように。それでも、私たちが応えることができなければ、『別の所から、助けと救いが起こる』ことになるでしょう。
主があなたを用いたいと思われているのに、あなたは尻込みしています。主には、他の手立てがないと思いますか?主には、いつでも、『別の所からの助けと救い』があるのです。しかし、主が他の助け手を探すことになれば、あなたは王に語りかける機会を失ってしまうのです。そうなれば、あなたが神の良い御心を敬っていないこと、主の好意を無にしたことが現れてしまいます。あなたは、自分が神の御心に応えられなかっただけでなく、御心を果たすために他の手立てを探すという、ご自身の望まない立場に、主を追いやることになります。
それでも、神は尽きることなく、支えてくださいます。主の御心とは、主の奇跡をともに行い、主の働きに加わる仲間として、私たちを迎え入れることにあります。しかし、私たちがすべて、失敗したとしても、主は天からマナを降らせ、預言者の食べ物を烏に運ばせてくださるのではないでしょうか(申命記 8:2~3、第一列王記17:4~6)?主ご自身が、『別の所から、助けと救いを起こす(エステル4:14後半)』ことができるのです。哀れなのは、私たちの方に、神と共に働く喜びと栄光を求める気持ちがないことです。主との間に秘めた交わりを守ってきたものは誰でも、主とともに働く大切さを知っており、報酬を受けています。主の心を知る者は誰でも、主の悲しみも知っています。
もし主が本当に、私たちの霊とたましいを分けるために、ご自身の言葉を使われ(ヘブル4:12を参照)て、霊の支配を経験させてくださるなら、私たちは確実に主の御心と一致することになります。主に取ってよいことは、私たちにとっても良いことだからです。神の子供たちがこの地上で行うことから、私たちが離れることはなく、気持ちはそこに向けられています。最後に、いつでもこの厳しい御言葉を心に留めておきましょう、『あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。』あなたの今の豊かさは、人に今日、与えよという、召しなのです。
2016年3月1日火曜日
心から心への言葉[14]何かが欠けている
[14]何かが欠けている
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
主イエス・キリストの御心は、私たちが完全になることです。『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです(エペソ5:26-27)。』これが、主の望まれることであり、主が定められた御心です。私たちは、この御心に沿った生活から遠く離れてはいないでしょうか?確かに日々、御心を追い求めてはいますが、目標から遠く離れています!主イエス・キリストは、私たちに完全なものになってほしいのです。この世さえも、私たちにそれを望んでいます。完全でなければ、キリストを喜ばせることも、たましいを主のもとに近づけることもかなわないからです。
私たちはおそらく、初めに信じたときより、前に進んでいるでしょうし、実際に大きく、進歩してきたと思います。それでもまだ、私たちの人格と行動には、数多くの小さなしみやしわがあります。聖書に書かれているこのことばと、なんら変わるところがありません、『死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる(伝道者10:1前半)。』死んだハエがどれだけ、たくさんいるのでしょう!よくこんなことばを耳にします、『あの人は本当に主を愛しているけど、気性があまりに激しい!』あるいは、『この人は熱心なのは確かだけど、自尊心が強いところがある。』人の香油の中に、死んだハエを見つけるのは簡単なことです!主が私たちの目を開き、自分の中にも、数多くの死んだハエがいることを、見せてくださいますように!
キリストの愛に満ちた心から、私たちは時に人を助け、救います。しかし、ほどなくすると、不安を覚えます。私たちが進む道に敵が攻撃をしかけるからです。主に用いられて、人を助けた時など、これは自分の手柄だと思いこみたくなります。あるいは、どれだけの苦難にあい、例え、死んでもよい覚悟で、異国に赴き、主に熱心に仕えたとしましょう。それなのに、故郷に帰ったとき、苦しみ、疲れきった自分に、愛する人たちの誰も、賞賛のことばをくれなかったら、地獄の炎が体の中で燃え上がります。ある時は、もう決して誰も批判しないと誓いを立てたのはずなのに、気が付くと人にこんなふうに言っています、『忠告しますが、もっと、主に祈らなくてはいけません。』また、別の時には、キリストの愛に動かされて、自分もすべての兄弟を愛することを決意しますが、いつの間にか、冷淡な態度をとるようになり、離れていたのだから仕方ないと言い訳します。ああ、日々の生活にどれだけの死んだハエがいるか、誰に分かるでしょうか!清くありたいと願うなら、このことを心に留めておくべきです。ベルゼブルとは、『ハエの王』と言う意味であり、サタンは隙あらば、私たちの生活にこのハエを送り込んで、霊的な成長への思いをくじこうとしています。
いつも、何かが欠けているのです。多くの間違いを犯しながら、その罪を告白しようとせず、また、主に自分を洗い流してくださいと頼むこともしません。それが、肉にとっては耐え難いことであり、大きな痛みをもたらすからです。サタンに立ち向かい、かつて奪われたものを取り返しましょう。そうすれば、気づかないうちにサタンに食い荒らされることはありません。ぶどう畑を荒らす小狐を捕まえましょう(雅歌2:15を参照)。
古いパン種を取り除き(1コリント5:7を参照)、あちらこちらにある、『少しの愚かさ』を消し去って(伝道者10:1後半を参照)、私たちの父が完全であるように、私たちも、完全な大人になりましょう。
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
主イエス・キリストの御心は、私たちが完全になることです。『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです(エペソ5:26-27)。』これが、主の望まれることであり、主が定められた御心です。私たちは、この御心に沿った生活から遠く離れてはいないでしょうか?確かに日々、御心を追い求めてはいますが、目標から遠く離れています!主イエス・キリストは、私たちに完全なものになってほしいのです。この世さえも、私たちにそれを望んでいます。完全でなければ、キリストを喜ばせることも、たましいを主のもとに近づけることもかなわないからです。
私たちはおそらく、初めに信じたときより、前に進んでいるでしょうし、実際に大きく、進歩してきたと思います。それでもまだ、私たちの人格と行動には、数多くの小さなしみやしわがあります。聖書に書かれているこのことばと、なんら変わるところがありません、『死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる(伝道者10:1前半)。』死んだハエがどれだけ、たくさんいるのでしょう!よくこんなことばを耳にします、『あの人は本当に主を愛しているけど、気性があまりに激しい!』あるいは、『この人は熱心なのは確かだけど、自尊心が強いところがある。』人の香油の中に、死んだハエを見つけるのは簡単なことです!主が私たちの目を開き、自分の中にも、数多くの死んだハエがいることを、見せてくださいますように!
キリストの愛に満ちた心から、私たちは時に人を助け、救います。しかし、ほどなくすると、不安を覚えます。私たちが進む道に敵が攻撃をしかけるからです。主に用いられて、人を助けた時など、これは自分の手柄だと思いこみたくなります。あるいは、どれだけの苦難にあい、例え、死んでもよい覚悟で、異国に赴き、主に熱心に仕えたとしましょう。それなのに、故郷に帰ったとき、苦しみ、疲れきった自分に、愛する人たちの誰も、賞賛のことばをくれなかったら、地獄の炎が体の中で燃え上がります。ある時は、もう決して誰も批判しないと誓いを立てたのはずなのに、気が付くと人にこんなふうに言っています、『忠告しますが、もっと、主に祈らなくてはいけません。』また、別の時には、キリストの愛に動かされて、自分もすべての兄弟を愛することを決意しますが、いつの間にか、冷淡な態度をとるようになり、離れていたのだから仕方ないと言い訳します。ああ、日々の生活にどれだけの死んだハエがいるか、誰に分かるでしょうか!清くありたいと願うなら、このことを心に留めておくべきです。ベルゼブルとは、『ハエの王』と言う意味であり、サタンは隙あらば、私たちの生活にこのハエを送り込んで、霊的な成長への思いをくじこうとしています。
いつも、何かが欠けているのです。多くの間違いを犯しながら、その罪を告白しようとせず、また、主に自分を洗い流してくださいと頼むこともしません。それが、肉にとっては耐え難いことであり、大きな痛みをもたらすからです。サタンに立ち向かい、かつて奪われたものを取り返しましょう。そうすれば、気づかないうちにサタンに食い荒らされることはありません。ぶどう畑を荒らす小狐を捕まえましょう(雅歌2:15を参照)。
古いパン種を取り除き(1コリント5:7を参照)、あちらこちらにある、『少しの愚かさ』を消し去って(伝道者10:1後半を参照)、私たちの父が完全であるように、私たちも、完全な大人になりましょう。
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