[18]神とふたり
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
神の子供たちも、群衆の中で、主との交わりを失うことがよくあります。私たちの日々の暮らしは、心をかき乱すもので囲まれています!霊的な生活に、悪い影響を与えるものが、生活の中に満ち満ちています。いつも人と接していると、信者の霊的ないのちに悪い影響が及び、神との対話が損なわれることすらあります。
よく人に聞かれます。神の臨在をより強く感じ、神の御心をよりよく知るにはどうしたらいいのですか、と。私の答えは、もっと多く、神との交わりを持つこと、神と二人きりになり、神のみ言葉をじっくり、かみ締めることです。主のなさったことを思い、また、主の考えをよく理解しましょう。主に、あなたの悲しみと喜びを語ってください。主の前に静まり、天を見上げ、主のかすかな声を聞き、そして、愛する主の顔を見上げましょう。一日に、少なくとも30分(できればもっと長く)、主と二人だけの時間を過ごすべきです。家族や友人から離れ、聖書だけを持って、一人で荒れ野に向かい、岩の裂け目に一人で座るか、または、自分の部屋に閉じこもってください。主の前にひざまずき、静まって、父なる神と御子である主イエス・キリストとの交わりを持ってください。そうすれば、神の全能の力が、あなたの生活の中に現れます。主の臨在、主の栄光、主の愛、そして、主の喜びを、毎日のように経験することになるでしょう。
私の見るところ、今日の信者たちに大きく欠けているのは、神と二人だけで過ごす時間です。信者は、人間どおしの交わりは、とても大切にします。人としゃべることは好きですが、神と交わることを忘れています。エレミアが言ったこの言葉のようになれたら、その方がずっと良いことではないでしょうか、『私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました(15:17後半)。』空高く、昇ってゆく鳥は、他の鳥たちと群れていません。いつも、一羽だけで、はるか遠い空へと舞い上がってゆく鷲を見れば分かります。信者の霊的な生活が健康であるほど、付き合う仲間の数も少なくなるものです。その信者は、他の人たちと働き続けることは、もうできそうにありません。主だけが、その人の仲間となったのです。他の人たちとは、うまくやってゆけません。これが聖なるものの、孤高です!そんな神の聖者のことを、詩篇の作者はこう歌っています、『屋根の上のひとりぼっちの鳥のよう(詩篇102:7)。』その生活の中には、世に知られていない、ある種の静けさ、安定と平安があります。このような兄弟の中には、主の臨在が、はっきり現れています。この人たちの言葉、行動、考えの中には、『天なるもの』があります。彼らがこの世ではなく、天のものであることが、そこから分かるのです。この人たちは汚されていない、天の空気を吸っているようです。
世から離れている彼らには、清らかな空気が漂っています。これが人々の心を動かします。まさしく、『静寂が声に勝る』のです!とは言え、これを見て、古い時代の僧侶のごとく、人との関わりを断ち切るよう召されていると考えるのは間違っています。それが意味するのはただ、彼らが霊において世から離れていることです。事実、彼らは神とその御心を知り尽くしているからこそ、人を深く愛することができ、自分自身も愛されるのです。この人たちは、根本的に考えが違っているのではなく、むしろ、霊においては天の人でありながら、肉においては、主の愛とやさしさに満ち溢れています。それでいて、彼らは毎日、人との関わりから遠ざる時間を求めて、主との静かな時を持つことを大切にします。これこそ、真に祝福された生活と言えます!
0 件のコメント:
コメントを投稿