[16]忙しい
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』
『忙しい』とは、よく使われる言葉で、誰でも知っています。しかし、主がくださる重荷は、軽く、荷いやすいものです。主は決して、かつげないほど大きな重荷を、人に背負わせることはありません。これは、私たちが霊的な理解を進めて行く上で、最も大切な真理です。この事実こそが、大きな慰めをくれるからです。キリスト者の中には、『私はとても忙しい、』とか、『私は忙しすぎる』、といった言い訳がすぐに口を突いて出る人がいます。彼らは、夜明けから日没まで働きづめで、休む時間もありません。彼らの重荷は、とても大きいように見えます。ここで言っているのは、いわゆる世俗の信者の日常生活のことだけではありません。主の『働き』に直接、参加している人たちにも、同じことが言えます。神の子供たちは、一日中、忙しくしていて、一人、静かに神と向かい合う時間がありません。これは、決して神の望むことではありません。主のために働く人たちは、朝から晩まで、魚を獲る網を投げています。網を繕う時間すらありません。これが、神の御心であるはずはないのです。
率直に言わせてください。このような忙しさのほとんどは、まったく不必要であり、何の役にも立ちません!神の子供たちには、忙しく立ち回ることをやめて、じっくり考えてもらいましょう。そんなに必死で働かなければ、仕事をやり残してしまうでしょうか?私が、少しでも手を休めたら、誰かの生活に支障をきたすでしょうか?こんなに忙しくしていることはないと思うのですが、私たちはいつでも、何かに忙殺されています。これは、サタンがそうさせているか、または、周囲の状況に求められているのではないでしょうか?周囲の状況とサタン、どちらも、過酷なものです!サタンは、ある時は引き、また、あるときは押すと言うふたつの戦略を使います。サタンは、霊的な成長を求める想いから、人を引き離そうとしたかと思えば、別の時には、過剰なまでに時間に追われる状態へと追い込みます。私たちの忙しさの多くは、実は、サタンの戦略かもしれないのです。周囲の状況に関して言えば、片時たりとも、その要求が止まることがあるでしょうか?一時間ごと、一秒ごとに、私たちに何かを求めてきます。周囲の状況が、私たちが働く上での尺度であると、考えることすら間違っています。
私たちの忙しさは、周りの状況が引き起こすものであって、まったく不必要です。キリスト者が働くとき、神の御心が完全な尺度となります。一日中、働きづめになっても、終わらないこの仕事は、神に頼まれたものですか?そうでなければ、なぜ、そんなにかかり切りになっているのでしょう?実は、私たちを手一杯にしているものの多くは、この世の瑣末で、意味もなく、必要もないことです。一日中、そんなことをさせるために、神は私たちを召したのでしょうか?日々、働くさまをじっくり、見直してみれば、時間配分を単純にし、自分が直接、関わる用件を減らすことができるはずです。よく言われるように、あまりに忙しすぎると、人の心は混乱し、内なる静けさを失うことになります。
『マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだしていた(ルカ10:40前半)。』主は、私たちが、ご自身の内なる静けさの中にあることを望んでいます。主は、マルタの妹、マリアが選んだ、良いほうのものを失って欲しくないのです(42節参照)。主の報償を受けるのは、多く働くものではなく、神の御心を誠実に行う者たちであると、心に留めておくべきです。主の御心にはないことで、たくさん働いても、何の益があるでしょう?『接待のことで忙がしくて心をとりみだす』のは良くないと言っても、それは、与えられた働きをしないということではありません。それが意味するのは、主の喜びのほうをより多く求めること、そして、主と交わる時間をもっと多く持つことです。簡単に言えば、日常のことではなく、祈りで忙しくありましょう。生活の細々したことではなく、代わりに祈りで精一杯の暮らしをすれば、ずっと多くのことを成し遂げられるでしょう。
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