2017年6月16日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第5回会合

T・オースティン・スパークス

『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合5 — 『霊とまことによって礼拝する』
Meeting 5 - "Worshipping in Spirit and in Truth"

第5回会合
(1964年2月5日午前)

この朝の時間、私が演説をしようとしているのではないことはご存知だと思います。私の目的はただ、あなたがたを神の働きの根本原理に導いて、これから後の会合で繰り返さなくてよいように、しっかり理解しておいていただくことです。主イエスの御許に立ち返るのは、容易なことではありません。使徒たちが世を去って間もないうちに、現在のキリスト教の中に見られる多くのものごとが始まりました。たとえば、イエス・キリストへの信仰の証しとして全身を水に浸ける浸礼の代わりに、幼児洗礼が行われるようになりました。これは、使徒ヨハネが主のもとに行った直後から始められたものです。

それからキリスト教は、『司教』と『大司教』、最高位である法王へと続く、聖職者による支配系統へと組織化されてゆきました。後のキリスト教で使われる祭服と儀式も同じ頃、始まりました。ある人たちに特別の権威が与えられましたが、それは彼らが霊的だったからではなく、他の理由がありました。この傾向は、使徒たちが地上での務めを終える前から、既に現れ始めていました。このことを心に留めることはとても大切です。最初に、生まれた信仰とは異なるキリスト教を私たちは受け継いでいるからです。


使徒パウロの最後の手紙と思われる第2テモテを取り上げてみます。もちろん、この手紙の中には、私たちが大好きなところが、数多くあります。第2テモテ2章15節は皆さんも好きな箇所です、『あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。』しかし、この言葉には私たちを変えようという意図があることに、気がつかない人もいます。これは、はじめにいた場所に戻るようにという呼びかけなのかもしれません。もちろん、『私の子よ、ですからあなたは、キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください』という御言葉も愛されています。しかし、それが、次のこの言葉とつながっていることが分かってはいない人もいます、『信仰の戦いを勇敢に戦いなさい(第1テモテ6:12)。』キリスト・イエスの兵士の戦いは、信仰の純粋さのための戦いです。すなわち、初期のキリスト信仰が持っていた純粋さです。第2テモテはこの真実の光の中で読まなくてはなりません。この手紙が書かれたのは、人々が神の家で正しいふるまいをしていなかったためです。この手紙を書いたのは、人々に神の家での正しいふるまいを理解させるためだと、パウロは語りました。神の家には、間違った振る舞いが見られたのです。ご存知のように、エペソの教会には、年長者として、テモテもそこにいたと思われます。そのエペソに対して、これはとても厳しい言い方です。エペソについて知っていることを思い出してみてください。それでもなお、パウロはエペソにおいてさえ、人々の振る舞いは、神の家においてふさわしいものではないと、述べたのです。

正さなければならない点については、後で、ふれようと思っています。しかし、今ここで、注意すべきは、このような初期にあっても、既にいろいろなことが、始めの場所から離れ始めていたということです。新約聖書の中で最後に書かれた手紙は使徒ヨハネによるものです。ヨハネが、全ての手紙とその福音書を書いたのは、他の使徒たちが皆、主のもとへと旅立った後のことです。ヨハネの手紙は、皆さん誰もが大好きなものだと思います。そして、ヨハネの福音書も、おそらく他の多くの書より、好まれているのではないでしょうか。しかし、ヨハネが書いた手紙の性質に、本当に気付いているでしょうか?初めの手紙を、ヨハネはこのような言葉で始めています、『初めからあったもの。』これは、全てを始まりへと引き戻すことばです。つまり、彼の手紙は、教理を正し、人格を正すために書かれているのです。このふたつは、初めの教えから離れつつあります。そしてまた、それらははじめの生活の基準から離れようとしています。さて、ヨハネはおそらくエペソに向けて書いていたことに気を付けましょう。黙示録になると、主はエペソから話を始めます。そして、エペソに向かって言われます、『あなたがたは初めの愛から離れてしまった。』あなたたちは初めにいた場所から遠ざかってしまった。もう何度も説明したと思いますが、新約聖書の最後の部分に書かれているように、一方では、物事は、初めの場所から離れ始めていました。そして、同時に、使徒たちは信者を始めの場所へと連れ戻そうと務めていたのです。

福音書が、新約聖書が作られた時代の最後の方で書かれたのはなぜなのか、私はずっと、不思議に思っていました。今ある新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネで始まっており、新約聖書におさめられた全書の中でこの4書がはじめに置かれていることから、この4書が一番、早く書かれたものであると思いがちです。そういう思い違いをしている方がいたら、ここで訂正させていただきます。4つの福音書は、ほとんどの書簡が書かれた後で書かれたものです。私はそれがなぜなのか、ずっと不思議でした。驚くべき啓示を受けた福音書の著者たちが、とりあえず、主イエスの地上での生活を描くことから始めようと思ったのはなぜなのでしょう?彼らは、よみがえり、引き上げられて、天に住まわれる主の御姿をその目で見ていたのです。彼らは、主の御体なる教会のすばらしい啓示を受けとっていました。いつでも神の助言を聞くことができたのです。ところが、彼らはこれら全てを受けた後で、3年半の主の地上での生活の様子を描き始めました。なぜそのようなことをしたのか、私は長い間、不思議に思っていました。私には、これは、天国から地上に降りるように、永遠の世界から有限の時間へと戻るように感じられました。私には理解できませんでした。そこで私は書簡に戻ることにして、何年もの間、書簡ばかりに没頭していました。私は、この神からの永遠の教えに心を奪われてしまいました。キリストの御体なる教会のことばかりを考え続けました。私はほとんど、新約聖書の後半に書かれたことの中だけに生きるようになりました。それでも、使徒書簡が書かれた後で、福音書(*)が書かれたことは、疑いようのない事実です。書簡のすべてではありませんが、そのほとんどが書かれた後のことです。今、話したように、私はこの質問の答えを求め続けましたが、長い間、答えは見つかりませんでした。福音書がなぜこんなに遅く書かれたのか、私には分かりませんでした。また、福音書はいくつかの手紙よりは後に書かれたのに、聖霊が福音書を新約聖書の最初に据えたことも不思議でした。

ここに、ひとつの霊的な原理があります。それは、御霊は必ずしも、出来事の起こる順番に重きを置いているわけではないということです。時間的な順番と、霊的な順序とは別のものです。お分かりでしょうか?聖霊にとって、大切なのは、霊的な順序です。ここが私の分からなかったところですが、この疑問には自分の経験の中で答えを見つけました。その後、御霊は、私を福音書へと引き戻してくれました。

さて、ここで、別のことをお話ししたいと思いますが、これは非常に大切なことです。聖書、とくに、新約聖書を読み始めたころ、私もほとんどの人たちと同じことをしました。4つの福音書をイエスの地上での生活、働きと教えを描いた物語として読んだのです。主がベツレヘムの町で小さな赤子として生まれたこと、羊飼いと賢者たち、そして、星のこと、実に興味深い物語りです。本当に興味が尽きません。また、その後、主がナザレの町で大工として成長されたこと。12歳の時、主がエルサレムの宮へと連れていかれたこと。そして、主がヨルダン川で、バプテスマのヨハネに洗礼を受けられたときの様子。そして、主は国の隅々まで行かれ、人々の病いを癒し、苦しみから助けました。そして、どこへ行くにも主の後には数え切れないほどの群衆がついてゆきましたが、それは、主が彼らに施した助け、多くは肉体的な癒しの故でした。このため、支配者たちはこのことに、大きな妬みを感じ、主を亡きものにしようと話し合いました。ここにあるのは、主が裁きを受け、十字架に付けられ、3日目によみがえったという驚嘆に満ちた物語です。これらのできごとはすばらしい史実です。もちろん、これは、私がこのように福音書を読んだということです。私は、主イエスの地上での生活を説明した一般向けの教科書、書籍ばかりを読んできましたし、確かに実に興味深い本で、私にとっては、それが全てでした。また、イエスが死んで再びよみがえった場面が、福音書の終わりであると思っていました。

ここで、使徒の働きを見てみましょう。ここで、使徒書簡の中に入ります!私は、今までのことがすべて間違いであることが分かってきました。誰でも、福音書を私のように読むことはあります。まだ回心していない人も、イエスの地上での物語を読んで、興味を覚えるでしょうが、私たちには、分かっていないことがあります。すなわち、使徒行伝という経験を通らないと、誰も福音書を本当に理解できないということです。それは、五旬節という経験です。弟子たちでさえ、五旬節を経るまで、真実をつかんでいなかったのです。地上でイエスがなされた働きと教えを、弟子たちは、五旬節が来るまで、理解していませんでした。このことを説明するだけで、今日の持ち時間が全部、終わってしまうかもしれません。弟子たちの心は、イエスの地上での生涯の中にしかなく、天国に対しては閉じていました。これが、主イエスが弟子たちのことで抱えていた問題でした。主は言われました、『こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか?』そして、その生涯全体を通じて、主の悩みは、自分の語ることを、弟子たちが理解していないことでした。

この霊的な盲目のために、主の十字架を、旧約聖書の約束の成就と見ることができず、弟子たちの心は乱れてしまいます。ご自身の死について、主はいつも弟子たちに説明してきました、『聖書に書かれていることが成就されるためです。』そして、その時が来ると、主は言われたのです、『これこそが私がいつも、あなた方に語ろうとしてきたことだ。』しかし、弟子たちには理解できず、そのため、彼らの心はかき乱されました。全ての弟子たちが主を見捨てました。弟子たちがどのように思っていたのか、エマオに向かう二人の男を見ると、分かります。この二人は主に言ったのです、『私たちは、これこそイスラエルを贖ってくださる方だ、と望みをかけていました。私たちの希望は全て、打ち砕かれました。私たちの信頼は踏みにじられました。』なんという盲目でしょう?主が二人の目を開くまで、彼らには何も見えていませんでした。私の言いたいのはここです。御霊を受けるまで、そして、キリストと共に死に、キリストと共に埋葬され、キリストと共に復活するという真実の深い経験を経るまで、誰も福音を本当に理解することはできないのです。なぜなら、その経験、教理ではなく、その経験こそが開かれた天をもたらすからです。復活してキリストとひとつになり、そして、御霊のうちにある新しいいのちを経験したとき、御霊は私を導いて、福音書へと引き戻し、福音の本当の意味を語り始めました。福音は新しいかたちで息をし始めたのです。これは、今から語ることへの備えでした。

さて、ここで、話を元に戻すことができますが、これは私たちの霊的な生活が求めるものであり、私たちは始まりに戻ることになります。ヨハネの福音書の第4章から始めることにします。この章には、ご存知のように、イエスがサマリアの女と交わした会話がおさめられています。会話の途中で、この女は、19節にある、次のような言葉を主に投げかけました。この章全体の中核となる部分は19節から24節にあります。『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』5章25節をめくってください、『まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』さて、この御言葉にどれだけ大きな意味が込められているか、皆さんはお分かりでしょうか。第一に、この言葉は、ここで、それまでの『神の摂理』が完全に変わったことを示しています。この時まで、エルサレムとサマリアが全てでした。つまり、エルサレムの宮とサマリアの宮が全てでした。これらの宮は、古くから伝わる秩序を象徴する場所だったのです。その場所が、サマリア人にとってはサマリヤ、ユダヤ人にとってはエルサレムにあるというだけの問題でした。あなたがユダヤ人なら、エルサレムがすべての中心でした。神を見出す場所はエルサレムの宮に限られていました。エルサレムの宮における秩序が全てであり、他の場所には、従うべきものはなかったのです。司祭たちといけにえ、祭壇といったものが置かれた宮こそが全ての中心でした。

ですから、上のことばは、サマリアの宮にいるサマリア人に向けられたものでした。その中で、イエスはこの驚くべき言葉を口にします。『それは、エルサレムでもなく、サマリアでもない、この特別な場所ではなく、あの特別な場所でもないという時が来ます。今がその時です。』何かが、どこか特定の場所を中心としたり、特別の場所の中にだけあるということはなくなります。神への礼拝はもはや、特定の礼式に沿って行われるものではありません。そういうことは、もう終わるのです!これは、一振りであらゆる『神の摂理』を消し去るようなことです。全てが、ひっくり返されます。想像してみてください。あなたは、大きな黒板いっぱいに、あらゆる教理と慣例、そして、zものごとがどう行われるべきか、自分が知っていることを全部、書き出しています。そして、こう言います、『さあ、これがキリスト教である。』そこへ誰かが、ぬれたスポンジを持ってきて、全てを消し去って、言いました、『これは意味のないことだ、こんなものは全く違う。』あなたはどうしますか?その人を十字架につけるでしょう。これが、イエスのしたことです。主は、それまで『神の摂理』と誰もが信じてきたことを、御手の一振りで全て消し去ったのです。そして、主は別のものをそこに置きました。主が置いたものは何でしょう?『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』

あなたが住む世界には現実として、古い制度も存在しているかもしれませんが、それは、必ずしも真実ではありません。象徴とか形式を表す制度に過ぎず、それは真理とは違うものです。あなたは表面に現れるもの、目に見えるものに心を奪われているかもしれない。持って生まれた耳で聞こえるもの、持って生まれた目に見えるものの意味を、全く理解できないでいるかもしれません。ここでいう意味とは、真理のことで、その中にある現実的な何かではありません。ユダヤ人にとって全ての中心は、割礼の儀式でした。それは、あなたがユダヤ人、真のユダヤ人であることを示す印しでした。割礼を受けていないものは、本当のユダヤ人とはみなされませんでした。使徒パウロは言っています、『割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。』これを、ユダヤ人が言っているのです!ユダヤ人たちがこの男を殺そうとしたことも驚くにあたいしないでしょう。しかし、それは本当に取るに足りないことであり、そして、愛する友よ、キリスト教においては、洗礼が、ここでいう割礼に相当します。儀式としての洗礼は、取るに足りないことです。エチオピアでは、コプト教徒と呼ばれるクリスチャンは毎年、洗礼を受けます。受けたければ、毎日でも洗礼を受けることができます。毎日、毎時間ごとに洗礼を受けようと、あなたの自由です。毎週、主の聖餐に与ってもかまいません。それにどんな意味があるか知らないまま、キリスト教の形式を取り入れることもあるのです。朝の研究会では、このことにも触れようと思っています。

私の持ち時間はここまでです。皆さんには必ず、お仕事に行ってもらうと約束しましたから、ここで、やめなくてはいけません。今日お話ししたことは分かっていただけましたか?もし、主のみこころなら、明日の朝、この話を続けたいと思います。イエスが、『わたしの言うことを信じなさい。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です、』と言われた時、それは、エルサレム、サマリア、アンテオケなど、どこか特定の場所である必要なかったのです。『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』ヨハネ3章16節は、誰にも当てはまる救いの言葉です、『御子を信じる者が、ひとりとして』とあるように、すべての者が救いの対象であり、救いへと召されています。このマタイ18章(20節)が語っているのはこれと異なり、教会に関わることです。教会については、やはり、誰にも当てはまる別の御言葉があります。この場所ではこうで、あの場所ではああだとか、この土台でこうだけど、あの土台ではどうだと言うようなことではありません。教会が土台なのではなく、キリストが土台なのです!ふたりでも三人でも、わたしの名において集まり、霊とまことにおいて礼拝するところならどこであろうと。『神の摂理』がここで、変わったのです。これこそ、今日、第一に、考え直さなければならない点です。キリスト教は、大いに律法的な制度となってしまいました。『そこでこうしなさい!その場所にいなさい!このやり方でしなさい、そうでなければ教会とはいえません。』主イエスは初めに、こういったことを全て、消し去りました。ここにあるのは、その後で生まれたものです。主は言われます、必要なただひとつの土台は、『霊と私へのまことにおいて』、これだけであると。キリストが、前からあった全ての制度に置き代わったのです。キリストがただひとつの制度です。しかし、私たちはキリストを学ばなければなりません。では、今朝はこの辺にしておきたいと思います。

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