ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。
第18日
悪い動機で祈ってはいけません
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:3)
人はいつでも、神に願うべきです。しかし、聖書には、そこにもうひとつの条件があると書かれています。悪い動機で願ってはいけない、ということです。『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブ4:3)神に自分の必要なものを頼むことは許されますが、正当な理由なく求めたり、自分に相応な範囲を超えて頼むべきではありません。神の前に、いわゆる、『大きな祈り』ができるようになるためには、数年間の学びが必要です。
霊的な生活が始まったばかりの頃は、大きな祈りと、悪い動機でする祈りを、はっきり区別することは難しいものです。初めの頃、最も良いのは、自分の欲望のままに祈ったり、切実な必要のないものを気まぐれに(不注意に)願ったりしないことです。神は、私たちの必要を満たし、本当に必要なものだけを与えてくれます。とは言え、神が私たちが頼んだものよりはるかに多くものを豊かに賜ることも、よくあります。しかし、若者が間違ったかたちで頼んでも、決して聞かれることはないでしょう。
悪い動機で願うとは、どういうことでしょう。それは、自分に相応な分を超えて願ったり、必要以上に願ったり、また、実際に求めるものよりも多くを頼むことです。
例えば、何か必要なものがあり、神にそれを与えてくださるよう、お願いするとしましょう。私は、自分の必要な分だけをお願いします。もし、必要ではないものまで願ったら、それは、悪い動機で求めていることになります。必要なものが多ければ、その大きな必要を満たしてくださるよう神に願うことは許されます。しかし、それ以上に求めてはいけません。神は、軽々しい祈りを聞くことを喜ばないからです。祈りは、必要に応じて計るべきであって、むやみやたらに捧げるべきではありません。
悪い動機で願うことは、4歳の子供が空の月を欲しがるようなものです。自分の必要をはるかに超えています。同じように、若い信者は、祈りの中でも自分の立場をわきまえることを学ぶべきです。たくさんの霊的な経験を積むまで、大きな祈りをすべきではありません。それまでは、自分の身の丈にあった祈りをさせましょう。実際に必要な範囲を超えて、口を大きく開き過ぎることのないようにしましょう。
人が何かを求めるとき、間違ったかたちで求めてはいないのに、それでも、聞かれないこともあります。何故でしょう。おそらく、そこに、本質的な障害物があるからです。それは、神と人の間に立ちふさがる罪です。
『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない(詩篇66:18)。』もし、心に罪があることを知りながら、その罪から離れられないなら、その人のことばは聞かれません。心にいだく不義があるとは、どういう意味でしょう。それはただ、その人の心の中に、捨てきれない罪があることを意味します。人がどれだけ弱くても、神はそれを許します。しかし、心の中に罪があることを知りながら、その罪を持ち続けようとするなら、それは、行いに現れる弱さよりも悪いことです。これが、心にいだく不義があるということです。
ローマ書7章に現れる人は、まったく違います。この人は、自分で自分が憎むことを行っていると、はっきり述べています。この人は、過ちを犯しましたが、その過ちを憎んでいます。しかし、心にいだく不義があるこの人は、自分の罪を捨てきれない男です。この人は、行いにおいても、心の中でも、その罪を捨てることができません。主は、このような人の祈りを聞くことはありません。その祈りが答えられることを、罪が妨げたからです。
新しい信者の場合は、とくに注意して、自分で気がついている罪を全て退けるようにすべきです。私たちは、神の前に清い生活を送ることを学ばなければなりません。罪の問題に対して、厳しい態度を取らなければ、その人の祈りは必ず妨げられます。罪は大きな問題です。生活の中の罪を容認してしまうために、祈ることができない人が多くいます。罪はただ、祈りの妨げとなるだけではなく、私たちの良心をも曇らせてしまいます。
罪の影響には、二つの側面があります。外面的には、神に対する影響があり、内面的には、自分に向けた影響があります。外面的には、罪は、神の恵みと、神の答えを妨げる障壁となります。『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』(イザヤ59:1~2)神の哀れみと恵みは、この世界でもっとも大きな力です。罪の他に、その前に立ちふさがるものはありません。詩篇にこうあります、『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。』(詩篇66:18)自分の罪と真剣に向かい合うことをしなければ、そこに、その人と神との間をさえぎる障壁が生まれます。何であれ、告白していない罪、血のもとに明らかにされていない罪があれば、神の前で、大きな障害物となります。それは、祈りが答えられることを妨げます。これが、罪の外面的な影響です。
内面的には、罪は人の良心を傷つけます。人が罪を犯すときは、どれだけ自分を納得させようと務め、どれだけ聖書を読み、また、どれだけ必死に聖書の中の約束と神が与えてくれる恵みにより頼もうとも、その良心は必ず弱められ、衰えることになります。人の良心は、船のようなものです(第1テモテ1:19を参照)。船が古くなっていくのはかまいませんが、難破してはいけません。船は小さくてもかまいませんが、穴が開いていてはいけません。同じように、良心にも破れたところがあってはいけないのです。良心が平安を欠いていたら、人の中でも神の御前でも、妨げが生まれるでしょう。
私はよく、信仰と良心の関係について考えます。信仰とは積荷のようなもので、良心は船のようなものです。積荷は船に載せられています。船が傾けば、積荷は落ちてしまいます。良心が強いときは、信仰も強いものです。しかし、良心に穴が開くと、信仰も漏れ出してゆきます。神の心は私たちの心より大きいのです。私たちが自分を責めるなら、神はそれよりもずっと強く私たちを責めるでしょう。これこそ、使徒ヨハネが私たちに語っていることです(第一ヨハネ3:20)。
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