2017年11月25日土曜日

ヴィルムヘルム・ブッシュ、『365日の主』4月5日

4月5日

週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。(ルカ24:1,2)

イースターの朝、イエスのなきがらに塗ろうと、女たちが携えて行った香料は、いったいどうなったでしょうか?おそらく高価なものだったと思われますが・・・・。

同じように、こんな疑問も生まれてきます。――取税人レビがイエスに呼ばれ、立ち上がって従ったとき、彼の山なすお金、出納簿などはどうなったか?

また、「放蕩息子」が父親のもとに帰ろうと出発したとき、彼が世話した豚はどうなったか?

エマオへ向かったふたりの弟子が、その目が開けて復活のイエスを認めたとき、彼らの夕食はどうなったか?彼らは「イエスは生きておられる」と他の弟子たちに知らせようと、あわててエルサレムに駆け戻ったのでした。



復活の主がゲネサレ湖でペテロに現れ、彼に服従と証人の務めをお命じになったとき、ペテロは綱や舟をどうしたでしょう?

実際、これらはみな、どうなったのでしょうか?我々は知りません。が、次のことだけはわかります。つまり、よみがえった贖い主がひとりの人間にご自分を現されると、それまで大切と思っていたものの多くはあとに残されるのです。

――古い友人、後ろ暗い関係、きよくない金銭取引、多くの悪習慣のきずな等々…。ちょうど、イエスが、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る考は、神の国にふさわしくありません」と言われたとおりです(ルカ9:62)。

主の贖いの御力、そして栄光に満ちたご臨在が、さまざまの古きなわめや価値よりも大いなるゆえに、多くのものはあとに残されるのです。

主よ!我らの心を完全に征服してください。アーメン


ヴィルムヘルム・ブッシュ、365日の主、いのちのことば社、岸本紘訳

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