2018年3月10日土曜日

神前有能[第28日]祈りと神のはたらき

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第28日
祈りと神のはたらき

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。(イザヤ62:6、7)

神が働くときは、特別な法と明確な原理を持って行われます。主は、御自身が望むままに何でもできるとはいえ、軽はずみに行動されることはありません。主は常に、御自身の明確に定まった法と原理に基づいて働かれます。主は、どのような法や原理をも超える存在であることは疑いもありません。この方は神であり、御自身の望まれるままに行動することが可能です。それでいて、聖書には実に驚くべき事実が記載されています。すなわち、全てを超える偉大さと、御心に沿って全てをあやつる力がありながら、なお、神はどんなときも、御自身で定められた法、原理に従って行動されます。あたかも、主は、意識して御自身を法の下に置き、御自分をこの法に支配させているように見えます。


では、神の働きの原理とは何でしょう?神の働きには、それを支える根本的(基本的)な原理があります。それは、主は、人が祈ることを欲している、人が祈りを通して、御自身と共に働くよう望んでいるということです。

あるところに、祈り方をとてもよく知っているキリスト者がいました。この人は、すべての霊的な働きには、四つの段階があると教えてくれました。第一の段階で、神がある考えを思いつきます。それが、神の御心です。第二の段階では、神がこの御心を、聖霊を通して神の子供たちに現し、これによって、神が御心、計画、要求と期待を持っていると知らしめます。第三の段階では、神の子供たちが、祈ることによって、御心を返します。祈りとは、神の御心に応えることだからです――私たちの心が、主の心と完全にひとつになっていたら、祈りの中で自然に、主が意図していることが、口をついて出るようになります。そして、第四の段階において、まさしくそのことを、神が成し遂げられます。

ここで、問題としたいのは、第一の段階でも、第二の段階でもなく、第三の段階、すなわち、どのようにして、神に祈ることによって、御心を返せばよいかということです。この、『返す』ということばに注目してください。価値ある祈りの中には必ず、この返すという要素があります。私たちの祈りの目的が、自分の計画と期待を実現することでしかなければ、霊的な面では、その祈りには大きな価値はありません。祈りとは、神から生じた何かに、私たちが応えるものでなければなりません。意味があるのはこのような祈りだけです。神の働きは、そのような祈りに支配されるからです。主が、行いたいと心から願いながら、信じる人々が祈らないために、実行せずにいることがどれだけあるでしょうか。主は、人の心が自分とひとつになるまで待ち、それから働きを始めます。これが、神が働く際の大きな原理であり、聖書に書かれているもっとも大切な原理のひとつとなっています。

エゼキエル書36章37節の御言葉は、実に驚くべきものです。主は、御自分には目的があり、それは、イスラエルの家の願いを聞き入れて、羊の群れのように人をふやすことであると言われます。これが、神のゆるぎない御心です。主は、一度すると定めたことは、必ず成しとげます。しかしながら、それをすぐには実現せず、主はしばらくの時間をおきます。このように待たれる理由は何でしょうか?主は言います、『わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。』主は、イスラエルの家を、羊の群れのようにふやすことに決めましたが、イスラエルの子供たちがこのことを願うまで、待たなければなりません。主御自身は、特定の何かを行おうと決意したとしても、それを直ちに実行に移さないことを理解しましょう。人間がそれに賛同する意思を表わすまで待ってから、主は先に進みます。主が働くときはいつもそうですが、ただ自分が望むからというだけの理由で、すぐに実行に移すことはしません。そうではなく、必要とあらば、人々が祈りの中で、その御心に賛同する気持ちを示すまで待ってから、行動を起こします。これは、間違いなく、何よりも驚くべき事実です。

この真実を常に心に留めておくようにしましょう。すなわち、すべての霊的な働きは、神が決定し、神の子供たちが願い求める――すべては神から発して、その子供たちが受け入れるということです。これは、霊的な働きにおける、大切な原理です。『イスラエルの家は、わたしに求めるべきである』と、主は言われます。主の働きは、イスラエルの子供たちが求めるのを待ってから始められます。そして、ある日、イスラエルの民は実際に求め、そして、主は遅れることなく、彼らの願うとおりに実行しました。

私たちは、神の働きの原理を理解しているでしょうか?何かを開始した後、主は、私たちが祈るまでその実行を停止します。教会が設立された時代から、神がこの地上で、神の子供たちの祈りなしでは、何を行うことはもありません。人が自分の子供となった時から、主はこの信じる者たちの祈りに応じて、全てを行われます。主は、すべてを彼らの祈りの中に込めています。私たちは、なぜ主がこのような行動をするのかを知りませんが、これが事実であることは知っています。神が願っているのは、子供たちを通して、御自身の御心を達成することを望むという、このような立場にまでご自身をおとしめることです。

イザヤ書62章では、このことが別のかたちで解説されています、『エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ』(6~7節、口語訳)。神の願いは、エルサレムが全地に誉を得ることです。どのようにして、これを実現されるのでしょう?神は、彼らが主に向かって泣き叫ぶことができるようにと、城壁の上に見張り人を置きます。なぜ、彼らが泣き叫ばなければならないのでしょう?『みずから休んではならない。主が、お休みにならぬようにせよ。』私たちも、主がお休みにならぬように、休むことなく主に向かって泣き叫び続けるのです。主が、その働きを成し遂げるまで、私たちは祈り続けます。主はすでに、この地でエルサレムを栄誉とされることを心に決めていましたが、それでもなお、城壁の上に見張り人を置きます。彼らの祈りに応じて、主は実行されます。主は彼らに、ただ一度だけでなく、絶えることなく祈り続けることを求めています。主の御心が成るまで、祈り続けなさい。言葉を換えれば、神の御心は、人の祈りに左右されるのです。主は私たちが祈るのを待っています。次のことを、はっきりと理解しましょう。神の御心の中身についていうと、それは全面的に神御自身が決定されます。私たちが、その決定をするのではないし、その決定に参加すらしません。それでいて、主の御心を行うことになると、これは私たちの祈りに支配されます。

かつてある兄弟が、神の御心が汽車だとすれば、私たちの祈りはその汽車が走る線路のようなものだと語ってくれました。電車はどこにでも進んで行けるとはいえ、線路の上しか走れません。大きな推進力をもって、東へ、西へ、南へ、そして、北へと向かってゆきますが、線路がすでに敷かれている場所へしか行けません。それは神に力がないからではなく(神は、汽車のように力、大きな力をお持ちです)、神が自ら、人の祈りに支配されることを選択されるからであり、このゆえに、全ての価値ある祈りが(汽車が走る線路のように)、神が通る道を踏み固めます。こうして見ると、もし、祈りの責任を負うことを拒めば、私たちは神の御心の達成を妨げることになります。

教会の歴史を読み通すと、偉大な信仰の復興(リバイバル)は、常に祈りから始まっていることに気づきます。ここから分かるように、祈りこそ、主御自身が望むとおり実現することを可能にするものです。私たちは、神に、望まないことをしてくださるよう頼むことはできませんが、主がしたいと思っていることを遅らせていただくことは、間違いなく許されています。神は絶対です。ですから、私たちは神を変えることはできませんし、神がやりたくないことを、無理にやらせることも、また、神がやりたいことを、思いとどまるように求めることもできません。それでもやはり、主の御心を伝える管となるべく召されながら、主と共に働くことを拒めば、私たちは疑いなく、神の働きを妨害することになります。

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